どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

思い出の短編小説『狂犬のいた坂道』(1)

2023-05-15 00:07:50 | 短編小説

 喜市は、夏が一番好きだ。
 川漁師の父親とともに、近くの沼で雑魚や小海老を採り、また、さまざまの仕掛けを使ってライギョやウナギを獲る。
 きらめく夏の日々は、喜市にとってわくわくする時間の連続であった。
 昭和二十年代の半ば、喜市が小学五年生になった頃のことである。沼の北西で、事件が起こった。
 それは新聞に載るほどの出来事ではなかったが、ふだん平穏な生活に慣れている村人に、めったに無い話題を提供した。とりわけ子供たちは、興奮のために夜寝つきが悪くなった。
 その事件は、彼らの村から林の中を通って沼に至る坂道の途中で起こった。
 一人の中学生が狂犬に遭遇し、勇敢にも犬を撲殺したのである。犬は灰色の中型犬で、口から涎を流していたという。
 目は黄色に濁り、坂の上からまっすぐに中学生に向かってきた。
 中学生は道端に転がっていた棒切れを拾い、夢中で犬の鼻面を叩いた。急所に命中したのか、犬はあっけなく倒れ、痙攣して絶命した。
 たまたま棒切れが落ちていたのが、幸運であった。そうでなければ、中学生は嚙まれていたはずだと結論づけられた。
 狂犬が徘徊しているとの噂は、数日前から流れていた。
 村人たちは知るよしもなかったが、この年、日本全国で恐水病が猛威を振るい、800件を越える発症例が報告されている。前後合せて六年ほどの流行期のうち、ピークを記録した年なのである。
 関東一円も例外ではなかった。保健所や警察署にも連絡が届いていた。しかし、終戦後の混乱が完全には収束していない段階で、情報伝達が巧く機能していない面があった。
 恐水病の恐ろしさは喧伝されていたが、狂犬への備えなど具体的な策はほとんど知らされていなかった。
 それだけに、当初、村の脅威をたった一人で終息させた英雄に、村人たちは目を瞠った。勇敢な中学生に、驚きと称賛の声をあげた。
「どんな野郎っ子だっぺなあ」
 口々に詮索の言葉を交し合った。
 誰がもたらしたのか、その中学生が森二つ隔てた谷地の子だと分かった瞬間、大人たちの口が重くなった。
 話題が急にしぼんだ理由を、喜市は正確には知らない。それどころか、いつまでも興奮が覚めない喜市に向かって、父親の厳しい声が飛んできた。
「早く家さ帰って、ニワトリに餌やれ。日暮れになると、また狂犬がやって来っと!」
 いつにない剣幕と、犬の幻影に怯え、なかなか脱け出せなかった英雄談の世界から、いっぺんに引きずりだされた。
 それでも、喜市たちは、翌朝いつもの待ち合わせ場所に集まることを約束していた。躊躇させる要因はいろいろあったが、撲殺現場の探検は、どんな遊びの計画よりも魅力があった。
 あくる日、食事が終わって親の干渉が弱まる時刻に、喜市と将太と三郎は薬師堂の裏で落ち合うことになっていた。
 夏休みの宿題が遅れたままの喜市は、じりじりとした思いで算数の問題を解いていた。薬師堂で待っている二人の顔がちらつき、簡単なはずの宿題も難しくなった。
 苦しみながら答えをみつける三十分が、喜市の算数嫌いを決定的にした。
 屋敷をぐるりと囲む樫の木の梢から、八月の太陽が矢を射かけた。喜市は、親指の先が抜けたズック靴を突っかけ、走り出そうとした。履きそこなった靴が後ろに残り、先へ行こうとする体がつんのめった。
「何をそったに慌ててんだか」
 母親の問いには答えず、無理やり体勢を戻してズック靴を履きなおした。
 薬師堂に駆けつけると、案の定、一番ビリは喜市だった。将太と三郎は、諦めたようにビー玉の目落としをやって待っていた。
「遅いどォ」
「うん、宿題だ。行くべェ」
 喜市の一声で、三郎と将太が慌ててビー玉を拾った。
 喜市は、小学五年生四十数名から選ばれた副級長で、号令をかけることに慣れていた。教室では級長の乙丸という疎開児童に進行を任せていたが、一歩屋外に出ると、体育でも遊びでもすべて喜市が仕切っていた。
 集落を抜けると、日陰のない野良道に出た。轍の跡がうっすらとついている。
 三人の靴が地面に接するたびに、細かい土の粒子が四方に散った。乾き切って二センチほどの埃の層となっているいるのだが、風がないので限られた範囲の移動で済んでいる。喜市はうどん粉の中に足を突っ込んでいるような気分だった。
「狂犬退治したのは、中学生なんだっぺ?」
 喜市が訊いた。
「んだよ」
 三郎が答える。
「偉くねえか」
 喜市は、同意を求めるように語尾を上げた。
