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「あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、
その塩は何によって塩味が付けられよう。
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、
人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。
山の上にある町は、隠れることができない。
またともし火をともして、枡の下に置く者はいない。
燭台の上に置く。
そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、
あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」
マタイによる福音書5章13節〜16節
青山学院のスクールモットーは、
イエス・キリストの山上の説教と言われる中にある、
「あなたかたは地の塩、世の光である」
マタイによる福音書5章13節
です。
この箇所は、とても有名で、
聖書を読んだことのない人でも一度は聞いたことがあると
思うようなフレーズです。
わたしはここの卒業生ではないので、
ただHPからそのモットーの裏にある
学校の姿勢、理念を読ませていただくだけなのですが、
この聖書の箇所は、
他の数校でも、
スクールモットーとして取り上げられています。
日曜日の教会学校の聖書の箇所がこれで、
わたしはその聖書の箇所からお話をする責任があり、
もう一度この箇所を読んで色々黙想しました。
一番心に留まったのは、
「あなたがたは地の塩である(マタイ5:13)」
「あなたがたは世の光である(マタイ5:14)」
の語尾の部分です。
ここでイエス・キリストは、
彼を信じる特定の人たちだけに向けてではなく、
群衆に向かって話されています。
イエス・キリストに対して、プラスマイナス、
まちまちの思いを持って
話を聞きに来ている、
いわゆる雑多な群衆に向かって
「あなたがたは地の塩である」と言われてるのですね。
彼らに向かって
「あなたたちは地の塩となりなさい」
と勧められたのではなく、
「あなたがたは地の塩とならないといけない」
と命令されたのでもなく、
「あなたがたは地の塩となるであろう」
と未来のことを言われたのでもなく、
ただ、
「あなたがたは地の塩である」
と断定し、宣言されているのです。
これが、ここの一番大きなポイントではないかと思いました。
もう、今のままで、このままで
「あなたがたは地の塩なんだよ」と言われてるのです。
なんの条件もないのです。
「〇〇したらこうなれるよ」とも言わず、
「頑張ってならないといけないよ」とも言わず、
いろんな境遇の人たち皆に向かって、
はっきりと
「あなた方は地の塩である。世の光である」と宣言されたのです。
わたしたちはどうしても
条件付きで言われるのに慣れています。
「これを自分がやったら」、「自分が頑張ったら」、
と思いがちです。
そうではなく、神様が創造の最初から、
神様ご自身に似せて造られたものとして、
人をそのように存在たらしめてくださってるのですね。
塩は、
ここであらためて書くこともないくらい、
大きな存在のものです。
使うことで姿は消えますが、
食材の味を引き出し、引き締め、
味わい深くしてくれます。
お正月に作ったぜんざいも、
砂糖だけでは甘さは際立ちません。
少量の塩を入れることで
甘さが際立つことはよく知られていることです。
また、一定の塩分は
身体を維持していくためになくてはならないものです。
さらに、
塩は腐敗を防ぎ、食材を保存していくのにとても有効です。
「地の塩である」という存在のわたしたちは、
自分自身は姿が見えなくなっても、
周りを生かし、
世の腐敗を止めていける存在だということです。
一方、「世の光である」との宣言はどうでしょうか。
クリスマスに確認した
「わたしは世の光として来た」と言われた
イエスキリストの言葉を受けて、
わたしたちはその光を反射させる存在であると知らされます。
太陽のように自ら放つ光ではないけれど、
太陽の光を受けて、
美しく輝く月のような存在なのですね。
暗闇は、ただ危険だというだけではありません。
真っ暗闇に一定時間閉じ込められた人は、
精神的にも大きな負担を感じて恐怖心も増大し、
心を病んでいくと言われます。
光が、ほのかな光であっても存在し、
暗闇を照らしていたら、
わたしたちはなんとか家路につけますね。
光は人が生きていくときに、塩同様、
本当に大事な存在です。
主イエスは、
わたしたちをそんな存在であると宣言してくださってます。
むしろ、
そんな存在のわたしたちが、
「塩気をなくした塩」、
「ますの下に置く光」とならないように、
というのがイエスのもう一つのアドバイスです。
自分のそんな存在を
「役に立たないもの」としてしまわないように、
「地の塩である」
との言葉を真正面から受け止めないでいてしまうことこそ、
塩気をなくした塩となってしまうのだろうと思います。
また、「枡の下に置く光」もそうです。
自分という存在を過小評価して、隠れてしまうというのも
神様のみ心ではないですね。
主イエス様の言葉をそのまま受け取り、
その置かれたところで、
日々の生活を送っていく時、
そのまんまで
「天の父、神様の栄光を表す」
存在となっているということなのです。
最初の話に戻りますが、
青山学院のスクールモットーが
この聖書の言葉であるということは、
学校が、
そういう神様の視点から人を見て
学生を教育していこうという姿勢を明らかにしていると思います。
青山学院系列の学校は、
そこに集う人々すべてに、このモットーを持って、
「あなたはかけがえのないオンリーワンの存在だ」
と宣言しているのですね。
年頭に当たり、
色々やりたいこと、成し遂げたいことを挙げて
頑張ろうと思うことは
とても大事なことだと思います。
こんなふうになりたい、
あれこれをやりたい、
そういう目標を持つことで、人は前向きにもなるし、
頑張ろうという気持ちも奮い立たせられます。
でも、もう一つとても大事なことは、
自分がどんな存在かを確認することだと思います。
聖書を読んでいると、
取るに足らない小さな存在の自分という一人に
向けられた神様の愛や思いを
教えられて、
自分自身の存在価値を見直すことが度々です。
わたし自身も、
念頭に当たり、
この世に生を受けたものとして、
今の場所、今という時に置かれた自分自身の存在意味を
再確認できたことは、本当に良かったと思いました。
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