<物語>シリーズ セカンドシーズン
第12話 囮物語 なでこメドゥーサ 其ノ壹 △+
蛇(クチナワ)って「目的に向かって真っ直ぐに進む」ってイメージがあるんですね、個人的に
足がついている生き物とは違ってその足を使って「寄り道」を楽しまないともいう。
いきなりゴール地点から近いハナシの冒頭部が撫子らしくないというかかえってらしいというか
あるいは「課程」が存在せず、いきなし「結論」ありきなのが現代っ子なんかもねえとか大人ぶってみる
さて、「途中過程」が愉しく無さそうな「物語」ってのはどうなるのかねっていう「楽しみ」があるね
どうなることやら、ヒネてて大変だ「蛇」だけに。
サーバント×サービス 第12話 一寸待て 慣れと油断が 命取り ○
はせべとルーシーの「裏」で千早さんのハナシが進んでるね
まさに「サーバント×サービス」って感じで
塔子ちゃんも込んで「ちょっともどかしい」が第三者には愉しい。
肝心のデートはというとはせべの手際の良さとルーシーのおぼこいさの
ギャップがよいね、服装のこともあるけど「心がおっつかない」ことの
もどかしさを茅野さんが上手く演じている。
で、こんだけだと長谷部の一人勝ちだから最後の
ざまぁ m9(^Д^)9m
なのねw
ま、個人的に長谷部が嫌いってワケじゃないけど
それとは別になんかそういう気持ちには喝采が送りたくなるww
大人になると普段はいい人づらで表に出さない気持ちを掘り起こすのがうまいこった
進撃の巨人 第24話 「慈悲 - ストヘス区急襲 2 -」 ○
戦闘シーンについてはもう実際に視てもらう他はないねえ、そういうデキ
他にも見るところがえげつなくある、兵長だけがしゃべり続けるリヴァイ班の寂寥感とか
巨人と人間が戦っているところにのんびりと佇んでいる猫を一瞬さしはさむ冷静さとか
エレンの浮気調査をしているミカサの怖さとか
あれなんか、1シーンに1つ面白いことをしないとシンジャウ病とかかかってるのかと疑わしくなる
当作品を視聴したあとだとなんか他のがスカスカに見えるから困るというか。
銀の匙 第11話「走り出せ、八軒」 とまとめ △++
しかしまああれですよねえ、どうしてこんだけどこもかしこも
「学校」で特に何もせず「部活」にいりびたるハナシになったのかね
しかも現役で学校に行ってる人ばかりでなくもうとっくに社会に出ているいい大人が視聴してる状況
三好さんみたいに未練があるのかねえ、あっちは大学院だけど。
「エゾノー」ってのはそういう「何をしてもいいけど何にも無い」当邦における『学校』って場に
「社会との架け橋」って役目があったのを「思い出させてくれる場」ってのを提供してくれたね
あと青春の汗も労働の苦労も喜びも食べることも屠(ころ)すことも「生きる」こともだ。
このおはなしは確かに「ある」モノでほとんどできあがっている
そのナマっぽさは「現実」に生きていると忘れてしまうことを
拾い上げうるほどの「つくり話」の強靱さでできあがっていたかと
そして学校で踊りを踊るハナシや妹を愛でるハナシばかりでなく
「こういうのもアリ」ってことを提示してくれていることもまことに貴重で有難いハナシだと思う
そう、このおはなしは「ありがたい」のよ、だからこそ手を合わせ感謝の言葉を、ありがとう。
銀河機攻隊マジェスティックプリンス 第24話 「宇宙に散る花」 とまとめ ○
「ロボットもの」って好き?
そろそろ誰かが「ロボットもの」やらないとスーパーロボット大戦もネタが切れかねないからねえw
何て冗談をいうまでもなく、当邦においてこのジャンルはだいぶん廃れてしまったのだけど
いいタイミングでこの作品が出てきたと思う。
「翠星のガルガンティア」はSF色が強くてロボットものとしてはちょっとだし
「革命機ヴァルヴレイヴ」ははっちゃけすぎだw
機械のデカブツがどかーん、ばーんってやるのが基本のあり方で
それが最後までゆるぎなくやってくれたのがまずは嬉しかった。
「ザンネンさ」ってのは「生きて」いる上でいかんともしがたい「何か」であって
それは「遺伝子」にとってみればそれこそ「不要」なモノなのだろうけど
そこが逆に救いになっていた気がする。「遺伝子」(設定)の虜になるのでなく
「生きていくことの意義」を残酷なこともある世界の中でゆるぎなくおさえていた彼らだからこそ
生き残ることができたのかもしれない、そしてこの作品の後にもまた別の「ロボットもの」に
繋がっていくのかもしれないね。
犬とハサミは使いよう 第12話 犬とハサミは使いよう とまとめ △(+)
しかしまあなんで皆さん「ビブリオもの」だと「探偵業」のマネゴトをすんでしょうねえ
「本」について自分の蘊蓄をえんえんと語ってればいいじゃんって素人は思うけど
ああ、でもそれだと単に「書評」になっちまうか
そして「ミステリ」は「物語・エンタテインメント」の王者だから、こぞって皆その道を辿るわけなのね。
この作品はそういう「ビブリオもの」が抱えていたあり方の退屈さの病に
身をこじらせちまった鬼の子という印象を受けた。
最終回を見ればまあ分かるのだけど、エゾノーの活き活きした生活とは対照的に
「作家」ってのはきほん机に座ってカリカリやってたまににどMの編集をいじるだけの退屈な毎日なのね
夏野霧姫(秋山忍)ってのはそういう幻想をぶち壊すためにこしらえられたキャラだったのかとおもう。
ただ、その反乱はまあまだ構造を打ち破るほどに壮絶なものであったかというと、どうかねえ
この物語も「ラノベ」の枠で消費されてしまうのがいいとこだったんでないかと
それとも「色欲」が完成するころにはその域まで到達してるんですかね。
神さまのいない日曜日 第12話 「三年四組 III」 とまとめ △+
いっぺん、死んでみる?
だいぶん最後の方は生きてるんだか死んでいるんだか分からなくなってきたねえ
ことあるごとに誰かを「銃殺」して「お前は死んでいるんだ!」ってやっていたけど
視聴者からすれば「ああ、またやってら、ハハ」ってなものだよね
それに加えて超能力的なやつからなんからが加わっていよいよ死生観がねじ曲がることが甚だしいかと。
別に批判を行いたいワケではなくて萌える娘とイケメン君をだして学園に閉じ込めるのが
もう恒常化してるってことなんだろね、それこそがカミサマが「失敗した」って言って
おっぽりだしたセカイ。でも、そここそがアイやその他の人達が「生きていく」セカイなんだよね
最後にアリスが生きていたのはそんな理由なんかなと個人的にそう理解してます
「生きている」ワケではないのだから本来「生」が有する「穢れ」を有さず
それゆえ少年少女達はますます美しく、「生」も「死」も曖昧(アイマイ)だから「善」も「悪」も
勇気をもって決めることは出来ない、それゆえハナシはますますファンタジーっぽくなっていく、と。
こうして「不死身ファンタジア文庫」って悪い冗談ができあがるワケなのね
「読み物」と「不朽の名作」の間に人形のような少女と不死者がさまよっているのだ。
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