どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

月下の口笛(中)

2007-11-20 00:13:19 | 短編小説

 姉の冴子は、いまどの病院にいるのだろう?
 そもそも無事に生きているのだろうか。みどりから聞いたわずかな手がかりを元に、直ちに駆けつけたい気持ちが焦りとなっていた。
「すみません。・・・・お金を少し貸していただけませんか。家に帰ったら必ずお返ししますから」
 一刻も早く姉の消息を知りたい。どんな状況におかれているのかこの目で確かめたい。必死の思いが、みどりへの哀願となって言葉に出た。
「いいわよ。行ってらっしゃい。・・・・わたしもできればお見舞いに行きたいと思ってたんだから、新幹線代ぐらい持つわよ」
 知り合って間もない青年に、みどりは仙台での滞在費用を用立ててくれた。
 みどりと分かれた後、正人は姉の所在がわかったことを、すぐにも親に連絡しようとして公衆電話を探した。
 身内だから当然そうすべきだとの思いが彼を動かしていたが、電話ボックスの中に入って受話器に手を伸ばした瞬間、老いの兆候が著しくなってきた両親にいきなり知らせていいのだろうかと、その危うさに気づいて取りやめた。
 親に伝えるよりも、自ら確かめることが先決だ。
 東京ですらあまり出てきたことのない正人には、東北の都市についての知識はほとんどない。それでも、仙台と聞いただけでなぜか冷え冷えとしたイメージが想起されるのは何故だろう。
 具体的な理由があるわけではなく、積み重ねられた心象の累積なのだろうか。
 ブドウ畑での作業中に、つけっぱなしのNHKラジオから流れていた気象情報が繰り返し耳に入っていたことで、夏でも涼しく冬は底冷えのする寒冷地との印象が定着してしまったのかもしれない。
 他に仙台といえば七夕が頭に浮かぶ。最近ではどの町の商店街にも登場している七夕の飾り付けが、幼いころ笹竹に吊るした短冊の願いを踏みにじるように感じられて、前々から受け入れられない思いを抱いていた。
 十歳も離れているとはいっても、年齢が一番近い姉とは競うように千代紙を切り、さまざまな紙飾りを作って細枝に架けたという思い出もあった。
 仙台の地で倒れた姉に結びつくものが、そんな幼い頃の記憶しかないことが、正人の辛さとなってゆり戻してきた。
 午後から仙台に向かうという成り行きに、不安がないわけではなかった。
 しかし東京でさらに一泊する余裕は、金銭的にも心理的にもなかった。
 みどりの話では、冴子は出演していた仙台ロック座の楽屋で倒れ、近くの救急病院に搬送されたということだった。
 正確な病院名など肝心なことはわからなかったが、ロック座を訪ねさえすれば彩華の消息はつかめると思った。
(仙台市青葉区・・・・)
 正人は東北新幹線『やまびこ』の乗客となってボストンバッグを開き、みどりがレストランのナプキンにメモしてくれた住所と電話番号をもう一度確かめた。
 月曜日の午後とあって、車内は空席が目立った。
 何の予告もなく動き出した列車に、正人は緊張を覚えていた。頭ではわかっていても、発車ベルの鳴らない乗り物を恐れる感覚が体に染み付いているのだ。
 何度か車内販売のワゴンが通過して行ったが、節約の気持ちが働いて無関心を押し通した。
 窓外の風景を眺めているうちに、いつしか眠っていたようだ。心地好い温度が体内をめぐり、ここ数日の疲れがじわじわとにじみ出ていた。
 自分では気がつかなかったが、慣れない経験の連続でかなりストレスを感じていたようだ。
 うつらうつらと引き込まれる不規則なまどろみの下から、ときおり夢の形で不安が顔を覗かせた。
 連結部分のドアが開くたびに、風を切る車両の音が侵入してくる。機密性が高められている分、正人の眠りの底を浚う川音のように幽かなふるえを帯びて忍び入ってくるのだった。
 大きな川を越えて新幹線はスピードを緩め、駅構内に滑り込んだ。
 目を見張るような近代的な造りのコンコースを中央出口に向かい、駅の西口に降り立った。

