ホテルの駐車場で二時間、シャレードで二時間、雄太は時間待ちをすることになった。
この夜は柳田の接待が主で、仕事がらみの込み入った話があるらしく、雄太の同席は許されなかった。
柳田は鷹揚に雄太も一緒になどと誘ってくれたが、あらかじめ神山から申し渡されていたので、丁重に辞退した。雄太自身、気詰まりな場所にいるよりも、一人で時間を過ごす方がよほど楽だと思っていた。
クルマで近くのラーメン屋まで乗り付け、大盛りチャーシューメンを奮発した。戻ってくると、ダッシュボードに足を載せ、書店で買い求めた週刊誌のスポーツ記事と芸能スキャンダルを読み漁った。
連絡を受けてホテルの玄関口にクルマを回すと、まもなく懇談を終えた四人がやってきた。酒の名前を口にして笑いあっているのを聴くと、どうやら今夜のコースは中華料理を選んだらしかった。
「それじゃあ先生、次へ行きますか・・・・」
神山は柳田を先生と祭り上げて、雄太にシャレード行きを指示した。
常陽銀行のある交差点から西へ少し入り、さらに二つ目の路地を曲がったところがシャレードだった。
バタンバタンとドアの音をたてて四人の客が降りていった。
「ここは狭いんで、表通りに戻って待ってますから」
いま入ってきたあたりを指差して、神山に了解を求めた。
「ああ、分かるところに居ろよ」
「はい」
赤青二色のネオンサインが、交互に点って店の名前を浮き立たせた。
他にも小料理屋や焼き鳥屋、お好み焼きにウナギなどの店が並ぶ飲食店街で、夜が更ければラーメン、焼き芋といった屋台も集まって来る。
賑わいのある通りでありながら、オフィス街に近いせいもあって落ち着いた雰囲気を保っている。そうした中、大したネオンではないがシャレードの電飾は一番目立っていた。
九時半過ぎに送り届けたから、戻ってくるのはおそらく十二時近いだろう。
彼岸も過ぎて日中は暖かい日が続いていたが、夜は打って変わって空気の冷たさが体に沁みた。
雄太は、急に尿意を覚えてぶるっと震えた。
どこかの店に入ってトイレを借りるのも気が引けた。一瞬シャレードを思い浮かべたが、あわてて否定した。
同席を排除されたことや、ホステス見習いのエッちゃんとのこともあって、近寄りがたい心の壁ができていた。
必要に迫られて、すぐにクルマを発進させた。駐車している道を直進すれば、桜川の土手に突き当たるはずだった。
そこまで行けば、気兼ねなく用を足せる。市内とちがって人目をはばかることもなさそうだった。
堤に沿った草むらにクルマを停めた。バンと土手の間に身を入れて放尿した。街灯もない暗がりに見えたが、目が慣れると上部に登る踏み跡ができていた。
雄太は誘われるように土手を這い上がった。春を感じて伸びはじめた芝草が、雄太のスニーカーをしっかりと支えた。
土手の上は、思いのほか広かった。市街地の側が土と雑草で出来ているのに比べ、桜川の水面に向けては網の目状に施工されたコンクリート壁が貼り付けられ、緩やかなカーブを形作っていた。
川幅もかなりある。河口に近いところに、鉄橋が架かっている。その先には、茫々たる霞ヶ浦が広がっているはずだ。
柳や合歓の木に見え隠れする常磐線の線路を、折りしも上りの列車が渡って行くところだった。
窓の明かりが、映画のフィルムのように連なって右方向へ流れていく。
歌謡曲のメロディーが頭をよぎり、列車の後尾に赤いランプが見えないかと期待したが、見届ける暇もなく闇に紛れた。
飲食店街の路地に近い車道に戻って、リクライニング・シートを倒した。一眠りするつもりだった。
シャレードから四人が引き上げてくるまでには、まだ一時間以上の間があるはずだった。
週刊誌も読み飽きた。
通りの眺めも時折りタクシーが走り去る以外、変化の少ない時刻になっていた。
朝から深夜まで、いつ来るか分からない乗務依頼に対応し続けてきて、もともと活発な性格の雄太は仕事自体に倦みはじめていた。
好奇心が刺激されているうちは我慢も利くが、自分の意志に関わらず欠伸が漏れるのと同じで、待つことに疲れを覚えはじめていた。
