どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

(超短編シリーズ)107 『鳥を呼ぶ女』

2014-12-23 03:47:30 | 短編小説

  

 秋の高空に、忘れ柿が三つ浮かんでいた。

 山梨県の長坂町に建てた別荘に妻を移り住ませて、二年目に見る風景だった。

「みゆきさん、あれを見てごらん」

 松村は道端にサイドカーを停め、傍らの妻に指差してみせた。「・・・・ほら、柿の実が陽を受けて輝いているよ」

 すると、ぽうっと空を見上げていた妻が突然側車から降り、柿の木に向かって右手を挙げ小さく弧を描き始めた。

「あの子、ずうっとわたしに従いてくるわ」

 なんのことか分からず、松村は妻の示す空の一角を凝視した。

 柿の実は依然としてそこにあった。

「ああ、舞ってる舞ってる・・・・」

 ほとんど葉の落ちた柿の枝が大手を広げる上空を、いつの間に現れたのかトンビが輪を描いていた。

 妻のみゆきは、トンビの動きに合わせるようにゆっくりと腕を回す。

 ヴァイオレットのセーターから覗く白い手の指に、昼下がりの日の光が当たっていた。

「トンビと知り合いなのかい?」

 松村はちょっと茶化して妻の顔を見た。

「そうなの。あなたが私を置いていっちゃうから、一日中鳥さんや虫さんとお話しているの」

 瞬間、松村の首筋を電気が走った。

 ひび割れたような感覚が数秒残った。

 彼が仕事で東京を離れられないことを、妻も十分に理解していると思っていただけに、唄うように漏れた言葉が胸にひびいた。

 松村は、自分の携わる医師会事務局のオフィスを脳裏に浮かべていた。

 市ヶ谷駅に近いマンションから、徒歩十分とかからない東京事務所まで週に五日間通勤している。

 もっともそれは建前にすぎず、朝十時頃出勤して部下の職員に仕事の指示をすることもあれば、電話一本で出張を告げ姿を見せないこともあった。

 一見秩序を乱しているように見られるが、松村が勤務態度をチェックされることはない。

 彼がそのオフィスのトップだからだ。

 そして、十数名の部下を厳しく査定することもない。

 むしろ出勤した日には、「〇〇ちゃん、お早う。もう、クリスマスイヴのホテルは予約したかい?」などと、女子職員の機嫌を伺いながら冗談を交わす日々だ。

 給料も手当も潤沢に割り当てられているから、職員はのびのびしているし、電話での応対もギスギスしたところはなかった。

 その代わり、一朝事あるとオフィスの雰囲気は一変する。

 たとえば診療報酬の引き下げとか、薬価基準の見直しとか、直接間接に影響が及ぶときには、医師会役員から政治家まで連絡網をフル回転する。

 そうした時の松村は、事務所に泊まり込みのこともあれば、自ら議員会館に出向いて医師会上部理事との密会を段取りしたりする。

 謂わば忍者のような立場をこなしてきたから、東京オフィスの裏方のトップでいられるのだ。

 勤務態度を評定されることはないが、じわじわと明らかになる実績をどこかで見られていることは意識していた。

 