 駅ビルから吐き出されて広場のようなペデストリアンデッキに立つと、この町のつくりが一望できた。
 猥雑な地上の混雑を一跨ぎして、人々は悠然と目的地に向かうことができる。
 正人は近くの階段から地上に降りて、道行く人に国分町の方向を訊いた。
「歩かれると三十分はかかりますよ。南北線のコウトウダイ公園から行くのが一番早いでしょう」
 地下鉄で二駅と聞いて、少しは気が楽になった。正人は丁寧に道を教えてくれた初老の紳士に礼を言って地下鉄の駅を目指した。
 コウトウダイ公園という駅名が『勾当台』であることは、出札口の上の表示板を見てすぐにわかった。
 地下鉄にはあまり馴染みのない正人であったが、ホームを含めた施設の新しさにこの街が持つ若々しさを感じていた。
 出口を示す案内板で国分町を確認していると、目的地に至るまでに有名なデパートやホテル、県民会館、神社、病院など、仙台の中心街を抜けて行くことを知った。
 正人が利用する韮崎駅など、ここから比べればあくまでも田舎っぽく牧歌的だ。 地下からの階段を登って整備された公園の緑の中に出たとき、杜の背後にそびえる白いビルを発見した。
 その建物が宮城県庁らしいと、公園をはさんだもう一つの出口を示す案内表示を思い出しながら確信した。
 これから訪ねようとする当地のロック座が、なぜか華々しい娯楽の殿堂として認知され、この街の一角に堂々と根付いているような気がして、姉の置かれた状況に明るい光が差しているような希望を抱いたのだった。
 定禅寺通りから左に折れてつい三越の方向へ向かったのは、人の流れにつられたせいかもしれなかった。
 少しでも知った名前がそこにあることで、寄る辺のない気持ちが慰められる。
 しかし、いつまでもそこに留まるわけにはいかず、正人はメモ書きの電話番号を取り出して輝く舞台を想い描きながら電話をかけた。
「そちらに行きたいのですが・・・・」
 正人の問い合わせに、客と思ったのだろう、係りの男は丁寧に道順を教えてくれた。
 はじめ地下鉄出口の位置で思い違いがあったが、どうやら正人の選んだ降車口よりもさらに国分町に近い出口があるらしかった。
 勾当台公園という名称に早とちりして、園地に沿った階段を選んだのが行き違いのもとだった。
 ともあれ、アーケード街を逸れて右に曲がると、交差する路地をいくつか越した先に目的の場所があった。
 華やかな商店街を抜けてきた正人は、この地のロック座を目にして束の間娯楽の殿堂と想い描いた錯覚が崩れるのを失望のうちに受け止めていた。
 浅草とは比べ物にならない小さな小屋だった。
 チケット売り場の横に出演中のダンサーの写真が展示されていたが、それがすべてなのか五、六人を数えるばかりで、同時に掲示されていた香盤表にも寂しいまでの人数が刷り込まれていた。
 小さく区切られた売り場の奥に、小柄で目つきの鋭い老婆が座っていた。
 正人がどのように声を掛けようかと迷っていると、「兄ちゃん、学生かい?」と身を乗り出してきた。「・・・・東北大学だろう。学生証あるかい、千円安くしとくよ」
 最高学府の学生が、好奇心に負けておそるおそる覗き込んでいるとでも思ったのか、勝ち誇ったように瞳を揺らして正人の顔を吟味した。
 老婆は灰色のネッカチーフで髪を覆っていた。欲も得もない年齢のはずが、客の心を見定めようとするかのような虎視眈々の眼光を隠そうともしなかった。
「・・・・彩華の弟ですが、姉は本当に倒れたのでしょうか」
 正人は切符切りの女が発する磁力に引き込まれるように口を開いていた。
 一方、老婆の方も思いがけない言葉を聞いて驚いた様子を示した。「え? あの子身内なんていないはずだよ。悪い冗談は止しとくれ」
「どこに入院してるんですか。具合悪いんですか」
 正人の真剣な面持ちに、気まぐれなファンのたくらみとは異なることをやっと理解したようであった。
「彩華の弟と言ったって、どこから来たのかもわからないじゃないか」
「山梨県です。浅草ロック座のみどりさんから聞いて駆けつけたんです。・・・・とにかく責任者の方に会わせていただけませんか」
 マニアや追っかけの態度とは明らかに違っていたからだろう、あわてて誰かに連絡をつけたようだった。
 それでも小窓から手を突っ込んで売り上げを狙う輩を警戒して、席を立っても視線は正人に釘付けだった。
「マネージャーはまだ帰ってきてないよ」
 大声で告げながら、老婆の背後から太った男が正人を透かし見た。
 偏った食事の結果だろうか、三十歳前後の顔つきに似ず体がだぶだぶと緩んでいた。
「すみません、責任者の方には後からご挨拶に来ますので、姉の入院している病院を教えていただけませんか」
 正人は人の良さそうな男に視線を向けた。
「どこへ運ばれたんだっけ。・・・・結局、東北大付属だよね」
 切符切りの女に確かめている。
「そんなこと、了解なしに教えていいのかい?」老婆が非難の目つきをした。
「あ、そうか。いま、呼びに行ってくるから、ちょっと待っててくれないか」
 男はあわてて正人に念押しし、再び裏手に消えた。
(どうなるんだろうな・・・・)
 正人は窓口の前に突っ立ったまま、ぼんやりとたたずんでいた。別に嘘をついているわけではないのだろうが、少しずつ対応にずれがある。
 すんなりと事が運ばず、躓きながら何とか当初の用向きに到達するまでの歯がゆさは、浅草で経験したときにも味わった。
 今回もどこかへ出かけている責任者を、従業員が迎えに行くという。
 果たして思惑通りに連れ帰ることができるかどうか、判断の手がかりもない。
 太った男が残していった言葉は、不確かな約束に過ぎない。
 ただ、悪意の気配が感じられなかったことから、正人はけっこう楽観的に受け止めていた。
「兄ちゃん、そこ空けとくれ!」
 老婆とは思えない大きな声で注意された。
 振り向くと五十がらみのがっしりした体格の男が正人の後ろに立っていた。
「ああ、すみません」
 飛びのいて、男に場所を譲った。正人は客が回数券で入場料を払うのを、怪訝な思いで盗み見た。
「フィナーレはたっぷりサービスするってよ。怜奈ちゃんがポラロイド解禁だっていうから、がんばんな」
 常連らしい男は、百も承知といった調子で客席に向かう階段を登っていった。

