
Takが熱を出して、学校をお休みしました。
サンタさんからのプレゼント、「ナルニア国物語」を、累計2時間ぐらい読み聞かせました。
めっちゃ字が小さくて、緑内障の私にとっては、片目で読んでるに近くキツイのですが、Takも字が小さく、漢字が読めない、言葉の意味もわからない…ってんで、私が読み聞かせるしかないもんね。
それはそうと。
夜寝る前のこと。ベッドの中で、いろんな話をしながら、「お母さんの許せない人」の話になった。
過去に大変な実害を被って、今でもどこかで根に持っていて、「お互い様」と思えなくて、許す気にならない人というのが、何人かいる。
Takは、そのことを知っている。
家の中で話し相手がTakしかいない私は、いろんなことをTakに語ってきた。
「どうしてイヤなの? どんなことがあったの?」などと聞いてくるときは、私はできるだけTakにわかりやすく、自分の心の内を話して聞かせることにしている。
でも、2度も同じことを聞いてくるときには、
「お母さんもね、人を嫌いでいることは自分自身にとって良くないってわかってるのよ。
だけど、お母さんは、イエス様じゃないからさー。
どうしてもヤだなと思うことは、ぽぉ~ん!と遠くに投げて、自分の傍に置いておかないようにしているの、それで、思い出さず、考えなければ何もないのと同じことだもん。Takに説明するってことは、そのイヤなことを思い出して引き寄せるってことだから、言いたくないのよ。」
それでも、まあ、Takがもういっかいだけ聞きたいというので話した。
「うんわかった。おかあさん、○○さんのこと、許すって言って」
えっ……
「人を許せないと、自分がつらいんだよ。今○○さんを許すって言って」
……
誰なんだコレは、Takじゃないのか、、、
なんで今そんなことを今私に迫ってくるんだ、、、、
30秒ほどだったかなあ、私も真剣にこの突き刺さってきたTakの言葉に対峙した。
沈黙が続いた… ものすごく長い時間に感じた。
「うん、わかった。そうだよね。許すよ。」
「やったー。じゃあ、これでもう忘れたらいいんだよ。」

「ねーなにそれ、教会で教わってきたの??」
「そうじゃなくて、自分で今、思いついた。イヤな人のことは、許してから忘れるのがいいと思った。」
Takは、ホントに根にもたないヤツなのだ。
先日も、隔週土曜日の「エコサイエンスクラブ」で、上級生の男の子たちにからかわれて、とてもイヤな気持ちになって帰ってきたようで、「もう絶対やめる」と言っていた。かなり引きずったけど、それでも1昼夜。
「どんより」状態をいつまでも引きずるのは、体質的に耐えられないっちゅうのは私と同じかも。
でも、Takは私と違って、その都度「許す」のだ。「水に流す」。
私は忘れようとしているだけ…だったのだ。
「許す(赦す)」って、上から目線のような言葉だけれど、実は「自分を解き放つ」ための言葉。ホントに人の罪を許すことができるのは、神様しかいないよなー、、
Takは、以前にも、私が職場態勢についてのグチグチを話したとき、
「会話が必要や。むこうからできんのやったら、お母さんから話しかけたらええ。」
と言ったのだ。
お互いにハラの中で不満を溜め込んだままで、管理者と「歩兵」の間の大きな溝がどんどん深まっていっているとき。
子供ってものごとをストレートに正面から捉えるのだ。
Takに限ったことではないと思う。
だから、ものごとの核心がすぅっ…とわかるのではないかと思う。
私がたぶん幼稚園くらいの頃、両親が私の目の前で大喧嘩をしていたことがあった。
喧嘩の原因は全くわからないけれど、父が怒って、どこかに出ていこうとしているのを、母が「子供の前で!」と、必死に止めようとしているように私には映った。
そのとき私は、
「おとうさんも、おかあさんも、お互いにごめんなさいといって仲直りしたらええやん!!」
…といって、私も泣きながら必死になって父にしがみついたことがあったのを思い出した。
事態は急に収束に向かったような記憶…。
でっ、とにかく、私は「許すよ」と口に出して言ったのだ。
そしてほんとうに私の拘りは、溶けて消えていった。
数年~長いものは20年の。
あのときのTakは、神さまの化身のようだったなあ……
というところで、この話は切り上げます。
Takは今日も微熱だけど、TVを見る気力は取り戻しています。
昨日はTVも見ると疲れるといって、「読み聞かせ」を所望されたんだけどさ、今日も累計1,5時間ぐらいは付き合ってもいいかな~~(*^_^*)