 妻の口から「置いていっちゃう・・・・」と言われたのは、やはりショックだった。

 松村は結婚当初から、みゆきを愛していたし現在も変わり無いと思っている。

 東京での生活は何不自由なくさせていたし、宝塚歌劇のファンでもある彼女に対し、公演に合わせてチケットや新幹線切符の手配をしたりしていた。

 しかし、二度目の流産をしてから妻の好みに変化が現れた。

 温泉旅行や山歩きに興味を示すようになったのだ。

「みゆきさん、どういう風の吹き回しかな?」冗談のつもりだった。

「わたし、シキューがはしゃぎすぎていたみたい・・・・」

 一瞬意味が分からず、自分の言い方に何か拙いことがあったのかと訝しんだ。

 (あっ)・・・・気付いたのは、しばらく経ってからだ。

 松村は、ビニール袋に入った牛肉の塊を頬に押し付けられたような衝撃を受けた。

 グニュッと皮膚に同化する感触が、生理的な嫌悪感を呼んだ。

 その瞬間、妻が受けた喪失の重みと、それにめげずに立ち直ろうとする芯の強さにたじろいだ。

 彼女はまだ諦めていないのだ。

 温泉治療や持続的な運動がもたらす効果を信じ、希みを捨てまいとしているのが感じられた。

 一方、夫である自分は妻の変化の理由に気づいていなかった。

 悔いる気持ちが強く働いたのは、これから妻とどのように付き合っていけばいいのか自信をなくしたからである。

「そうだ、今度の土曜日に二人でツーリングしないか」

 医師たちとの付き合いを念頭に購入したハーレーダヴィットソンを、初めて妻とのドライブに使う提案をした。

「わあ、うれしい・・・・」

 声をあげる妻をサイドカーに乗せて、松村は初秋の中央高速道に乗り入れた。

 ヘルメットにサングラス、首にスカーフをなびかせたみゆきは、後続の車窓からたくさんの視線を浴びた。

 松村は左端の走行車線を守ったまま、ゆったりとした速度で風を友にした。

「休みたくなったら、いつでも言ってね」

 彼の持つ最大級の音量で掛けた言葉に、妻は(うん?)という表情をした。

 ドッドッドッド。アクセルレバーを通した心地よいリズムが体中を駆け巡った。

 (愛してるよ)

 ときおり返ってくる妻の視線が、いつにも増して愛おしく感じられた。

 須玉インターで降りて、八ヶ岳の麓を目指した。

 夏の間はかなり混雑したはずだが、この日は清里のあたりでも適度な交通量に終始していた。

「ねえ、清春美術館ってこの辺にあるの?」

 赤信号で停車した隙に、みゆきが松村の方に伸び上がるようにして訊いた。

 地名を記した案内板を目にして連想したのだろうが、即座に「たぶん、この辺じゃないと思うよ」と答えた。

 松村は、とりあえず国道141号を外れ、整備された別荘地に通じる裏道にハーレーを乗り入れた。

 どこかで道を聞こうとしたのだが、思惑どおりに答えてくれそうな店舗や施設は見当たらなかった。

 いつの間にか清里駅に出たので、駅近くの土産物店で清春美術館の所在を訊ねると、奥から出てきた主人が県道28号経由の行き方を教えてくれた。

「へえ、そんなに近いんですか・・・・」

 少々山道が続くが、迷わなければ30分ほどで行ける距離だということだった。

 松村もツーリング・グッズの地図を取り出して確認すると、確かに長坂町中丸という地名に清春白樺美術館の表示があった。

「みゆきさんは、勘がいいねえ。それほど遠くないらしいよ」

 松村は、すぐに教えられた方向にルートをとった。

 

 あの日、みゆきは想像以上にはしゃいで、道中を楽しんでくれた。

 道端に咲く松虫草に手を伸ばして、シャンソンの一節を口ずさんだりした。

 清春白樺美術館を中心にした芸術村に着くと、十六角形の赤レンガの建物が目を引いた。 

 ちょうど昼過ぎに到着したので、併設のレストランでカレーライスとコーヒーで軽く腹ごしらえをした。

 レジの女性に近辺の名所を尋ねると、山向こうの白州町にある銘酒「七賢」の醸造元やサントリーの白州工場を教えてくれた。

 最初に寄った醸造元で酒粕入りのカステラや信玄餅を買い、この際とばかりに甲斐駒ケ岳を見渡せる尾白川沿いの砂利道にも入り込んだ。

 途中、妻は別荘専門の不動産案内看板に目を留め、しばらく見入ったりした。

 結局その時のツーリングが引き金になって、松村は長坂町で売りに出された別荘地を手に入れた。

 美術館を中心にした清春芸術村のある旧小学校跡地に隣接する場所だった。

 別荘地といえば、大概の場合リゾート開発業者等が管理することで信用が確保され、客も安心して購入に至るものだ。

 その点、今回売り出された物件は十数区画にすぎなかったが、すでにガスも水道も引かれていて、いつでも建築が可能というメリットがあった。

 松村はみゆきの希望も確かめて土地を購入すると、直ちに知り合いの設計士に依頼して木造二階建てログハウスの図面を作らせた。

 その際唯一希望したのは、リビングルームの一隅に大きな暖炉を設置することであった。

 その他の細々したことは、妻にすべて委ねた。

 自分がその場所に行くことは、滅多にないだろうと思ったからだった。

 

