⑥ 浅草から日本橋方面の記録
折から土曜日のこととて、浅草は人出でにぎわっていたが、凌雲閣(通称「十二階」)が半ばから折れ、そのほか倒壊家屋が続出し、火災が起こり、浅草は阿鼻叫喚の巷となったという。
東京の倒壊家屋は、山の手台地では全体の一割前後であったが、江東の本所、深川方面では全体の二割五分前後に達したという。
『大正震災志』(内務省社会局編)によると、
<地震につぐに火災を以てしたから単なる震災に原因する被害の度合いは詳らかでない。けれども概していうと、山の手よりも下町に被害の多かったのは当然である。しかし、同じ山の手にしても高地に接する低地は一般に被害の度が多かった。即ち小石川柳町一帯のごときはその例である。同じ下町にしても日本橋のごときはその被害程度は少なかったのである。深川方面は一般に被害が多かったように取りざたされているけれども、実際それほど甚大なものではなく王子より尾久付近の方が被害が多かった。同じ埋立地ではあるが深川は年を経ること久しく地盤が固くなっていたのに反して、王子より尾久付近の地は埋め立て後日が浅いゆえである。神保町から水道橋に至る大通りにしても、駿河台寄りが被害の少なかったのに反して九段寄りに倒壊の多かったのは地盤の関係と思われる。>
役所の文書はわかりづらいので、一部整理して引用した。
冒頭に記された部分は、火災による被害もあるから震災に原因する被害の程度は明確でないということだが、役所的弁明まじりの記録より、一個人の経験した事実の方が一層真実を伝えている。
<天を衝く高楼、両側に対峙している南伝馬町の停留所付近の星製薬のビルデイングなどは、大亀裂を生じて廂の大石塊が今にも落ちそうにぶら下がっている。(中略)この辺では村松貴金属店の黄色の煉瓦建てがビリッともせず厳然として立っていた。概して西側に倒壊多く、中でも中将湯本舗がメチャメチャになっていた。三河屋とかいうパン屋の洋館がひとたまりもなく潰れて、屋上のドームが路上に腕を伏せたようにチョコナンと座っていたのは哀れにも滑稽であった。>
<白木屋呉服店は火災に遇ってスラスラと飴細工のようの燃え失せたが、丸善の赤煉瓦は案外地震に強くわずかに亀裂をしたもののしっかり残っていた。(中略)三越は硝子戸が壊れていたばかりで、店頭のライオン像はがっしりした様子で、地を睨んでいた。>
若干の印象の違いはあるが、個人の体験記は耐震構造の違いまで如実に描き出している。
(つづく)
でも100年余り前の話しなんですね。
100歳以上の人がまだ大勢生きているわけですから、体験者も生きている現在と地続きの出来事ですね。
そう思うと、個人個人の地震の記録はリアリティ―をもって迫ってきます。
そうか、まだ存命の方がいるんですね。
たしかに、耐震構造は進化したと思いますが、まだ木造家屋も多いし、消防車が入りずらい地域もありますからね。
一番心配なのは、過去の事象でも見られた「予想外」のできごとですね。
想像力を養う基礎は、過去に学ぶということでしょうか。