寮生活にも、変化が無さ過ぎた。食事が終わったあとの愉しみも限られていて、つまらないのだ。
寮仲間の佐藤の部屋に押しかけて、へぼ将棋やトランプに興じることはある。しかし、弱い相手との対戦では面白さが持続しなかった。
雄太のスケジュールが不規則だから、そうした遊びでさえ中断されることがある。佐藤に迷惑そうな顔をされ、自分の置かれた立場を思い知らされた。
雄太は目を閉じた。こんなときは眠るのが一番だ。疲れを取るのにも、ストレス解消のためにも、最も効果的な方法といえる。
助手席に放り出しておいた週刊誌を顔の上に載せると、胸の辺りのざわつきが少し鎮まったようだ。
雄太は目蓋の裏に溜まりはじめた眠気に身を委ねた。
夢の中で、彼はバーテンダーになっていた。格好良くシェイカーを振ろうとしていきり立っている。
ホステスが注視する中、トマトベースのカクテルが出来上がった。
いざグラスに注ごうとしたした瞬間、女の一人が声を発した。
「洞口さん、眠ってるの?」
不届きな・・・・。いまカクテルグラスに注ごうとしているところだろ!
怒ったような呻き声を洩らしながら、声のする方を見上げた。
街灯の明かりがやっと届く薄闇の中、雄太の目に助手席の窓を叩く人影がぼんやりと映った。
(だれだろう?)
それでなくとも、短時間の眠りから揺り起こされて頭が混乱している。目の前の人物を誰と認識するまでに数秒を要した。
「エッちゃん・・・・」
雄太はあわてて助手席のドア・ハンドルを回した。「ご免、眠っちゃった」
窓ガラスを全開になるまで下ろしながら、四人がもうすぐ帰って来るのかと早合点していた。
「そうじゃないの。退屈しているだろうからってママの差し入れ・・・・」
グラスに注いだホット・ウーロン茶と、ジャムやチーズをトッピングしたカナッペを一皿、深めの盆に載せて運んできていた。
「いやあ、そんな・・・・」
エッちゃんの顔を見上げながら会釈した。
開いた窓から差し入れられた盆を受け取り、ダッシュボードの上に置いた。
「ありがとう。すぐに戻るんですか」
体を倒して、助手席のドアを開けた。
このまま帰してしまうのは悪いような気がした。花見のことももう一度話をして、誤解を解いておかなくてはいけないと思った。
エッちゃんは、一瞬ためらったあと腰から入ってきた。
助手席に収まるのを待って、不安定な場所に置いたウーロン茶とカナッペの皿を引き寄せた。
「うまそうだな。エッちゃんも食べない?」
女は小刻みに首を横に振った。少しオツムが弱いのではと思ったことが頭をよぎった。なんとなく当たっていそうな気がしたが、だからこそ可愛いのかもしれなかった。
雄太はジャムのカナッペを一つつまんだ。「うん、おいしい。腹がへってたんだ。ありがとね」
二つ目に手を伸ばして、少し緊張している女給見習いの横顔を盗み見た。
「花見のことだけど、もうすぐ咲く季節だよね」
話題を向けると、表情がパッと輝いた。
やっぱり本気にしていたんだと、女の反応に愛しさを感じた。口実を作ってまで来てくれた真実に、心を動かされていた。
「エッちゃん、ありがとう。土手の桜が咲きそうになったら、教えてね。休みの日なら、行けると思うんで」
最近、会社で印刷してくれた名刺を手渡した。そこには事務所の所在地のほか、現地出張所の電話番号も記されていた。
「一応、四月の初めごろを予定しておこうか」
デートの詳しい日時は、電話ででも煮詰めるつもりだった。
雄太の言うままに頷く女を、そろそろ帰さなければと気がついた。
エッちゃんの体越しに、助手席側のドアを開けた。瞬間、目蓋を閉じるのが見えた。わずかに開いた女の唇に、雄太は引き寄せられるように唇を押し当てた。
情にほだされるとは、このようなことをいうのだろうな。・・・・雄太は頭の中で反芻した。
この先どのような展開が待っているのか知る由もないが、いまここで接吻ぐらいしなければエッちゃんに恥をかかせることになると考えていた。
神山と柳田は、十二時を過ぎて戻ってきた。
