修三は犬が大好きだ。
だが、いまだに一度も犬を飼ったことがない。
飼わない理由はいくつかあるが、強いて一つ挙げれば、四六時中付き合う自信がないからである。
犬を可愛いとおもうのは、犬が飼い主を無条件に信頼しているからである。飼い主も、その信頼に応えてやらなければ信義違反になる。
だから、何度も心を動かされながら、あと一歩を踏み出せない。
そうこうしているうちに、飼い主になる意欲が後退した。特別の関係なしに犬と接するのも、けっこう面白いことに気付いたからである。
犬との近所付き合い。・・・・そう、餌という利権を排除したら、彼らはどのように動くのか。
飼い主には見せない彼らの対応が、けっこう興味深いものとして修三の目の前に置かれたのである。
いま、最も身近かで遠い存在に感じられるのは、隣家のアキナちゃんだ。立派な犬小屋とともに引越ししてきたのが八年まえだから、人間の年齢に直せばちょうど六十歳というところか。
修三の知る限り、彼女が見合いや恋愛を経験した形跡はない。つまり、オトコを知ることなく還暦を迎えたのである。
ペットの世界では、それほど珍しくもないようだが、いきものの生理からは逸脱しているから、どこかに歪みが出てくるだろうというのが、修三の見解であった。
アキナちゃんは、よく吠える。
道路から一段高くなった敷地の、さらに嵩上げされたテラスの上に陣取って、眼下を通る小学生や通行人にちょっかいをかける。
小学生の方も心得ていて、アキナちゃんの吠え声をそっくり投げ返す。
ワンワン、ワンワン。ウーワン。
石垣の下を走り回る子どもたちを追いかけて、アキナちゃんがさらに吠えたてる。
たまに、何も知らない通行人が通りかかると大変だ。いきなり頭の上から攻撃をうけて、肝を冷やすことになる。
いつだったか、派手なドレスのチワワを連れて通りかかった婦人が、胸を押さえてしゃがみ込んでしまった。そのあとわれに返り、犬を抱き上げて避難したが、その時が修三にとっても一番ショックを受けた場面だった。
「こわい、こわい。ミイちゃん怖いねえ」
修三は、その婦人に同情しながら、アキナちゃんの勝ち誇った立ち姿を眺めて、彼女の心中を憶測した。
家に居るときは、アキナちゃんはリードを外されて全くの自由である。垣根の内側を、表口から裏側まで競技場のように一周できる。
郵便局のおじさんや、新聞配達のお兄さんにもよく吠える。バイクに恨みがあるかのように、彼らが居る間中吠えまくる。
毎日顔を見せる者ですらそれだから、たまに人が変わると大変な騒ぎになる。生垣越しに飛び掛からんばかりで、びっくりした配達人が思わず手を引っ込める勢いなのである。
こうした連日の大騒ぎにもかかわらず、隣家の飼い主が出てくることは滅多にない。番犬だから当たり前とおもっているのか、アキナちゃんをたしなめる様子は見られない。だから、アキナちゃんは一日中、家の周りを走り回っているのである。
アキナちゃんを一番可愛がっているのは、一流商社に勤めるご主人だ。
朝は三十分ほど散歩をさせてからの出勤だし、夜はどんなに遅くなってもひとしきり身の回りの面倒を見てから、犬小屋の前を離れるのである。
そんなわけで、昼間の飼い主は令夫人にバトンタッチされる。朝夕二回の給餌は、それぞれ一度ずつ分担しているような気がする。夕方、アキナちゃんの名を呼ぶ令夫人の声がするから、おそらくその頃が夕食タイムなのだろう。
アキナちゃんの傍若無人には無関心を通しているが、令夫人が出かけるときは、修三も目を見張るほどの盛装をする。
あまり明るい色を好まないらしく、黒をベースにしたコーディネートなのだが、四季それぞれの装いが際立って見えるのである。
うわさでは、令夫人は元ソプラノ歌手だったらしい。
何かのコンクールで二位に入賞した経歴を持ちながら、熱狂的なファンにつけまわされて、怖い思いをしたらしい。以来、ステージに立つことが出来なくなり、声楽家の夢を断念することになったというのである。
(続く)
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毎回楽しみに読ませていただいていた『おれという獣への鎮魂歌』が、突然(未完)で終ってしまってがっかりしていました。
でも始まりましたね。
新しい作品が。
まだ物語りは動き始めていませんが、何か起こる予感が満ちていて快調な滑り出しです。
これから楽しみにしています。
小さなミスだったのでしょうが「犬の年齢に直せば」は「人間の年齢に直せば」かと。
余計なこと言ってすみません。
読むものの予測を裏切るような面白い展開を期待しています。
ともかくも新しい小説のスタートをお祝いいたします。
そしていつかぜひ『おれという獣の鎮魂歌』の続きを書いてください。待っている読者が私以外にもいることをお忘れなく。