 別荘が完成すると、みゆきはすぐに移り住んだ。

 それが二年前の春のことだった。

 ちょうど桜が咲く季節で、清春芸術村を彩る桜並木を目当てに、多くの観光客が押し寄せるはずだった。

 みゆきは、そうした行きずりの人々に混じって、ざわめく雰囲気を味わいたいのかもしれない。

 すぐ裏手にあるログハウスの住人と知られないまま、猥雑な人込みに紛れることに密かな悦びを求めたとも考えられる。

 こうした性向は、みゆき自身も気づいていた。

 宝塚劇場まで何度となく足を運んだにも拘わらず、特定のスターに入れあげるといった昂ぶりを見せたことはない。

 華やか好きなのは確かだが、誰かとの関係が深まるのを逆に避けようとする傾向が強かった。

 政治家秘書として働いていた頃、松村に強く望まれ結婚に至ったが、決め手となったのは伯父である地方選出議員の鶴の一声だった。

「みゆき、ここまで望まれているんだから、行ってやったらどうかね」

 医師会内部の情報が容易く手に入るとでも思ったのか、秘書を辞めさせてまで松村の妻にと推したのだった。

 当初、松村もみゆきも子供の誕生を強く望んだ。

 しかし本来なら蜜月であるべき時期に、医師会をめぐる疑惑が勃発して、十数日間松村の音信が途絶えたことがあった。

 マンションの一室で、みゆきは焦燥の日々を過ごした。

 自ら政治家秘書の経験があっただけに、夫が書類を改ざんしたり隠滅したりする汚れ仕事をやらされているに違いないと推測した。

 そうした役目を担っている者は、自らの死をもって帳尻を合わせたりする。

 悪い予感が次々に襲ってきて、伯父に唆されて松村と結婚してしまったことを大いに悔いていた。

 やがて、ほとぼりが冷めたのか、松村がみゆきのもとに戻ってきた。

「どうして電話してくれないのよ!」

 睨みつけながら、夫の首っ玉にすがりついた。

 不安に晒されたことの反動か、命の再生を拒む何者かの悪意を意識しながらみゆきの欲情は沸騰した。

 ある期間、みゆきは憑かれたように子作りに励んだ。

 だが、妊娠を喜んだのも束の間、三ヶ月後には流産し、その後も似たような経過を繰り返した。

 (わたしが悪いっていうの?)

 打ちひしがれた気持ちの中で、運命的なものへの怯えが増幅していた。

 寂しかった。苦しかった。

 夫からサイドカーでのツーリングに誘われて、心底嬉しかったことに偽りはない。

 あの日、みゆきは長坂の自然に慰撫された。

 風も光も、特別のやさしさをもって彼女を包んでくれた。

 長坂の自然は、水も空気もこの世のものとは思えなかった。

 甲斐駒ケ岳の伏流水が、森を抜け岩に研がれ、この地域一帯に恵みをもたらすのだ。

 白州の酒も菓子も人びとの吐く息も、数百年間変わることなく受け継がれてきた。

 たった一日のツーリングであったが、みゆきは神意が彼女の肉体に降りて入り込むのを意識した。

 (わたし、ここに住むことになる・・・・)

「あなた、ありがとう。わたし、この土地と相性がいいみたい」

 松村とすれば、愛するみゆきのお気に入りの場所とわかったことが救いだった。

 その後の別荘建設に全力を尽くしたのも、妻のさざ波のような変化に対して畏れに似た感情を抱いたからかもしれない。

 

 妻を訪ねての外出は、何ヶ月ぶりだったろう。

 松村は、献金にかこつけてくすねた交際費の処理に、やっと目処をつけたところだった。

「みゆきさん、トンビがいつの間にかいなくなったよ」

「ええ、もうあなたの気持ちは分かったからといって、おうちに返したの・・・・」

 松村は妻の手を取って側車に乗せたあと、チラリと上空に視線を走らせた。

 (この人は、本当にあのトンビと意志を通わせたのだろうか)

 彼女が直接そのような趣旨のことを言ったわけではないが、小鳥や虫との会話を造作無く交わしている印象があった。

「あなたはまだ知らないでしょうけど、夏のあいだに面白いことがあったのよ・・・・」

 みゆきは、松村の心中を察知したように言葉を継いだ。

 それによると、大きなカマキリが小さいカマキリを虐めていたから「よしなさい」と叱りつけると、一瞬みゆきの目を見て別の枝に移っていったという。

「目が合っちゃったのよ。・・・・複眼って、過ちを犯してもすぐ改められるように神様が作ったんじゃないかしら?」

「おう、わかったよ。きっと、みゆきさんの言うとおりだと思う」

 松村は、妻が次に何かを言い出す前に、ハーレーダヴィットソンのエンジンを始動させた。

 再び、心地よい排気音が心臓の鼓動とシンクロした。

 日中は日射しも温かく、空にも光が満ちていたが、忘れ柿を包む蒼い大気から気まぐれな粒子が飛び去ろうとしている。

「寒くないかい。・・・・そろそろ家にかえろうか」

 散歩の代わりに連れ出しただけだから、気晴らしが済めば遠出をする必要もない。

「ええ・・・・」

 普段は従順な花嫁である。

 週末だけ別荘を訪れる松村に、気を遣っているのかと思うほどだ。

 いや、気を遣っているのは自分の方だぞ。

 何かと妻をいたわる自分の態度に、奥底にある怖れを見てしまうのだ。

 (まるでボケ始めた女房にオタオタしている亭主のようじゃないか)

 みゆきの能力は、まだまだこんなものじゃないはずだ。

 昔話や絵本の世界そのままに、動物を叱ったり言い聞かせたりできるだろう。

 そういえば妻は、長坂町のどこかにオオムラサキの羽化を見られる場所があると言っていた。

 蝶の女王とでもいうべき優雅な個体の息づきを、みゆきは喜々として話していたことがある。

「長坂には、オオムラサキの好む食草がいっぱい生えているの」

 限られた場所に自生するカンアオイを幼虫がもくもくと咀嚼し、やがて眩いばかりの命を開花させる瞬間に立ち合ったのだという。

 自然が内包する神秘に触れたみゆきは、もう松村の住む人間界には戻って来そうもないように感じられた。

 松村が去れば、妻は別荘の柵に取り付けた餌台に寄ってくる小鳥たちと、終日言葉を交わし遊び続けるだろう。

 それを異様と決めつける気持ちはない。

 みゆきは正常であり、崇高でさえあるとさえ思っているのだ。

 ただ、際立った自然の中に住処をみつけ、虫を叱り、鳥を呼ぶ女が、これから自分とどう係わってくるのか戸惑うのだ。

 座標の位置を決められない松村の足元で、みゆきとの愛が星間距離ほども遠ざかってしまう恐怖を感じていた。

 

      (おわり)

 

 

  * 作品中の登場人物・団体名はすべてフィクションです。

 

 


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4 コメント

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鳥を呼ぶ女 (いわどの山荘主人)
2014-12-26 17:59:38
貴兄の大作、鳥を呼ぶ女<6ページ>を印刷して農園ハウスで日向ぼっこしながら読ませていただきました。
晩秋から初冬にかけての風景<残り柿>がみえてきます。
情景描写の模様を教えていただきました。
わたしは若いときに余り本を読まなかったので、ブログ日記でも辞書を引きながら懸命にやっております。
今後ともよろしくお願いします。
年が明けるとすぐに76翁となります。
返信する
自然に精通している方に・・・・ (tadaox)
2014-12-26 23:24:18
プリント・アウトしてお読みいただいたとのこと、大変うれしく感謝申し上げます。
普段農業に接し、何もかも精通している方に<残り柿>の描写を取り上げていただき、恐縮しております。

これからも勉強しながら書いていきたいと思います。
良い年をお迎えください。
ありがとうございました。
返信する
自然と生きる (aqua)
2014-12-27 17:22:54
こんにちは

みゆきさんはご自分の世界を開かれたのですね

コンクリートジャングルの籠の中
夫の帰りを待つ女ら
鳥を呼ぶ女に変身したのは
辛い思いから解き放たれたのでしょうか
自然界の強さを感じて
力強い女に変身されたように感じます


忘れ柿が陽を受けて輝いている情景は
大好きな原風景でもあります
いつもtadaoxさまの文学の世界で
写真の表現力を勉強させていただいています
ありがとうございます!


返信する
夫婦の愛をつなぎ止めるもの (tadaox)
2014-12-28 00:29:04
(aqua)様、こんばんは。
夫婦の間の微妙なズレをもたらすものに目を向けていこうと思いました。
テーマははっきりしているのですが、男の自分にどこまで分かるのか手探り状態です。

ところで、最近の人間と動物の間のコミュニケーション能力が、以前より向上しているように思うのですが、思い込みに過ぎないのでしょうか。
興味深いので、考慮に入れたいと考えています。
ありがとうございました。
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