「よし、帰るぞ。あとの二人は、勝手に帰るから待たなくていい」
言われるままクルマを発進させた。
「先生、だいじょうぶですか。体を楽にしたらいいですよ」
後部座席で柳田を介抱している風に聞こえるが、むしろ神山のほうが眼光を妖しく光らせて、酔った状態を呈していた。
国道6号線を牛久方面へ少し走り、途中で交差する県道を谷田部へ向かう。通いなれた田舎道だが、客人を二人乗せているので制限速度に抑えて行く。
赤羽を送り届けた帰り道なら、80キロ近いスピードで爆走していたところだ。穴の開いた砂利道を、宙を飛ぶようにバウンドしながら駆け抜ける。
未舗装でも最低限の手入れがされているから可能な走行で、一足早くテスト・ドライバーになった気分を味わったものだ。
その点、今日は我慢がまんの一日だった。
深夜まで人を待ち続け、お仕着せの手当てに満足するしかない立場だった。厳密に何時間働いたとの要求はできず、一ヶ月いくらの定額頭切りを承知させられている。
「洞口くん、ずいぶん待たしてしまったね」
目を閉じていた柳田が、突然話しかけてきた。
畑と田圃が交互に続く田園地帯が終わり、両側とも松林が迫る原野の風景に差し掛かっていた。
「いえ、お疲れさまでした」
ちょっとした心遣いの言葉が雄太の胸にひびいた。
種々雑多な人間集団をまとめてきた柳田老人の奥深さに、あらためて器の違いを感じるのだった。
「あ、先生、起きていたんですか」
柳田とは対極の人格と雄太が判定した当の神山が、眠りから醒めた己の状況をあわてて取り繕おうとした。
「いや、わしも少し眠っていたようだ」
「そうですか。もしかして、こいつの運転が乱暴だったんじゃないですか」
「そんなことはない。普段なら就寝している時間に、一人だけ安全運転してくれている。立派な職員を雇ってますね」
神山設計事務所のありようを褒める老人の深い配慮に、神山はぐうの音も出なかったようだ。
「ところで、田代君たちはどうなったかね」
柳田が心配げに言った。
「どうもこうもないですよ。今頃お気に入りの相手とどこかへ向かっているでしょう」
「へえ、そういうことですか」
とぼけているのか、老人はかすかに笑った。
「先生、知らないんですか。田代所長には後家さんと懇ろになっているとの噂もあるようで、なんともお壮んなことですよ」
「ほう、それはうらやましい」
柳田は、生臭い話題を早々に切り上げようとした。
テスト・コースの完成へ向けて何が大切か、個々のネタ話を弄くりまわしても得のないことを、最初から承知していたのだろう。
柳田と神山を、敷地内にある総合建設会社のゲストハウスに送り届け、雄太もやっと自分の寮にたどり着いた。
神山は最後まで柳田の世話をするつもりらしいが、老人からうるさがられなければいいがと心配になった。
男なら他人の色恋話に目を輝かすものと決めてかかっているが、柳田ほどの経歴を経てくれば、現地でのセックス処理などあたりまえ過ぎて、さして面白い話題でもなかったようだ。
あるいは酒仙となった身では、今さら女とどうしたなどということに興味を失っていたのだろう。
雄太は柳田を尊敬し、神山には軽蔑の感情を持った。
それでも、佐藤から聞いた噂話が真実らしいことを、神山の発言で確認できたことは収穫だった。
赤羽から探り出そうとしていた企みが、おのずから解けて肩の荷が下りた気分だった。
徐々に姿を現わしていくテストコース。
接待し、される男たち。
バーのホステスたち。
そのどの場面でも当事者足りえず、場面の外からそっと観察しているだけの存在である雄太。
それでもやっとエッちゃんとの花見が実現しそうな気配がして、物語が近々弾みそうな予感がしてきました。
やっぱり主人公には生きている弾みのようなものがないと、一読者としては乗っていきにくいですね。
エッちゃんとの仲がどのように発展していくのか。それがテストコースが形を現わしてくることとどう重なり合っていくのか。いかないのか。
今後の展開を楽しみにしています。
知恵熱おやじ