 ほどなくマネージャーと呼ばれた男は戻ってきたようだ。
 迎えに行った肥満体の男が現れて、正人は狭い事務室に案内された。
「どうも、すみません。入院先を教えていただければと思いまして、こちらかに伺ったのですが・・・・」
「・・・・」
 責任者の男は、革製のジャンパーに手を突っ込んだまましばらく思案するように目の前の正人を眺めていた。
「あんた、ほんとに彩華の身内かい?」
 痩せぎすの男が、やっと口を開いた。年齢は四十代半ばと見えたが、目の中に点る冷ややかな光が正人を警戒させた。
「弟ですが、あまり時間がないので今日中に見舞いに行きたいんです」
「そうか、齢はいくつだい?」
「十八歳です」
「・・・・それじゃあ、親の連絡先を書いていきな。急にステージに穴あけられて迷惑してるんだ」
 それもそうだろうなと納得の表情を示したが、「とりあえず、姉を見舞ってから戻ってきます。どこの病院か教えてくれませんか」
 切羽詰った様子に、革ジャンの男はしぶしぶ彩華の入院先を告げた。
 場合が場合だから、子供相手にそれ以上引き止めるのは無理と判断したようだ。
 姉の容態がどんなものなのか、詳しく確かめたいとの思いはあきらめた。わずかな接触の間にも、人と人の心の距離が推し測れた。
「一段落ついてから伺いますので・・・・」
 逃げるように事務所を後にした。
 迎えに行ってくれた男に礼を言おうと目で探したが、別の仕事に駆けつけたのか姿は見えなかった。
 晩翠通りまで出れば、東北大学付属病院行きのバスがあると聞いて、正人は先を急いだ。
 手間取っているうちに冬の夕暮れが迫っていた。
 国分町は庶民の本音の町として息づいているように見えた。整然とした公共施設の立ち並ぶ区画に隣接して、いわばエアポケットのような位置にある。
 縦横に入り組む路地の奥まで飲食店や遊技場の店が明かりを点し、周囲のしゃれた商店街へと連なっている。
 人の温もりと息づきを感じさせる街区を抜けて、正人は北へ向かうバスの乗客となった。どこからどこまで乗り継ぐのか、さまざまな意思が背中を曲げ身をすぼめて、各所の停留所から無言で乗り込んできた。
 再び定禅寺通りを突っ切り、法務局、郵便局前と停留所の名を織り込みながら、春日町、木町通りといった丁目ごとに小刻みに停まり、そこを目的地とする乗客を降ろしていった。
 やがて国道四十八号沿いの広々とした敷地の奥でバスは停まった。東北大学医学部付属病院の壮大な建物が正面にあった。
 車内に残っていた乗客のほとんどは、そこで降りた。
 どうやら大方の乗客は午後から夜間の面会時間にあわせてやって来たらしく、思い思いの荷物を提げて慣れた入口をくぐっていった。
 花束を抱えた若い女性がいた。
 寝巻きや下着を詰め込んだビニール袋を大事そうに抱えた老女が、杖を頼りによたよたと入院病棟へ続く入口をくぐっていった。
 何も持たずに降り立った厚手のコートの男は、暗い表情のまま立ち止まり、暮れていく病棟の窓をしばらく見上げていた。
 そうした中で、正人は憑かれたように急患窓口を探していた。
 建物の構造のせいか、正人が焦っていたせいか、それはすぐには見つからなかった。
 『総合案内所』の表示は、当初からずっと目に入っていた。だが、そこは大雑把な診療科への配分を担うところと決め付けて避けていた。
 ふらふらと近寄ったのは、他に手段がなかったからだ。
 いきなり入院患者にたどり着かなくても、とりあえず救急車で運び込まれた者たちの通過窓口ぐらいはわかるかもしれないと思い直したのだ。
 そこがわかれば、記録をたどって姉の元に行き着くことができる。
「すみません、緊急入院した者を探しているのですが・・・・」
 カウンターの前に立ち、中にいた受付の女性に話しかけた。
 もしかしたら、この大学の医学部に在籍する学生かもしれない。そう判断して、正人は輝くばかりの肌を持つ同世代の女性を眩しげに見上げた。
 訪ねる患者は本当に入院中なのか、何科で治療を受けているのか、何日に搬送されたのか、訊かれることのほとんどに答えられなかった。
 お名前は・・・・と問われて、冴子の旧姓を告げた。
 結婚して苗字は変わっている可能性がつよかった。しかし、それすらもあやふやな見舞い客を、ようやく受付嬢もいぶかしく思ったらしく、白衣を着た上司の男を呼んで正人への対応をそちらに委ねた。
 カウンターの隅に移動して、手がかりになるはずの事実を告げた。
 白衣の男は直ちにロビーに出てきて、正人を別棟の『夜間受付』まで案内した。そこは診察時間外に患者の受付をする場所らしく、入口には係りの職員が昼間でも常駐しているようであった。
「・・・・国分町のロック座で倒れた姉なんですが、まだ入院しているでしょうか」
 勇気を奮って声に出した正人の様子に、付き添ってきた白衣の男が言葉を添えた。「・・・・知らせを聞いて、わざわざ東京から出て来たんだそうだ。救急車による搬送らしいから、調べればすぐに判るんじゃないかね」
「ああ、判りますよ・・・・」と係りの職員が目を光らせた。
 どうやら思い当たる節があるようだった。軽い驚きの表情の中に、好奇心を呼び覚まされた心の動きが見て取れた。「たしか、ICUに入ったはずだが・・・・」
 窓口の職員は、記録のノートをめくって自分の記憶が正しかったことに表情を輝かせた。
「面会は可能ですか」
 白衣の男が訊いた。
「さあ、総婦長に連絡してみますから」
 窓口職員がどこかへ内線で通話する声がもれてきた。

