淡路から天河へ、そして旅の最後に伊勢松阪の「松浦武四郎記念館」へリニューアル後の初訪問。
準備もふくめてほぼ1年がかりで製作した、「平成の大首飾り」の展示確認である。
記念館の目玉として強調したいとのことで以前より見やすい展示になったし・・・
採算度外視でつくったんだから「ぬなかわヒスイ工房製作」と表記して、宣伝に貢献しなさいよという厳命(!)も守ってあったw。
下手は下手なりに懸命につくってあるのが伝わってきて、よく頑張ったなぁと感慨無量。
松阪市の宝ができたと褒められたが、わたしにとっても243点の遺物を模造させてもらって勾玉つくりに多大な影響を受けた歴史的な作品。
武四郎の蝦夷地探検は、ゴローニン事件より40年ちかく後なので高田屋嘉兵衛との直接的な接点はないが、奴隷扱いをされていたアイヌ民族と対等に付き合った特筆すべき和人という点で共通しており、企画展ができるのではないかと山本館長をそそのかす。
武四郎と本居宣長の家は徒歩圏内ということもあり国学(こくがく・神道的な世界観の思想)は基礎教養であったろうし、最初の蝦夷地探検はロシアへの尊王攘夷の激情からである。
しかし同時代の平田篤胤や吉田松陰のように民族優越思想に凝り固まった征韓論を主張するような人物ではなく、旅先で世話になったアイヌ民族と和人の関係にすざましい憤りを感じた。銅像は最晩年の姿。
そして旅行記で和人の暴政を非難した。この「武四郎砲」が松前藩を刺激して命を狙われていた。人種差別とは無縁な嘉兵衛さんと武四郎は、ともに民族の枠組みをこえてアイヌ民族と良好な関係を築いた男。
文化面のオピニオンリーダーでありアイヌ語が堪能だった武四郎と、一代で築いた貿易商のタイショー(大将;ロシア人からもアイヌ民族からもこう呼ばれた)親分であり日常会話ならロシア語に不自由なかった嘉兵衛さんがタッグを組んだなら・・・と夢想する。