(アサリの味噌汁)
正孝は、滝口に連絡するつもりが、間違って艶子の電話番号を押していることに気づいた。
どういうことだろうと、自分のとった行動を訝しむ。
選りに選って、なぜ艶子の電話に?
すでに、この世に存在しない女性の持ち物。
警察に押収され、現在どこにあるかもわからないケータイが、意思を持ったかのように呼ぶのだろうか。
正孝は、艶子が何かを訴えかけているような気がした。
天高く澄み渡った空を、幽かな風が移動している。
通じなくなった回線の代わりに、何かが空を駆けている。
(艶子・・・・)
熱い思いが胸元をよぎる。
艶子を殺した犯人は、出雲の警察に身柄を移動されたという。
山根刑事は、動かぬ証拠を固めて堂島を逮捕したのだろうが、被害者も犯人もいなくなった東京には空虚だけが残った。
正孝は、呆然としたまま辺りの風景を見回す。
薫風社が事務所を構える三番町のビルからは、千鳥が淵に沿ってつづく桜や楓の並木道が見える。
慌ただしく動き回っている間に、10月も残すところわずかとなっている。
全国から出雲に集まっていた八百万の神々も、あと少しでそれぞれの居場所に戻ってくるはずだ。
今の空虚は、神無月に応答しているのだろうか。
正孝は、応接室に掲げた風神雷神図を、これまでにない感慨を持って見つめていた。
(人間のやることは醜い・・・・)
原子力ムラに関わる学者や一部のコメンテーターのことが、正孝の意識の表層に浮かび上がってくる。
本来無垢であるべき白布が、薄汚れた川を泳がされて薄墨色に変色するさまが堪えられないのだ。
利益を貪る事業者や権力者は、どういうわけか正孝の苛立ちから外れている。
黒という色には、黒だけが持つ開き直りのふてぶてしさがある気がする。
(あいつらは原子力の黒、わしは風力の黒だ)
あえて露悪的になるのは、行き場のない憤りを持続するためだ。
立ち向かっていくには覚悟が要るが、正孝は自分に残された力の多寡を窺った。
(ギリギリだな)と、直感する。
これまでに得た資金と、この先かかるだろう経費を天秤にかける。
艶子の事件があって以来、調査会社から送られてきた請求書には、かつてない金額が記されていた。
新たに依頼する調査にも、かなりの経費を見積もっておかなければならない。
それに自ら動く交通費や宿泊費も、どれだけ嵩むか見当もつかない。
正確な金額は分からないが、概算ギリギリだなと思うのだ。
覚悟を決めると、正孝は薫風社の解散手続きに入った。
印刷会社には3月号発行をもって雑誌を廃刊にすることを伝え、これまでの未払金について請求書を送らせた。
購読会員にも廃刊の主旨とお詫びを送付し、前払いで預かった会費を年度末に精算するむね通知した。
今まで協力してくれた再生可能エネルギー関連の企業・団体には、体調面の問題で継続が難しくなったと解散の理由を説明した。
通知が届くと多数の電話がかかってきたが、「いやあ、後継者も作れなかった不徳の結果ですかねえ」と嘆いてみせた。
原稿はすでに12月号まで組版中だ。
新年号では、何か衝撃的な特集をぶち上げてやろうと想を練っている。
(最後っ屁とは、うまい言葉があるもんだ)
正孝は、心の内でほくそ笑む。
2月号、3月号が、無事発行できるかどうかは、この先の正孝自身の行動にかかっている。
その意味では無責任な結果になるかもしれないが、四角四面に生きてきた身としては最後に見せるわがままだ。
三番町の事務所も、来年3月限りで閉鎖することになる。
神田神保町にある編集代行社にも、委託の打ち切りを伝えなければならない。
電話番の女性事務員には、年内で辞めてもらおうと思っている。
(あと、何か忘れていることはないだろうか)
正孝はゆっくりと室内を見回す。
そうだ、『風神雷神図屏風』の複製画はいつ外そうか。
薫風社の象徴であるだけに、活かし方を考えてやらなければならない。
それに、もう一つ・・・・。
正孝の頭の中で、何かが弾けた。
これまで避けていたものに火箭が当たったのだ。
(やむを得ない、明日には話そう)
弾けた以上、逃げるわけにはいかない。
久しぶりに家に帰り、女房に長年連れ添ってもらった礼を述べ、離縁を申し渡すことにした。
実際、正孝はその夜のうちに離縁の話を切り出した。
