「久しぶりに見るチンドン屋さん」
チンドン屋さん
景気が低迷して実に久しい。
ちょっと中心を外れると、たいがいシャッター商店街がつづいている。
こうなったきっかけは、「新大店法」とかいう法律が施行され、スーパーマーケットやアウトレットが実質的規制緩和のもとで一気に増えたからに違いない。
大量仕入れに大量販売、庶民にとっては品物が安価に手に入るメリットはある。
ただ、それまで肩を寄せ合って商売を支えていた下町商店街はなすすべもなかった。
当時の小泉首相が漏らした言葉で最も印象に残っているのは、「ああ、面白かった」という一言。
私鉄沿線の駅を中心に、昔ながらの乾物屋とか時計屋、レコード店、豆腐屋、洋装店、電気店などが軒を並べていたのに、いま目につくのはシャッターばかり。
商店会のつながりも消え、客とのコミュニケーションも断たれ、街全体から人情が失われた。
この状態も見越して「ああ、面白かった」といったのかどうかわからないが、弱肉強食、格差拡大が念頭にあったことは否定できまい。
ともあれ、あれだけ熱狂的に支持したのだから、いまとなっては後の祭り、人情と引き換えに経済至上主義がまかり通ることとなった。
現在の喫緊の問題<原発>をどうするかについても、企業の都合や立地住民の雇用を楯に存続を主張する人が少なくない。
日本全体の安全を脇に置いて、ある種のエゴを押し通す風潮は、あの頃から急速に勢いを増したのではないだろうか。
振り返ってみると、われわれ以降の若者が夢を失い、潤いを失くしていった経緯が見える気がする。
こうした背景を考えると、街の中からチンドン屋さんが消えたのも納得がいく。
広告の主体が、テレビやネットに移ったからという者もいるが、それらは大手の話で、地域限定の宣伝はチンドンとチラシが担っていたのである。
聞くところによると、現在でも都内にチンドンを生業とするプロが30数人いるというが、営業の場所が限られていて月に何日かしかお呼びがかからないらしい。
そんな事情の中、おっちゃんは久しぶりにチンドン屋さんを見かけたのである。
中央線沿線の街に買い物に行ったとき、商店街のパチンコ店の前で偶然出会ったのだ。
うれしかったねえ。
子供のころから結構見なれていたから、チンドン太鼓のリズムもクラリネットのメロデイもたちどころに甦って来る。
色鮮やかな衣装から、ドラムや鉦や背負い看板、傘まで、いく通りか思い出せる。
なんといっても、練り歩きの際の身体の動きが忘れられない。
音曲に合わせて、右に左に身体を揺する一行について回ったこともある。
ひとり昔を懐かしんでばかりで申し訳ないが、当時のチンドン屋さんの白塗りの顔とか時代劇風の形(なり)とか哀愁があったんだよなあ。
時代が変わって、今回目にしたチンドン一行は、変装はしているが化粧はあまりしていない。
許しを得て写真を撮らせてもらったから、見た通りである。
毎年富山で開催される全日本チンドンコンクールでは、かなり大がかりな出しものも登場するらしいが、実際の営業では今風に変わってきているのだろうか。
まあ、パチンコ業界も昔の面影はないし、予算の関係で派手なパフォーマンスも注文できないのだろう。
ただ、久しぶりに目にしたチンドン屋さんのおかげで、こちらも元気が出たのは確かである。
少しずつでも街に活気が戻ることを祈りつつ、その場をあとにしたのであった。
(おわり)
にほんブログ村
だけど、上の画面にはちゃんと写っている。
幻のようですが、本当に練り歩いていたんでしょう。
なぜ、チンドン屋が街から消えたかを考えると、簡単に言って時代の進歩か変化にあるのでしょう。
宣伝手段が多様化し、直接に人力を必要とするチンドン屋がどんどん後退していったとか。
でも、さびしいですねぇ。
商店=小売店の減少や後退に伴っているのでしょうが、このうえさらに大型店やチェーン店ばかりの世の中になったら、まずは人情の温かさなんて消滅せざるを得ません。
幼子がお小遣いを握って馴染みに店に駆け込むなんていう可愛い図も置き去りにされたように。
そんな状況を〈景気の長期低迷〉と断ずるだけでなく、人間がますます人間でなくなっている風潮が遠因にあるようにも思えてなりません。
幼い子がお小遣いを握って・・・・そんな駄菓子屋も少なくなりました。
街全体が子供の姿を見守る。そうやって子供の安全も確保され、善悪の判断や思いやりの大切さを問わず語りに教えていたんだよね。
社会構造の変化、宣伝媒体の多様化、チンドンの衰退はやむをえないのかもしれませんが、人間の顔が見えるパフォーマンスは、いつか形を変えて復活する気もするんですよ。
それが富山の「全国チンドン・コンクール」というユニークなイベントで、毎年4月の第1金土日にあります。
ことしは、6日(金)~8日(日)で58回目を迎えました。