(自販機に敬礼)
大正時代から酒屋をやってきた升喜屋の前を、養護施設の生徒たちが毎朝通って行く。
五十メートルほど離れた通りの先に、パン工場を兼ねた養護施設があるのだ。
幸恵は毎朝九時に、宅配便の取扱いを知らせる立て看板を出す。
店先にはかなり広いスペースがあって、酒類をはじめお茶やコーラなどを扱う自動販売機が三台並んでいる。
店内にも商品は置いてあるが、通りがかりの客はほとんど自動販売機で目当ての飲料水を買い求めるのだった。
その中でたった一人、顔を合わせると幸恵に挨拶をしていく養護施設の生徒がいる。
大柄な女の子で、ポッチャリした丸顔をしている。
西の方から東へ向けて、ゆったりとした足取りで通り過ぎていく。
身ぎれいな服装をしているので、親が目配りをしている様子がうかがえた。
動きに安定感があるので、見た限りではどこに障害があるのかわからなかった。
その少女と初めて言葉を交わしたのは、二年前の夏のことである。
幸恵がいつも通り店のシャッターを上げたとき、目の前に女の子がうずくまっていたのである。
「どうしたの?」
近くの養護施設にかよう生徒であることは知っていたし、健康そうに見えるもののどこかに障害があるのだろうとは思っていた。
「小銭ない、さとう・・・・」
何かを説明しようとしているのだが、目が虚ろで朦朧としている。
「飲み物が欲しいの?」
幸恵は急ぎ店内に戻って、棚にあったオレンジジュースの缶を持ってきた。
コーラやコーヒーでなくジュースを与えたのは、なんとなくそれがいいと判断したからだ。
プルトップを引いて手に持たせると、息もつかずに飲み干した。
通りすがる人々が、不審そうに眺めていく。
幸恵は道路側に立って、なるべく通行人の視線をさえぎるようにした。
「椅子を持ってくるから、少し休んで行きなさい」
ことによったら救急車を呼ぶとか、養護施設に知らせなければなるまいと少女の様子を窺った。
すると五分も経たないうちに、大柄な少女はふらっと立ちあがった。
「無理しちゃだめよ」
幸恵が手を添えようとした。
「いえ、もう大丈夫です。わたし、うっかり小銭を忘れてきちゃったんです。それでジュースを買えなかったんです」
少女の話によれば、生まれつき膵臓からインスリンの出ないⅠ型糖尿病で、低血糖に備えて普段からブドウ糖を持ち歩いているのだという。
ところが、この日は遅刻しそうになってブドウ糖を補充しないまま家を出てきてしまった。
おまけに、毎朝ジュースを買うために用意していた小銭入れを持たずに飛び出してきた。
熱帯夜で睡眠不足のうえ、息せききって歩いたので、一瞬目の前が暗くなりその場に崩れおちたのだ。
悪条件が重なって、怖れていた低血糖症に見舞われた。
「おかげさまで助かりました。でも小母さま、お茶とかでなく、よくジュースを用意してくださいました」
幸恵はもう一度状況を思い返し、女の子の発した言葉の中に「さとう」の語彙が含まれていたような気がした。
「あなた、いつも自動販売機でジュースを買ってくれるでしょう? それで覚えていたのかもね」
ぼかした言い方だが、品のいい娘さんに関心を持っていたことを自分でも確認していた。
「・・・・のちほど代金を持ってまいります、ありがとうございました」
「あら、いつでもいいのよ。気にしないでね」
ずっと疑問だった少女と養護施設の関係が、多少なりとも分かった気がして心が晴れるのを感じた。
升喜屋には、酒類のほか缶詰やツマミになる商品が置いてある。
醤油や酢、ミリンといった日常なくてはならない品も棚に並んでいる。
もちろんペットボトルの水も商品だ。
普段は目立って売れるわけではないが、フクシマの放射能騒ぎのときは箱単位で買って行く客が多く、しまいには炭酸水の在庫まで一掃した。
年に一度あるかないかの特需のときは、幸恵の日常もいっぺんに活気を帯びる。
まばらな客の相手をし、売り込みの業者や保険勧誘員を捌くだけの一日では、平穏ながらあまりに味気ない。
だから祭りであれ、小学校の入学式や運動会であれ、店先に変化をもたらすものは大歓迎なのだ。
ハッピ姿で神輿を追う一団、着飾ったお母さんとピカピカの一年生、近ごろではハロインの仮装をした子供たちの訪問も楽しみの一つになっていた。
だからといって、店の売り上げに影響するほどの特需はまれである。
オイルショックの時でも、困ったことばかりであまり商売にプラスになることはなかった。
親の代までは、酒屋は重労働だった。
リヤカーや自転車、軽トラックなど運搬手段に変遷はあるが、長いこと店主自ら荷台に積み込んで客のもとに配達した。
駅前の飲食店やスナック、バーなどを相手に、数軒の酒屋が顧客を分け合って商売をしてきた。
むかしは個人の客でも配達を望むお得意さんがあって、安定した売り上げが約束されていた。
しかしスーパーマーケットの時代になると、酒店の売り上げは激減した。
商品の多様化と廉価販売で、個人商店は青息吐息の状況に陥った。
駅前に大型店が開業したのを機に、仲間の酒屋はつぎつぎと廃業していった。