どういう風の吹き回しか、彼のために黙々と食事の支度をしていた妻は、一瞬驚いたように正孝の表情をうかがったが、すぐに食卓に視線を向けた。
「あなたの好きなイカの刺身と里芋の煮っ転がし、すぐにアサリの味噌汁を持ってきますから召し上がってください」
「なんだ、お前わかっていたのか」
しかし、女の直感というには、あまりにも劇的すぎる。
あるいは、正孝の気配を察してどこかからご注進でもあったのだろうか。
妻はやんわりと否定し、「福田艶子さん、亡くなったんでしょう? 新聞で読みましたわ」とだけ言った。
「そうか、そういうことか・・・・」
正孝は、妻の心中を思って絶句した。
一呼吸おいて、理不尽な離婚だから、別れる代償として正孝名義の財産をすべてお前に引き渡すと伝えた。
贈与だなんだとうるさい問題が生じそうだが、そのへんのことは弁護士にうまくやってもらうと付け加えた。
前から家庭内別居の状態だったから、離婚が成立すれば妻はほっとするだろうと考えていたが、「財産なんて、どうでもいいことよ」と呟いた。
(ひょっとして、取り返しのつかないことをやってしまったのだろうか)
悔やむというより、猛烈な寂しさが襲ってきた。
ただ、後へ引くわけにはいかない。・・・・すでに退路を絶ったのだ。
「すまない。言うとおりにしてくれ」
「それが、あなたの家の掟ですものね」
一度言い出したら、変節することがないという意味もあるが、正孝の家系が曽祖父の代まで任侠の世界にあった事実を指しているのだ。
そして、祖父は山師、父親は名の知れた総会屋だったことも彼女は知っている。
正孝は、配下に守られた父親を遠くから見て育った。
愛情をかけられた記憶はあまり無い。
妻は結婚当初から、正孝のそうした血筋に不安を抱いていたのだろう。
主人の言うことには絶対服従のもと、これまで従順に付き従ってきたが、ある時から正孝のたまの帰宅にも感情を表さなくなった。
「わしの身に何かが起こると、お前に迷惑が及ぶと思ったから決断したことだ。許してくれ」
正孝はそれきり言葉を発せず、妻の用意した夕食を黙々と口にした。
(こんな時に、こんなにうまい浅蜊の味噌汁を出すなんて・・・・)
鼻腔を抜ける信州味噌の香りが、喉元を通過する貝の旨みと響きあっていた。
思いがけない成り行きで、殺伐とした場面にならなかったことに、正孝は救われた。
それどころか、妻の計らいで滋味あふれる最後の晩餐になったようだ。
美味かったとか、ご馳走さまとか、ねぎらいの言葉をかけられない弱みをかかえて、テーブルの前を離れた。
正孝はそのまま寝室にこもると、父親が死んだあと形見にもらった木製の杖を鴨居から下ろした。
材はイタヤカエデと聞いているが、歳月を経る間に滲み出る樹液のようなもので変色していた。
見た目は、ただの古びた杖である。
把手のある西洋風のステッキに比べれば、価値などまったく感じられない代物だ。
ただ、元々は鉱山から鉱山へと渡り歩いた祖父の持ち物だったらしいから、多少の曲がりと無骨な握りが似合っているのかもしれない。
そして、この杖には、任侠に生きた曽祖父の代からの血のようなものが流れている気がする。
正孝にもうまく説明できないが、徒党を組む精神とは相容れない気質といっていいのかもしれない。
あるいは、「反骨」とでも・・・・。
正孝は、手にした杖を布で丁寧に拭った。
汚れを払っておいて、両手で持ち具合を確かめた。
(以前手入れをした時と、何も変わったところはない)
腕に伝わる重みは、この杖の命なのだ。
翌日から、正孝の身辺はいつもにも増して忙しくなった。
調査会社と弁護士に連絡し、まず身の回りのことから段取りを始めた。
続いて取引業者や読者などの反応にも、注意深く対応した。
小さな会社を畳むだけでも、どれほど大変かと思い知らされた。
それでも、正孝の胸中には爽やかな風が吹いていた。
迷いのなくなった生き方の、なんと心地好いことか。
空虚に思えた東京の空も、11月に入ると厳粛さを感じさせるものになった。
正孝は、師走を迎える前に新年号の原稿を編集代行社に渡した。
薫風社解散へ向けての道筋も、急速に準備が整っていった。
(つづく)
ご覧ください。