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祖父がインパール戦で観た「アジア解放の聖戦」の実態はと?

2020年09月28日 13時38分21秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
仏壇の棚を整理していたら、母方の祖父が亡くなった時に、戦時中のかっての部下たちからの弔問の手紙の束を見つかったのは、つい先週のこと。
 
「あのコヒマの激戦で栄養失調から眼が見えなくなり、ご尊父様からウルルク野戦病院に連れていってもらって命を長らえることができた・・・」と書かれた手紙を見つけた。
「インパール」は祖父の所属した部隊の戦記
 
祖父は戦争時中、2度の徴兵で最終的には陸軍輜重部隊の曹長であったらしいが、戦争について多くを語らなかった。
 
私が初めてインドに行った時、「じいちゃんも戦争でアッサムにいたことあるよ。」とか、「フィリピンには斧を跳ね返すような硬い樹があったよ。」と断片的な地名だけは話していた。
 
アッサムにいたなら30万の兵力を投入して19万の戦死者を出したビルマ戦線の中でも、際立って無謀極まりない作戦と酷評された「インパール戦」に従軍していたことになるが、コヒマはインパール戦最大の激戦区で、祖父はその最前線にいたのだ。
 
戦史と対応したら、コヒマからウルルクまでは標高2000~3000mの道なきジャングルを2週間歩く行程で、食料もなく、夏服しか持たず毛布も外套を持つことも許されなかった日本兵は寒さに震え、雨季で泥濘となった密林を這って歩いた。
 
その山道には餓死した日本兵の屍が累々と連なり、いつしか白骨街道と呼ばれた・・・涙が溢れた。
「餓死した英霊たち」は、太平洋戦争全体の戦記
 
栄養失調で動けなくなった戦友には、自決用の手榴弾を渡して置き去りにする事例が多発したようだが、祖父は眼の見えない部下の手を引き、背負い、或いは担架に載せて、「この世の生き地獄」の白骨街道を歩いて、無事に生還してくれた。
 
泥水を飲み、ヘビやトカゲ、昆虫、雑草など食えるものはなんでも食って、最後まで理性を保ち戦友を見捨てなかった祖父を、私は誇りに思う。
「名将宮崎繁三郎」のインパール戦の章は、コヒマで戦果を挙げて英軍にその勇敢さと卓越した武威を賞賛された新潟の高田師団の戦記
 
帝国陸軍の作戦指導は、食料は後方支援ではなく現地調達が基本。だから長引く戦闘で軍紀が乱れた部隊では強姦略奪が横行したし(元日本兵から直接聞いた話)、現地人からすると山賊と変わることなく反発され、ゲリラ化して攻撃されることもあった。
 
ただし「名将宮崎繁三郎」によると、宮崎中将は現地集落の外に部隊を野営させ、兵隊は村に立入禁止とし、食料の調達にはきちんと対価を払ったので、現地人と友好な関係を保った部隊もいたことは忘れてはならない。
 
そして太平洋戦争全般を通じた日本兵の戦死の内訳は戦域によって異なるが、餓死が半分~8割を占めた。
 
「名誉の戦死」の実態は、戦闘死より餓死が多かったのだ。
 
祖父は勲章をもらったそうだが、手柄話しなど一切しなかったし、見せてとせがんでも寂しそうに笑って見せてくれなかった。
 
祖父は毎朝、仏壇を拝んでは菩提寺の世話を献身的にしていたが、生き残った者の務めとして、戦没者の慰霊をしていたのかも知れない。
 
これが戦争体験者が観た「アジア解放の聖戦」の実態。
 
爺さんの墓参りをしよう。


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