ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【写】故宮博物院(北京)中編

2009年02月27日 22時08分02秒 | 撮影記録2008
●故宮博物院(北京)中編 撮影日 2008.10.21(火)
・=故宮案内図= は以下。
http://www.arabeijing.com/beijing-maps/html/gugong.html

・故宮の中心部『太和殿』までやってきました。こちらはいわば政務を司る皇帝の仕事場だそうです。
 
・中を覗くために、皆入口に殺到する。カメラを頭上に構えて必死の撮影。玉座がちらりと見えます。このような状況の中に、スリが紛れ込んでいることがあるそうなので注意が必要。
  
・見学していて一番目をひかれたのは屋根の細工の見事さです。部品の一つ一つに極彩色の見事な細工が。宮廷内の建物には全てランクがついていて、それに応じた装飾になり、こちらの太和殿が最上ランクだそうです。ランクが上がるほど、柱に描かれる動物の数が増えるのだとか。
 
・太和殿の脇の門を抜けて更に奥へ。
 
・いったいどこまで続くのか、呆れるほどの広さです。
 
・左が保和殿で右が中和殿。
 
・幾何学的に立ち並ぶ石柱。どうも一本一本図柄が違っているようです。
  
・一行は『保和殿』を目指す。

・防火用水を溜める水瓶。この水瓶にもランクがついていて、前編で出てきた物よりも高級な水瓶です。もともとは純金のメッキが施されていたのが、その昔侵略(?)された折に全て削り取られて持ち去られてしまったとのこと。

・保和殿前から後ろを振り返る。手前が中和殿でその向こうが太和殿。
 
・保和殿内の玉座。
 
・この写真だけ見ると、別な時代にいるような気になります。
 
・保和殿の脇を抜け、奥へ。右写真は『乾清門』。

・保和殿を裏から見上げた図。

・乾清門前にいる黄金の獅子。強面ですが、子供とじゃれあっている様子のようです。

・乾清門をくぐると見えてくるのが乾清宮。
  
・各建物にはそれぞれの役割があり、それについての説明もありましたが、もうどれがどれやらよく覚えていません。

(後編へ続く)
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⇒⇒⇒【旅】中国(秦皇島・北京)旅行 まとめ
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【本】哲学入門

