⑤ 震害の記録
ここからは、『鷺亭金升日記』(演劇出版社刊)からの引用である。
<九月一日(土)晴れ、午前出社。十一時四十八分、支部弁当来たりしかば、少し早けれど食事をなす中、突然地響きして、人々アッと驚き起つ。先年の地震と同じような響きなれば、余は一番に駆けだしたるも、揺れ出して足を取られれんとす。辛くも社外に逃れ、広場の建築場へ走りつきし時は、はや大地震となりて歩行しがたく、地上を転倒し、大波の上に弄ばれる小舟の感あり。丸の内の建物は、凄き音を立て土煙をあげ、世はこのままに滅するかと思う。恐ろしさ言語に絶す。ようやく揺れ止みて、ホッと息をつく間もなく、また大いなる揺れ返しありて、夢うつつのごとく、呆然と地上に座す。一時静まりしかば、人びと蘇生の思いして、無事を祝し合う。活版は皆破壊されたり、新聞は当分出来ぬことになりしと聞きて、急ぎ帰途に就く。振り向けば、有楽町より火起こりて、黒煙濛々たり。・・・・>と、記されている。
この中で、「丸の内の建物は、凄き音を立て土煙を上げ」と表現されているが、新築の九階建ての丸の内ビルデイングさえ怒涛に弄ばれる木の葉のように揺られたという。
倒壊した大建築の随一は、芝区(現在の港区)三田四国町の日本電気会社工場であった。最新アメリカ式の三階建ての鉄筋コンクリートの大工場であったが、第一震でもろくも倒壊し、同工場勤務の社員、職工四百余名のほとんどが、圧死を遂げたという。
また、丸の内郵船ビルデイングの裏手の内外ビルデイングの大建築は、工事が半ば以上進捗していたが、裏側の方は自然石を積み上げ、その運びに至らなかったため、裏側の方に崩壊して、建築中の作業員三百余名のほとんどが圧死したという。
『大正大震火災史』(改造社刊)によれば、<震災が最も無遠慮に何もかもさらけ出したのは建築である。石造とばかり見えた白木屋が跡形もなく焼けて木造と分かり、鉄骨の頑丈造りの丸善の建物が見るも無残に歪みくねった一方、あのなよなよしたように見えた帝国ホテルが、ぴりっともしないでいるなどは皮肉に見えた。・・・・一般の家屋はもとよりのこと、ビルデイングや工場でも、腐朽しかけたり、工事半ばであったり、地盤が軟弱であったり、支柱が少なかったりした建造物は片端から倒壊し、落ちるだけの瓦礫は落ち尽くし、倒れるだけの建物は倒れ尽くして立った土煙が収まりかけたと思うと、それは火災の黒煙に変じたのである。>
(つづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます