この家の主人が、また笑った。
「こいつはね、子犬のときはタケチヨと呼ばれていたんですよ。ところが三歳のころ、散歩中急に道路に飛び出して、リードを握っていたわたしの友人を引きずったものだから、運悪くトラックに接触して死んでしまったんです。はずみというのは恐ろしいですな。犬の方はこの通り無傷で、神妙な顔で家に戻ってきたんですが、奥さんが許しませんわな」
しばらくの間、ヒトゴロシと罵って虐待したという。
「すごい話ですね」
「どちらも憐れでしょう」
「それで、ご主人が引き取ったんですか」
奥さんは、本当はタケチヨをかわいがっていたのだが、主人を殺す結果となった行為を許すわけにいかず、板ばさみの苦しみからノイローゼに陥った。
「成犬になってから飼い主が変わるのって、大変なことなんでしょう」
主人は深くうなずいた。
「犬にもストレスがあります。しかし、新しい環境を受け入れるしかないことも事実、だからボスが変わったことをはっきりさせるために、ラカンと名前を変えたんです」
桂木は、ラカン、ラカンと頭の中で繰り返した。羅漢でなければ、ラカンだろうと想像がつく。カタカナの字面が、無理なく目に浮かんだ。
甦ったものがあった。大学の講座で心理学を学んだとき、フロイトやユングと並んでラカンの名を聞いたことがある。
「まさか、あのラカンでは?」
桂木は首をひねりながら、胸のあたりを指差した。
「そうなんです、あのラカンです。なにせ、父殺しの系譜を継いでいますからな」
主人は愉快そうに笑って、足下の犬に目を細めた。
しばらくの間、犬の精神分析を聞かされた。主人によると、タケチヨ時代のラカンは、ボスが誰なのか明確に決められなかったのではないかという。食事も散歩も、死んだ友人とその妻が気まぐれにやる。何かというと派手な夫婦喧嘩で、どちらかが屈するということがない。順位付けが分からないものだから、犬はいつも人間の顔色を窺って、おどおどしていたのだ。
友人に連れられて散歩に出た日、犬の頭に突然奥さんの存在が閃いた。
旦那なんかとのんびり散歩していて、いいのだろうか。
そう考えたとき、(こうしちゃあ、いられない)と、急に回れ右をしたのだ。
桂木は呆気にとられながらも、主人の話を本気で受け入れていた。
「タケチヨはね、無意識のうちに奥さんを選んでいたんですよ。なんといっても牡ですからね」
主人は自信を深めたように、桂木の表情を窺った。「・・犬の場合、人間と同じように考えていいのか知りませんが、結果的に父殺しが現実になった。タケチヨにとって、死んだ友人が父役だったと見立てていうんですがね」
桂木はその日、継ぎ竿を買う約束をして、店を後にした。釣具の専門店に、銘入りの作品が置かれるほどの腕前らしく、値段を聞いてあわてたが、何かの縁だからと卸値で分けてくれることになった。
家に戻って、湯上りにバスローブ姿でウイスキーを含んでいると、ついその気になってしまった心の動きが視えてきた。見栄と欲とがけっこう健在で、そんな自分に思わず笑いがこみ上げてくる。
「ばか言っちゃ、いけねえよ」
と、ウイスキーに噎せて、笑いが涙になる。和竿作りがもうすぐ絶えて、やがて博物館でしか見られなくなるのではと嘆いてみせた主人の話に、こちらから乗っ込んでいった節もある。その上、犬のエディプスコンプレックスときちゃあ、笑いが止まらない。
ふと、桂木は腑に落ちない表情を見せた。四日前に花大根を盗掘していた彼を、ラカンは認識していたかもしれないと疑ったのだ。たかが犬ではないか・・と反発する気持ちは強いのだが、忌々しいことに心は平静になれなかった。
忌々しくても、頭に残った主人の話は消しきれなかった。さまざまな思いが、行ったり来たりする。飼い主のせいなのか、ラカンとの醒めた主従関係も気にかかる。
改名の由来を語る主人の声が、耳に残っている。笑い飛ばす主人の足下で、前足を揃えて聞き流していたラカンの印象が、桂木を再び真顔にした。
(続く)