幸恵の店が残れたのは、大型スーパーからの距離がやや離れていたのと、戸数五十戸のマンションを所有していたからである。
先見の明があった父親が、所有する土地に賃貸マンションを建て、その一階に酒店を収めて升喜屋の暖簾を守ったのだ。
ところが今度は、目と鼻の先にコンビニエンス・ストアができた。
スーパーマーケットの出現以来、間に合わせの客を相手になんとか生き永らえてきたが、酒のツマミもコンビニが目新しい商品を用意している。
おでんでも、豆腐でも、コロッケでも買えるのだから、わざわざ乾き物を買いに来る客はいなくなった。
(まあ、これで踏ん切りがつくわ)
コンビニの出現が、幸恵に升喜屋の看板を下ろす決断をさせた。
先祖代々守ってきた商売を辞めることに後ろめたさはあるが、これも時代の成り行きだからやむを得ない。
(背中を押してもらってよかったのかも・・・・)
今さら他の商売をする気にもなれず、廃業を機に賃貸マンションの管理に専念する気になっていた。
これまでは、建物の保守点検から駐車場の管理まで一社に任せていたが、自分が動くことで少しは経費の削減につながるかもしれないと考えた。
だが実際に委託の割合を減らしてみると、廊下の照明が切れたとか、水漏れを起こしたとか、住民と業者の双方と交渉しなければならない。
慣れるまでは仕方がないと覚悟していたものの、店仕舞いの忙しさと相俟ってしばらくは気の休まることはなかった。
養護施設にかよう大柄な少女が顔を見せたのは、一階上部の壁に取り付けてある升喜屋の看板を外した翌日だった。
いつものようにシャッターを上げ、宅配便取扱いの立て看板を店先に出し、再び店内に戻ろうとしたとき背後から声をかけられた。
「小母さま、お店辞めちゃうんですか」
ギョッとして振り向くと、お河童の髪を額で切り揃えてイメージチェンジした少女が表情を曇らせていた。
「そうよ、悪いわね」
幸恵は先ほど、一瞬だが通りを眺めた・・・・と思った。
少女は大柄だし、歩みもゆっくりなのに、その姿に気づかなかったことが腑に落ちなかった。
(何か変よねえ、こちらからは見えないベールでも被っているみたい)
その思いの一因には、彼女を包む上品さと穢れのない印象が関係しているのかもしれない。
「これからは自動販売機でしか買えないから、よろしくね」
いくつもの思いが、幸恵と少女の間で往き来した。
「小母さま、お茶やコーラやコーヒーだけでなく、かならずオレンジジュースを入れておいてくださいね」
このごろは糖分を抑えた飲料が主流で、砂糖を含んだ商品は少数派なのである。
成人病の予防やダイエット志向の人々には、糖分を抑えた商品は望ましい。
だが、とっさの低血糖に対処する目的の人は、どの飲料にどれだけのカロリーが含まれているか覚えておかなければならない。
養護施設にかよう少女は、仕事の中で覚えたのか、それとも主治医にでも教えられたか、しっかりと把握している口ぶりだった。
「あなた、お家は近いの?」
「いえ・・・・」
あとは口ごもった。
幸恵は少女に約束させられたものの、一つ心配事が増えたのを感じた。
酒屋をやっていたときは自動販売機の補充を自分でやっていたのだが、これからはすべて飲料会社の巡回サービスに頼るしかないのだ。
(万が一品切れになっていたらどうしよう・・・・)
不安になって再び少女に言った。
「わたしからも自動販売機の人に頼んでおくわね、オレンジジュースは絶対に切らさないでねって」
大柄な少女が、ゆったりと真ん中の自動販売機に近づいた。
「これからもお願いします」
何を思ったか、自動販売機に向かって頭を下げるのだ。
急場を救ってくれた幸恵が酒屋を辞めたことを知り、その不安が自販機への祈りになっているのだろうか。
人間社会のちょっと変わった出来事にすぎないのだが、幸恵には天から舞い降りた神様のたくらみのように思えた。
「そうよ、わたしもいっしょにお願いするわ」
幸恵は、少女に自分の仕種を真似するように合図した。
「自販機に敬礼!」
いい? 自販機に敬礼よ。
「自販機に敬礼」
映画で観た警察官の映像を思い浮かべて、右手を頬に磨りつけた。
少女と並んで、機械の中の缶ジュースを正面にする。
通行人に見られているかもしれないという意識はあったが、以前のような恥ずかしさはなかった。
自分も養護施設の少女同様、あちらからは見えないベールを被っているような安らぎがあった。
(おわり)
いつお世話になるかもしれないその自販機に最敬礼する若い女と初老期にさしかかろうかという女。
つい見逃しがちなありふれた都会の片隅のいいお話・・・いや良い景色を見せていただきました。
健康面のハンディを抱える人は、自販機のある場所を脳にインプットしているようです。
ただの無機的な機械であっても非常時のお助けマン的存在、無意識裡にそのように眺められるのだと思います。
「景色」との評言をいただき、主人公の視点が定まった気がします。
閉店したばかりの酒屋の女主人の見る景色も、角度は違えど一点に収斂されたようです。
ありがとうございました。