ロウきゅーぶ!SS 第12話「智花(キミ)がいるだけで」 とまとめ △(+)
世界にひとつだけの花
あれだねえ最初は実力・資格ともに「公式戦」すら望めなかったのだから
それがここまでこられただけでも達成感はあるな
「小学生は最高だぜ!」とか「それが言いたかっただけだろ!」って思っていたけど
ちゃんと責任を取ってここまで持ってきてくれたのはえらいとおもう。
ぴかぴか妖精達がコートを舞う姿はアニメにする功徳が充分あったかと(風呂のシーンもあるしなw)
こうやって考えると「何かが始まるハナシ」として「小学生」を用いていたのは
実に都合がよかった気がするね、「高校生」とかが失敗するのはかまわないのだけど
「何かを始める」にはノンキすぎる気もするからね、あと「風呂」に(r
そんな感じで慧心のバスケスタイルらしく、前期まで含んで実に行き届いたおはなしだった思う。
ややもすると「小学生は最高だぜ!」のフレーズに引っ張られてしまうけど
終わってみると実に礼儀正しいおはなしだった、それゆえにココロに残らないともいえるけど
もしかするとそうふるまうことによって「幼女趣味」に対する非難をかわす為の処置だったの
かもしれないね、まあ考えすぎか。
幻影ヲ駆ケル太陽 第13話 「太陽の微笑み」 とまとめ △+
沈まぬ太陽
あかりも含めて4人の娘がキチンと試練をクリアして次の試練に望む姿が美しかったかね
その試練が女の娘のキャラクターをあぶり出しにするという基本的なしかけ。
試練を重ねて一番最初のうやむやだった案件にケリをつける清々しさがよい
こういう抽象度の高い女の娘の方が「ストーリー」を動かしやすいのかもねえ
あと世界観を掻き回すクリーチャーにやたら労力を払わなくていいのも利点かもな
かねがね思っていたことだけど「タロットカード」ってなんか気色悪いやつのほうが
霊的な力が籠もっていそうな気がしていたのだけど、この作品をみてその理由がはっきり分かった
「陰」と「陽」の関係性みたいなものなのね、あれって
この作品も女の娘の画が両面性を有していた気がする、「まどマギ」も同じ傾向だった
この物語も僕らがさんざ愛でている「少女」が何と接しているかを暴き立てて
そしてその上でそれを乗り越えていける強さがあることを存分に示してくれたかと
最後の女の娘が仲良く寄り添っている画で救われない世界はないだろうねえ。
ファンタジスタドール 第12話 「希望うきうき みんなきらきら」 とまとめ △+
あなただけ見つめてる
思うのだけど1枚のカードの機能が限定されているカードゲームって一つのカードやデッキに拘らずに
周りの状況に応じてそれらを変化させて、その上でデッキ構築やプレイで
最善のを選択できる人が強いって気がするのですね
それに対してアニメとか漫画のカードゲームの主人公ってたいがい頑なにおんなじカードしか使わない印象
「このカードは誰にも渡せない!」って感じで、個人的にはあれって2流の考え方だと思うのですね
私がこの手の作品が好きになれない理由のひとつです。
「ファンタジスタドール」は「カード」が拡張性が高くて「交換」が損なわけね
だから自然とカード(ドール)に愛着がわくしもし「奪取」されたら被害がデカい
今回はあんまりなかったけどもし取った取られたをもっとやってたら見ててつらかったに違いない
ただ「友愛・固執」が明らかに「得」な状況で果たして真の「友愛。愛情」が描けうるのか、それはかなり困難なこととおもう。
まあ、女の娘やドールがかなりぴかぴかでもふもふなセカイだったからね、あんまし野暮をいうのもはばかられる
「ちょっと特別なお友達とのちょっと特別な日々」、それで充分なのもしれないねえ
カードゲームにちょっとハマった人間のヒネた意見でそれが壊せるわけもないか。
神のみぞ知るセカイ 女神篇 第12話 「初めて恋をした記憶」 とまとめ △++
ただ泣きたくなるの
「女神」とか「再攻略」とかゲーム的側面を強くしながらその裏で
「何の関係も無い」あゆみとの「リアルな」あれやこれやが、痛切。
そう、神にーさまが唾棄している「現実」なんだろね。これが
フラグもイベントも無しにただ側にいるだけでいつの間にか何となく好きになっている、という
そのあたりのことをエルシィまでハブいて徹底してやったのに頭が下がる。
そしてそういうフラグもイベントも無いハナシこそが一番「記憶」に残るのだよね
神にーさまやあゆみが傷ついて、そして僕らの脳裏には記憶が刻まれる
バッドエンドもグッドエンドも無いけれど記憶だけは残ってく
ゲームみたいに女の娘を口説くおはなしにそうでない娘がいたって記憶
その娘がとても綺麗な涙を流していた記憶
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