歴史の叙述では、大正12年9月1日午前11時58分44秒、震源地は、東京から約80キロ離れた相模湾の北西部で、市内本郷台において88.6ミリメートル、下町(東京の)においてこの一倍半ないし二倍の振幅の激震が起こったと伝えている。
しかし、こうした科学的な数値が、地震の規模や恐怖をどれだけ伝えられるのかと問うと、やはり、個人の被災体験に勝るものはないと、この報告は述べている。
③ 地震の後
傾いた二階家から、かろうじて脱出した昌造は、今度は火に追われて赤坂を離れる。・・・・赤坂の地を後にした昌造は、避難者で膨れ上がった群衆に紛れて、ひとまず麹町番町の安城家の本邸に身を寄せた。
<この地震の恐ろしさを実感したのは、半日も過ぎた頃、ようやく斜陽となった夕刻に、かつて見たこともない暗紫色の入道雲が、帝都に不意にくだした災害を、じっと見おろしている悪魔の姿のように、大きく静かに佇んでいるのを見た時である。しかも、まだその時点では、その日の大地震の災害が、どの範囲まで及んでいるのかということさえ実感できなかった。その証拠というか、昌造が、逗子の妻子のことが気になり始めたのは、二日の午前零時を過ぎたころからである。そして、横浜から鎌倉方面へかけての被害が容易ならないものらしいということが、昌造の耳に届いてきたのは、さらに時間が過ぎて、二日の夕方のことであり、それは、江の島は地震とともに海中に姿を消してしまい、逗子や鎌倉は地震後まもなく襲ってきた津波のために、浜辺に近い家は綺麗に持っていかれてしまったという、デマまじりの噂であった。さらに四日目には、歩いて逗子の家族を迎えに行き、翌日救援の駆逐艦「夕張」で芝浦まで運ばれ、ようやく家族五人が一つ屋根の下で、蝋燭のもとの食卓を囲むことができた。>
(つづく)
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