鞍馬の山で修行していた牛若丸が京の五条大橋で弁慶と出会い、大なぎなたで攻撃されるが欄干の上をヒラリひらりと飛び移り降参させた話は絵本で読んだことがある。
これは巌谷小波〈いわおやさざなみ〉という作家がまとめた日本昔話がもとになっている。
欄干を飛び移る術は鞍馬の天狗から授けられた秘術で、幼名牛若丸〈源義経〉が会得した得意技である。
実は弁慶は五条大橋では引き下がったが清水寺の舞台で二度目の闘いを挑んだとされている。
しかし、牛若丸が弁慶のなぎなたに飛び移って扇子で目をたたき降参させたことから、弁慶がガバとひれ伏して弟子になったという話が伝えられている。
長じて源義経になってからの活躍は「吾妻鑑」や「義経記」をもとに大河ドラマなどで何度も取り上げられている。
弁慶も実在の人物で、一の谷の合戦にも義経とともに登場する。
兄の頼朝にうとまれて義経が奥州に逃れる際には、安宅関で関所役人・富樫を相手に弁慶が繰り広げた大芝居が歌舞伎の「勧進帳」で演じられ大評判になった。
さて、その前に壇ノ浦での義経の八艘飛びだが、どのように跳んだのか検証する番組を見たことがある。
平氏の猛将平教経〈たいらののりつね〉が敵将源義経を道連れにしようと義経の舟に乗りこんだのだが、隣の舟へ次々と飛び移って逃げられてしまう。
その数八艘〈たくさん〉という逃げ足の速さが伝説になった。
英雄は攻めるばかりが能ではないのだ。
鵯越え〈ひよどりごえ〉の逆落としで勇猛果敢ぶりを発揮した義経の能力が、一転八艘飛びという別の形で示されたのだから驚きをもって受け止められた。
おまけに後鳥羽上皇の重用〈頼朝との仲を裂く策略〉もあって頼朝の手の者に狙われ、討たれる前に奥州に逃れるのは前述した通りだが、鎌倉幕府は疑心暗鬼の塊のようなものだ。
藤原秀衡にかくまわれてホッとしたもののまもなく秀衡が没し、その子藤原泰衡とうまく折り合えずに自害の場を求めて追われ続ける。
源義経は安穏な生活をできない運命のようだ。
残された伝説の数ではおそらく歴史上の人物ナンバーワンだろう。
それだけ愛され願望を背負わされる。
陸奥は今夏異常な暑さだそうだ。
真夏の怪談ならぬ真偽不明の伝説たちが跋扈しても不思議はない。
〈おわり〉
義経伝説が至るところにあって、その数の多さに驚いたものでした。
身近なところに義経伝説が残っているんですねえ。
東山道を行き帰りに通ったんですか。
人々の義経への同情と憧れが各地に伝説としてよみがえる。
これほどの英雄はほかにいないでしょう。
ありがとうございました。
芭蕉の目的は、本来の”白河の関”などの枕詞の地を辿るたこと以外に、義経の逃亡の足跡を辿ることでした。
身代わりとなって義経を救った佐藤継信、忠信の兄弟を弔うために「医王寺」に立ち寄ったときのことです。
このとき、佐藤兄弟の妻たちは、自分たちの悲しみを押さえて、2人の子供を失った姑の乙和を慰めます。
それでも、姑は深い悲しみに打ちひしがれたままだったので、2人の妻は、佐藤兄弟の形見の鎧兜を着て、夫の凱旋帰還を装ったそうです。
驚くのは、この逸話は、女子教育のため、昭和初期まで教科書に載っていたということです!
奥の細道をたどる旅は更家さんの街道歩きのきっかけだったように覚えています。
その時今のお話もされていたんですね。
そうですか、芭蕉は枕詞をたどるほかに義経の逃亡の足跡もたどっていたんですか。
佐藤兄弟の話はよく知りませんでしたのでこれから調べてみます。
女子教育のため、昭和初期まで教科書に載っていたということですが、なるほどうってつけの逸話だと感心しました。
いろいろ教えていただきありがとうございました。
義経が兄の頼朝から追われ、逃れた道も「東山道」だと・・・
これは全くのデタラメで、「勧進帳」でお馴染みの北陸道経由で平泉に逃れたのですよね。
“tadaoxさん”が「東山道を行き帰りに通ったんですか」と確認されていたのに、大ウソをこいたままでした。
知識不足のため大変申し訳ありませんでした。
義経が逃れた道はぼくもよく知らないんですよ。
勧進帳では安宅関を富樫の温情で見逃してもらって、結果平泉に落ち延びることができたんでしょう。
途中のことは検証する能力もないんで忘れていました。
そもそも義経伝説は真偽不明のものが混ざっているから面白いんですよね。
楽しんで忘れてまた思い出して楽しむ。
またネタください。