 正人は入院病棟の一階にある事務室に案内されて、そこの課長席にいた眼鏡の中年男と引き合わされた。
「正直のところ、身内の方に連絡がつかず困っていたんですよ」
 課長は単刀直入に切り込んできた。「・・・・救急隊でも身元確認に手間取っている様子でしたし、こちらからも直接、職場の方に患者さんの情報をお知らせくださるようお願いしたのですがまだ来ていませんね。当院としても今後どうするか迷っていたところなんです」
 事務系なのにスポーツ万能ではないかと思わせる体躯から、力のある声を発して正人を見た。
「そうでしたか」
 正人はこれまでに感じ取っていた周囲の人間模様から、寒々しい環境に置かれていた冴子の孤独を痛みとともに思いやった。「・・・・会社の責任者とか、夫と名乗る人とか、関係の人は誰も来なかったんですか」
「はい、どなたも参りません。第一、入院手続きに必要な保証人の届けをまだ戴いてないんです。生死に関わることなので全力で取り組んでおりますが、ご家族の判断を仰がないと今後の治療方針が立たないところもあるんです」
「方針ですか・・・・」
 正人は、相手の困惑がいま自分の肩に移りつつあるのを意識した。「それで、姉はどんな具合なんでしょうか」
 課長から受けた説明によれば、冴子の病名は<クモ膜下出血>ということだった。
 救急隊からの報告にあった踊子仲間の話では、彩華は昼ごろから頭痛を訴えていたものの我慢をして踊り続け、夕方のステージを終えたあと楽屋に戻ってきて突然意識を失ったということであった。
「運び込まれたときは大変重篤な状況で、それは現在もまったく変わっておりません。・・・・端的に申し上げますと、生死の境をさまよっている最中でして、この疾患の特徴から今日明日が峠となるかもしれません」
 正人はたまたま携えていた自分の免許証で身分を証明し、とりあえずの手続きを済ませることができた。
 会話の中で、姉の冴子が両親の意向を無視して出奔し、現在絶縁状態であることも告げていた。
「でも、僕が必ず姉を引き取りますので、なんとしても助けてください」
「わかりました・・・・」
 おぼつかない相手とは思っただろうが、明確な身内の言葉を聞いて病院側もほっとしたようであった。
「それで、面会はできますか・・・・」
「・・・・それが、いま集中治療室で容態を注意深く見守っているところですから、連絡を取ってみませんと何ともいえません」
 ICUのナース・ステーションに近い待合室で、正人は一時間以上待たされた。こぢんまりした部屋には最初誰もいなかったが、しばらくして家族と思われる三人の男女が入室してきた。
 一瞬双方とも相手に視線を向けたが、それは交わることがなく、互いに俯いたままそれぞれの沈黙に沈んでいった。やはり生死の境にある者へ、一途な祈りを捧げたいと思ったのかもしれない。
 正人は自分のかさついた手を重ねたまま、爪の中に残ったかすかな汚れを見つめていた。剪定した葡萄の枝から染み出る樹液は、軍手のゴム皮膜をも透していつの間にか浸透しているのだ。
 姉はこうした作業に耐え切れずに飛び出した挙句、数倍も苦しい忍苦を背負わなければならなくなった。
 親は自業自得と切り捨ててしまったが、懐を開いてもっと温かく手を差し伸べてやれば、こんな惨めな結果にはならなかっただろうと腹立ちを覚えていた。
 唯一姉の味方だった爺が死んでしまったことも、こうした不幸に繋がったと虚しい理由を並べて悔やんでいた。