2009年02月27日 08時01分03秒 | 読書記録2009
哲学入門, 三木清, 岩波新書(赤版)23(R8), 1940年
・日本哲学界におけるビッグネームによる『哲学入門』。これまで同タイトルの書籍はたくさん出ているでしょうが、その中にあって本書は一番のロングセラーではないでしょうか。内容については全く歯が立たず、その一割も理解できていないのではないかというところですが、さらっと通読するのではなく、一頁一頁じっくり考えながら読むタイプの本です。また、『哲学 "知識" 入門』でもなく『哲学 "経験"・"思考"・"雰囲気" 入門』、 本を開くと『哲学の薫り』が顔面を直撃する、そんな本。
・あまりにシンプルな巻末の著者略歴が異様。
・「哲学入門は哲学概論ではない。従ってこれは世に行なわれる概論書の如く哲学史上に現れた種々の説を分類し系統立てることを目的とするものでなく、或いはまた自己の哲学体系を要約して叙述することを目的とするものでもない。しかし哲学は学として、特に究極の原理に関する学として、統一のあるものでなければならぬ故に、この入門書にもまた或る統一、少なくとも或る究極的なものに対する指示がなければならぬ。かようなものとしてここで予想されているのは、私の理解する限りの西田哲学であるということができる。」p.i
・「すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基づく勇気を喚び起こすものでなければならない。」p.ii
・「或る意味においてすべての人間は哲学者である。言い換えると、哲学は現実の中から生まれる。そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである。」p.1
・「哲学は現実に就いて考えるのでなく、現実の中から考えるのである。現実は我々がそこにおいてある場所であり、我々自身、現実の中のひとつの現実にほかならぬ。対象として考える場合、現実は哲学の唯一の出発点であり得ないにしても、場所として考える場合、現実以外に哲学の出発点はないのである。」p.2
・「ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚してゆく過程が哲学である。哲学は現実から出立してどこか他の処へ行くのでなく、つねに現実へ還ってくる。」p.3
・「哲学者は全知者と無知者との中間者である、とプラトンはいった。全く知らない者は哲学しないであろう、全く知っている者も哲学しないであろう、哲学は無知と全知との中間であり、無知から知への運動である。」p.3
・「即ち人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立っている。この関係は人間と自然との間にばかりでなく、人間と社会との間にも同様に存在している。」p.7
・「「生あるものは外的影響の極めて多様な条件に自己を適応させ、しかも一定の獲得された決定的な独立性を失わないという天賦を有する」、とゲーテも書いている。我々は環境から作用され逆に環境に作用する、環境に働きかけることは同時に自己に働きかけることであり、環境を形成してゆくことによって自己は形成される。」p.8
・「人間も世界における一個の物にほかならず、その意味において我々の最も主観的な作用も客観的なものということができる。人間の存在のかような客観性を先ず確認することが必要である。真に客観的なものとは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。」p.12
・「カントに依ると、アルヒテクトニックとは「体系の技術」であり、知識は一つの理念のもとに、全体と部分の必然的な関係において、建築的な統一にもたらされることによって科学的となるのである。」p.23
・「常識は探究でなく、むしろ或る信仰である。常識は実定的なものであり、或る慣習的なものとして直接的な知識である。」p.34
・「科学は理由或いは原因の知識である。」p.41
・「科学性は合理性と実証性という相反するものの統一である。」p.47
・「弁証法という語はもと対話を意味するギリシア語の「ディアレゲスタイ」に由来している。対話においては互いに他を否定し得る独立な者が対立し、問答を通じて一致した思想に達すると考えられるが、そのように弁証法は対立するものの一致を意味している。」p.49
・「科学の根拠を明らかにすることが哲学の仕事であるとすれば、それには何か科学の科学としての立場においては不可能であるというものがあるのでなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって肝心なのである。」p.53
・「科学は分科的であり、専門的である。それが特殊科学とか個別科学とかといわれるのもそのためである。しかるに哲学は全体の学である。それは存在を存在として全体的に考察するのである。」p.53
・「かようにして哲学が主体的立場にたつというのは、要するに、現実の立場に立つということである。真に現実といわるべきものは歴史的現実である。人間は歴史的世界における歴史的物にほかならない。我々の一切の行為は、経済的行為の如きものであろうと、芸術的行為の如きものであろうと、或いはまた科学的研究の行為の如きものであろうと、すべて歴史的世界においてあるのである。」p.66
・「哲学は学の要求において科学と同じであり、科学の媒介が必要である。科学の客観的な見方は哲学の主体的な見方に対立するが、かように自己に対立するものを自己の否定の契機として自己に媒介し、これを自己のうちに生かすことによって、哲学は真に具体的な知識になり得るのである。哲学の仕事は、新カント派が考えたような意味での科学批判、即ち単に科学の論理的基礎を明らかにするという形式的な仕事に尽きるのでなく、科学的世界像に媒介された世界観を樹てることを究極の目標としている。」p.69
・「知識は如何にして成立し、如何なる性質のものかということは、哲学における一つの重要な問題である。この問題を研究する哲学の部分は認識論と呼ばれている。認識というのは知識というのと同じである。」p.71
・「真理とは普遍妥当的な知識にほかならない。普遍妥当性とは、時と処に拘らない普遍性、またすべての人が必ず承認しなければならぬ必然性を意味している。」p.72
・「近代科学の最も重要な方法は実験である。学問の方法として古代においてソクラテスが概念を発見したのに対して、近世においてレオナルド・ダ・ヴィンチは実験を発見した。実験はたんなる経験と異なっている。」p.95
・「しかるにまさに歴史が絶対的真理のないことを我々に教えるようである。知識はそれぞれの時代に相対的である。哲学にしても時代の子である。懐疑論も、絶対論でさえも、その時代の産物であるといわれるであろう。かように、すべてのものは歴史的に制約されていると考えるのが歴史主義の立場である。」p.142
・「一切のものは世界から作られ、世界を表現し、世界においてある。それらは多であって同時に一なるものとして表現的である。一切のものはそれぞれ独立でありながら互いに他を指示している。表現的なものは多様の統一であり、一即他、多即一ということを原理としている。表現的なものは超越的意味をもっている。」p.148
・「かようにして我々の認識は絶対性をもつことができるのである。もとより我々の知識に相対的なところがあることは争われない、しかし相対と抽象的に対立して考えられる絶対は真の絶対でなく、真の絶対とは却って相対と絶対との統一である。世界は歴史的創造的世界として、ヘーゲルの考えた如く、先験的に論理的に構成され得るものではない。我々の認識作用も歴史的創造的であり、既にある真理をただ発見するというのでなく、恰も機械が我々の発明に属する如く、発明的なものである。」p.148
・「行為に関する哲学的考察は、実践哲学、或いは道徳哲学、或いはまた倫理学と呼ばれている。」p.167
・「すべての道徳は、ひとが徳のある人間になるべきことを要求している。徳のある人間とは、徳のある行為をする者のことである。徳はなによりも働きに属している。」p.185
・「我々は社会から作られたものであると共に社会は我々が作るものである。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。かように矛盾があるところから形成的発展ということがあるのである。善い国民であることと善い人間であることとが統一されてゆくに従って、民族は世界的意味をもってくる。それによって同時に世界は世界的になってゆく。世界が世界的になるということが歴史の目的である。世界は開いたものとして到る処中心を有する円の如く表象されるように、世界が世界的になるということは無数の独立なものが独立なものでありながら一つに結び付いてゆくということである。それによって個別的なものがなくなるのではない。却って「形の多様性」は自然の、歴史的自然の意思である。」p.198
・「そして一般に知識の目的が真理であるように、道徳的行為の目的は善と呼ばれるのである。そこで善とは何かということが道徳の根本問題になってくる。」p.199
・「人間は与えられたものでなく形成されるものである。自己形成こそ人間の幸福でなければならぬ。「地の子らの最大の幸福は人格である」、とゲーテはいった。我々の人格は我々の行為によって形成されてゆくのであるが、それは単なる自己実現というが如きことではない。(中略)人間には超越的なところがあり、人格というものも人間存在の超越性において成立するのである。」p.208
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