カラス君、まだ死なんよ
これだから、カラスは嫌われるんだよ。
テレビのニュースを見てそう思った。
北海道の海か湖で、鹿が氷の割れ目に落ちてしまい、もがけどももがけども這いあがれない。
時間が経過し、鹿が弱ってきたと思うころ、急にカラスが数羽氷上に下り立ち、その中の一羽が嘴で鹿の鼻面をつついた。
窮地に陥った鹿を容赦なく攻撃し、いっそう弱らせようとする意図が見え見えだった。
ところが、この攻撃が逆転をもたらした。
鹿が最後の力を振り絞って、氷の上に這い上がったのだ。
カラスの登場によって、それまで鹿の中に眠っていた潜在能力が呼び起こされた。俗に言う火事場のくそ力である。
カラスが鹿を奮起させたなどとは、間違っても思わない。
生きながら死の恐怖に曝されたことが、鹿の必死の脱出劇を成功させたのだ。
氷上に立った鹿は、しばらく息を整えたのち歩き出した。
外見からは分からないが、彼の頭の中にはさまざまの想いが渦巻いていたことだろう。
計り知れない状況の変化や、たえず直面する災厄に対して、以前よりもいっそう用心深く対処することを学んだものと思う。
ところで最近、私もカラスの存在に恐怖を覚える出来事があった。
散歩の途中、急激な疲れを感じて、公園を囲う石積みに腰掛けていると、いつの間に飛んできたのか近くの樹の枝に留まったカラスが、「カアー」と鳴いたのだ。
ほとんど頭上と言ってもいい場所で鳴かれたれたものだから、私はびくっと反応した。
それでなくても体調不良を感じていたときだから、切羽詰ったような不安を覚えたのだった。
気味が悪いので、息を整えて50メートルほど移動した。
カラスから一刻も早く遠ざかりたい思いだった。
再び低い石垣に腰を下ろし、携行していたペットボトルの緑茶を飲んだ。気分の悪さが何に由来するものか分かるので、用意していた黒糖飴を口に含んだ。
途端に、またも「カアー」である。先ほどのカラスが跡を付けて来たらしく、少し離れた樹の枝に留まってこちらの様子を窺っている。
無視しようと思ったが、カラスがもう一羽飛んできて左右の樹の枝に留まった瞬間、背筋に悪寒が走った。挟み撃ちに遭ったような恐怖だった。
(やつら、おれが死ぬのを待ってるのか)
鹿をつついた氷上のカラスの映像が頭をめぐり、私は本気で狙われたと思った。
こんな人目も多い公園で、人間がカラスに襲われることなど有り得ないと思いつつ、生体が感じたおののきは紛れもないものだった。
あとから、カラスは私が何かモノを食うと予想して飛来したのではないかと思いなおした。
日頃、公園内では来園者が弁当を広げたり、菓子の袋を開けたりするから、そのおこぼれをカラスが頂いていたのだろう。
だから、私が小休止したのを勘違いして、何らかのおこぼれに期待したと解釈するのが妥当かもしれない。
だが、私の胸の内には、まだカラスに対する疑念が残っている。
弱った者を察知する能力はピカイチのはずだから、へたり込んだ私を観察して衰え行くものと認識したのではないか。
いますぐ、どうというものではないが、ただただ本能的に感じるものがあったのではないか。
見抜かれたのかもしれないと思う私の心中は、正直穏やかならざるものがある。
「カラス君、まだ、わしは死なないよ」
体調の整った今は、強気に笑い飛ばしてやりたい心境だ。
人間現金なもので、気分次第でさまざまな反応が出てくる。
ああ言ったり、こう思ったり、ぐらぐら揺れる頼りなさだが、底の底を流れる水流は、ちろちろとどこまでも繋がって真実を運んでいる気がする。
♪カーラース なぜ鳴くの カラスは山に……なんて童謡があってお子さんには好かれそうだけど、実際には悪役にされているのは、なぜでしょうか?
このブログを読ませてもらうと、鹿も筆者も実際に襲われそうになった。だけど、難を逃れたようで、せめてもの幸いでした。
これからもどうぞご用心と体調管理につとめられますよう。