「こいつはね、子犬のときはタケチヨと呼ばれていたんですよ。ところが三歳のころ、散歩中急に道路に飛び出して、リードを握っていたわたしの友人を引きずったものだから、運悪くトラックに接触して死んでしまったんです。はずみというのは恐ろしいですな。犬の方はこの通り無傷で、神妙な顔で家に戻ってきたんですが、奥さんが許しませんわな」
しばらくの間、ヒトゴロシと罵って虐待したという。
「すごい話ですね」
「どちらも憐れでしょう」
「それで、ご主人が引き取ったんですか」
奥さんは、本当はタケチヨをかわいがっていたのだが、主人を殺す結果となった行為を許すわけにいかず、板ばさみの苦しみからノイローゼに陥った。
「成犬になってから飼い主が変わるのって、大変なことなんでしょう」
主人は深くうなずいた。
「犬にもストレスがあります。しかし、新しい環境を受け入れるしかないことも事実、だからボスが変わったことをはっきりさせるために、ラカンと名前を変えたんです」
桂木は、ラカン、ラカンと頭の中で繰り返した。羅漢でなければ、ラカンだろうと想像がつく。カタカナの字面が、無理なく目に浮かんだ。
甦ったものがあった。大学の講座で心理学を学んだとき、フロイトやユングと並んでラカンの名を聞いたことがある。
「まさか、あのラカンでは?」
桂木は首をひねりながら、胸のあたりを指差した。
「そうなんです、あのラカンです。なにせ、父殺しの系譜を継いでいますからな」
主人は愉快そうに笑って、足下の犬に目を細めた。
しばらくの間、犬の精神分析を聞かされた。主人によると、タケチヨ時代のラカンは、ボスが誰なのか明確に決められなかったのではないかという。食事も散歩も、死んだ友人とその妻が気まぐれにやる。何かというと派手な夫婦喧嘩で、どちらかが屈するということがない。順位付けが分からないものだから、犬はいつも人間の顔色を窺って、おどおどしていたのだ。
友人に連れられて散歩に出た日、犬の頭に突然奥さんの存在が閃いた。
旦那なんかとのんびり散歩していて、いいのだろうか。
そう考えたとき、(こうしちゃあ、いられない)と、急に回れ右をしたのだ。
桂木は呆気にとられながらも、主人の話を本気で受け入れていた。
「タケチヨはね、無意識のうちに奥さんを選んでいたんですよ。なんといっても牡ですからね」
主人は自信を深めたように、桂木の表情を窺った。「・・犬の場合、人間と同じように考えていいのか知りませんが、結果的に父殺しが現実になった。タケチヨにとって、死んだ友人が父役だったと見立てていうんですがね」
桂木はその日、継ぎ竿を買う約束をして、店を後にした。釣具の専門店に、銘入りの作品が置かれるほどの腕前らしく、値段を聞いてあわてたが、何かの縁だからと卸値で分けてくれることになった。
家に戻って、湯上りにバスローブ姿でウイスキーを含んでいると、ついその気になってしまった心の動きが視えてきた。見栄と欲とがけっこう健在で、そんな自分に思わず笑いがこみ上げてくる。
「ばか言っちゃ、いけねえよ」
と、ウイスキーに噎せて、笑いが涙になる。和竿作りがもうすぐ絶えて、やがて博物館でしか見られなくなるのではと嘆いてみせた主人の話に、こちらから乗っ込んでいった節もある。その上、犬のエディプスコンプレックスときちゃあ、笑いが止まらない。
ふと、桂木は腑に落ちない表情を見せた。四日前に花大根を盗掘していた彼を、ラカンは認識していたかもしれないと疑ったのだ。たかが犬ではないか・・と反発する気持ちは強いのだが、忌々しいことに心は平静になれなかった。
忌々しくても、頭に残った主人の話は消しきれなかった。さまざまな思いが、行ったり来たりする。飼い主のせいなのか、ラカンとの醒めた主従関係も気にかかる。
改名の由来を語る主人の声が、耳に残っている。笑い飛ばす主人の足下で、前足を揃えて聞き流していたラカンの印象が、桂木を再び真顔にした。
(続く)
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