「うん、だけど、犬殺しには慣れているんだと・・・・」
 再び、三郎。
「ああ、谷地の者だからか」
 喜市にも思い当たるところがあった。
 日頃、その地域に住む人々について語ることを、大人たちが避けていたからだ。
 ふだんは忘れているが、何かきっかけがあると浮上してくる。今回の出来事は、まさにその感覚を思い起こさせるものだった。
 終戦後一、二年の間は、犬を捕獲して回る男たちの話を聞いた。
 それから三年も経って食糧事情が落ち着いてきたせいか、噂を耳にすることはなくなった。
 そうしたとき、再び犬殺しの話を聞いて、喜市の胸の鼓動が高まった。
「今でも、犬を食うのか」
 突き止めることができないまま、中途半端に封印されていた好奇心が疼いた。
「おら、知らねェ」
 訊かれた三郎が、将太に助けを求めた。
「殺した犬、どうしたって?」
 と、喜市。
「狂犬じゃ、食うわけにはいかなっかっぺ。・・・・父ちゃんも、そう言ってた」
 将太によれば、中学生が道端に埋めたのを、保健所の人が掘り起こして焼却処分にしたという。
 菌が巣食っている死骸を、他の獣や鳥が食い荒らすのを防ぐ処置だ。
「菌は散らばってなかっぺか」
 喜市が不安げな声を出した。
「ガソリンかけて焼いた後、DDTで消毒してあっから大丈夫だと・・・・」
 将太が得意そうに鼻を動かした。
 種明かしをしたところによると、昨日のうちに将太の兄が偵察して、情報をもたらしていたのだ。
 不気味さは少し薄れ、撲殺現場へ向かう少年たちの足取りは軽くなった。
 半道ほど行くと、やがて丈の揃った赤松林が両側から迫る。間伐と下草刈りを施されていて、奥の方まで等間隔の美林が見て取れる。秋には真っ先に、初茸狩りにもぐりこむ場所である。
 松林の中央で十文字に交わる道を、三人は右手に折れ、緩やかな坂道を言葉少なに下り始めた。
 道端に猛々しく繁茂する野生の蕗や葛などの植物は、どれも土埃をかぶって白っぽく見える。
 だが、注意深く観察すると、葉も蔓も産毛や棘を総動員して異物を持ち上げ、呼吸孔を確保している。
 そうしていれば、やがて風や雨によって埃が除かれ、何事もなかったように存在し続けることができることを、知っているかのようだった。
 喜市たちの運動靴は、灰色に染まっていた。
 靴だけではなく、半ズボンから出た脛も、汗の上にこびりついた土埃で、垂れた漆喰のように色を変えていた。
 まもなく松林が途切れて、急に視界が開けた。緩やかに下っていた道が、このあたりから勾配を強め、湿地帯へと延びていた。
 その先に、沼があった。
 開墾田や葦原が、光の中で陽炎を立てていた。
「おっ、あったぞ」
 将太が声をあげた。
 指さすところをたどると、たしかに土を掘った跡があり、黒く焦げている。その上から撒かれた白い粉末は、将太から聞かされたDDTのように思われた。
 喜市は、道端の一点を凝視したまま、足を止めていた。噂が裏づけられた瞬間、背筋を駆け抜ける雄叫びを感じた。
「ここさ埋めたのか・・・・」
 紛れもなく狂犬が埋まっていた穴の痕跡を目で掘り起こし、深く息を吐いた。
(犬が坂の上から来たのに、よく腰抜かさなかったな)
 喜市には、谷地の中学生が震える両足を踏ん張って狂犬に対峙する姿が、目に見える気がした。
 同じ場所に立って坂の上を仰ぐと、悪辣な菌に脳まで蝕まれた犬が、くわっと口を開け、涎を飛ばしながら襲いかかってくる光景に出くわした。
 幻影と分かっていても、爛れた粘膜と臭い息の臨場感に圧倒され、喜市はよろよろと尻餅を突きそうになった。

     (つづく)

 

(2009/01/28より再掲)

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2 コメント

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勉強になりました・・・ (koji)
2023-05-15 01:46:36
「葉も蔓も産毛や棘を総動員して異物を持ち上げ、呼吸孔を確保している・・・」
なるほどでした。いままで植物の毛の役割について全く考えたことがありませんでした。
返信する
植物の産毛 (tadaox)
2023-05-15 11:24:56
(koji)様、ありがとうございます。
調べたわけではありませんが、ぼくはそう思って書きました。
細かい描写もウソはつけないなとドキッとしました。
返信する

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