 思えば正人がやっと噂の真偽を確かめようとした途端に、想像もつかない運命の流れに乗って、大学病院の集中治療室までたどり着いてしまった。
 この数日間に起こった出来事は正人を驚かす事象の連続だったが、なぜか以前から判っていたことのような気もした。
 瀕死の病気や怪我と闘う身内を気遣う家族たち。
 祈りを発する人々が待機するICU控え室は、一般の見舞い客が出入りする待合室とは違って特別に思念が飛び交う仕切られた空間なのかもしれなかった。
(彩華のたどりつつある人生は、冴子がすべて引き受けるべき運命なのだろうか)
 正人の中に、突然疑問がわいた。
 父も母も突き放してしまった冴子の人生は、彼女一人の過ちによってここまで来たのではなく、誰かの不正によって歪められたのではないのか。
 ぼんやりと感じていたその者の影が、凝縮した空間の中でしだいに形を現してきた。
 いまの段階ではまだ名称をつけることができないが、あの男、この男、この人々と思い浮かべる中に、どうしても許せない裏切りが存在するのをはっきりと知覚していた。
 頭の中の科白が立ち上がっていた。
 相手を前にして言うべき想いが、沸き立っていた。
 明確なシルエットが描けなかったが、いずれ相手にたどり着いて、張り裂ける声を投げつけることになるだろう。
(姉さん、それまでは我慢してくれ!)
 きっと、きっと姉さんの受けた仕打ちは償わせるから・・・・。
 気がつくと、後から入ってきた家族連れの姿が消えていた。いつの間に出て行ったのか、幻のような残像だけが漂っていた。
 あの家族は、どんな事情があってこの場所に駆けつけたのか。
 なまじ人の気配が残っていることで、無機質のがらんとした部屋がいっそう正人のやりきれなさを際立たせた。

     (続く)


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3 コメント

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最終回のカタルシスに期待 (知恵熱おやじ)
2007-11-20 01:56:08

やっと仙台の病院のICUにいる姉に辿りついて・・・やはり3回連載になりましたか。

姉の人生を狂わせたものに対する弟のかたのつけ方がどのようなものになるのか。
息を詰めて最終回のカタルシスに注目しています。


知恵熱おやじ
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気になる歩調 (くりたえいじ)
2007-11-20 23:06:52
前回の出だしが素晴らしく、次の展開を期待していました。その期待どおり息詰まるような物語展開となっていきましたが、中身が少し間延びしてきたかな、というのが卒直な感想です。
詩的なタイトルと、どこで整合するのかな、とも思いました。
とにかく、次か最終回となるでしょうから、心待ちしたいものです。
返信する
少し縮めました(くりたえいじ様) (窪庭忠男)
2007-11-27 02:37:48

ご指摘の通り、何とも間延びした恥ずかしい文章でした。どうしようかと思案の末、一部書き直して1,000字ほど縮めました。これでよくなるかどうか定かではありませんが、とりあえず心の区切りをつけたいと思います。
前のものをお読みいただいた方には申し訳ないのですが、習作に免じてお許しください。
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