深夜、河原で何者かが吹く口笛がすすり泣くように響いていた。
秋の夜更けのことで、眠りの途中で小水に起きた正人は半ば夢見心地でその音を聞いた。
小高い河岸の上に立つ正人の家から見ると、荒々しい河原を持つ釜無川が月の光に皓々と照らし出されていた。
爺の話では昨夜は中秋の名月とか、ススキに団子を供えて縁側からひとしきり月を眺めたのち障子を立てたのだった。
このあたりの地形はいかにも甲斐の風貌を備えていて、河原の石もごろごろと武骨に転がっていた。
山の冷気が谷伝いに降りてきて、夜は秋半ばとは思えない気温の低下をもたらす。廊下の端の便所で用を済ませた正人は、あくまでも眠りにしがみついたまま脳裏に残る月下の風景を、今も眼前する現実のように見続けていた。
爺と共用の寝室に戻ると、床の間の横の柱時計がボーンと一つ鳴った。
五ワットの電燈が点けてあるのは、正人のための配慮である。普通は九時ともなると真っ暗闇にして寝るのがこのあたりの習慣だが、怖がりの性格を労わってせめて中学生になるまではと、爺の裁量で電灯の使用を許されていたのだった。
布団にもぐりこむと、わずかに残っていた体温が正人の体に寄り添ってくる。それまで耳に届いていた口笛の音が、ふっつりと途絶えていた。
「あの口笛、誰が吹いてるの」
以前、爺に訊いたことがある。
「夜中に口笛ってか。おまえ寝ぼけて何かと聞き違えたんだろう」
爺の絵解きによれば、瀬の具合によって水の流れがすぼめられ、細くなった水流が周囲の石に当たって夜のしじまを震わすのだろうということだった。
そういわれれば黙り込むより他なかったが、正人の耳には明らかに人の息遣いに聴こえた。
今夜も、どこかへ向かって想いを送り届けようとするかのように、尾を引く口笛が川音に乗って流れてくるのだった。
ボーン、ボーンと二つ鳴った時計の音を夢の中で聴いた気がする。
正人は、家を抜け出て行く姉の後ろ姿を見ていた。長い髪が浴衣の肩までかかり、音もなく廊下を進んでいく。
廊下の端の雨戸がわずかにずらされていて、そこから姉の体がするりと抜けていった。それが現実だったのか夢の中の出来事だったのか、今でもはっきりしない。
村の公民館で盆踊りの稽古があるからと言い置いて、姉の冴子はいまだに家を出て行ったままなのだ。
十歳も齢の離れた正人は、母の代わりに姉に育てられたようなところもあったから、後を追おうとしたが真顔でたしなめられた。
「だめよ。正人は隣のミツオくんと遊んでいてね」
しゃがんで抱きとめてくれたのが最後だった。
胸元から湧き立った甘い体臭が正人の顔全体を覆った。
近すぎて、目をつぶったまま深々と吸い込んだ汗の匂いには、懐かしさと異性を意識させる罪深さが同居していて、頭がくらくらした。
なぜ、姉の姿が曖昧なのか。
雨戸の隙間から抜け出ていった姉と、盆踊りの稽古に向かった姉が、どうして重なり合うのだろうか。
薄明かりの中、白地に紅の花柄が雨戸の桟にまつわりつき一瞬正人の目に止まった気がする。
正人を引き剥がし逆光の中へ出て行った姉の足下にも、浴衣の裾の花模様がまつわりついていた。
その時以来、姉の冴子は帰っていないし、家中で話題にする気配もない。
ひとしきり家族の間に騒がしい動きがあったが、秋の終わりごろになると父も母も諦めたように姉の話はしなくなったのだ。
「姉ちゃんはどこへ行ったの?」
正人は爺に聞いた。「・・・・どうして帰ってこないの」
「どこへ行ったかのう。どこかで所帯を持ったという話だがなあ」
爺だけは正人の質問に答えてくれた。爺の知っていることは、正人に包み隠さず話してくれたような気がする。
噂というものはポツリポツリと聞こえてくるものである。爺のほかにも冴子を気にかける者がいて、その人の話によると姉の相手は川向こうの二十二歳の青年で、前々から示し合わせて駆け落ちをしたらしかった。
若気の至りと切り捨ててしまえばそれまでだが、かけがえのない働き手を失った両親は怒りのために固く心を閉ざす行為に出た。
夏の日の昼下がりに家を出た冴子が、公民館には向かわずに午後の列車で東京へ向けて出奔したことが、裏切りに思えて許せなかったのだと、爺は両親の胸中まで正人に漏らしてくれた。
姉の冴子が家を出て何年か経った頃、あの口笛は姉を呼ぶ青年のものだったのではないかと思い当たった。
向こう岸に当たる武川村の集落から河原を渡ってきて、人が寝静まる深夜に冴子に合図を送っていたのではないか。
廊下の雨戸をわずかに空け、姉は息詰まる思いですり抜けていったに違いない。胸を焦がす恋情に衝き動かされて、前後の見境もなく男の許に駆けつけたのだろうと想像できた。
それなら、盆踊りの稽古にかこつけて姿をくらました出来事と重なる。
別れ際に抱きしめてくれた姉の腕や胸の感触が甦ってきて、正人は自分が河原を渡って通ってきた二十二歳の男になったかのように熱い息を吐いた。
「姉ちゃん・・・・」
ぼんやりと部屋を照らす五ワットの電球が、深々と眠る爺の顔を険しい影で覆っていた。無造作に畳んだ野良衣の凹凸が作り出す陰影にも似た、鉈彫りの人面のようだった。
夜中に目覚めて眺めていると、正人には甘い爺の中にも正人を寄せ付けない別の顔が隠されているような気がした。
季節がどのように移っていったのか、正人には覚えがない。ミツオや喜平やトミコと夢中で遊んだはずなのに、満たされた歓びの実感がないまま、また一年進級していた。
彼はもう三年生だった。
「正人、ブドウ畑に行くぞ」
日当たりの好い河岸段丘の一画に、彼ら家族の葡萄棚が広がっている。
周囲を有刺鉄線で囲った西の隅に作業小屋があり、収穫を狙うヒヨドリを追い払うための鳥脅しのテープやガス鉄砲が置いてあった。
六人家族でつつがなく切り回していた果樹園だった。
爺が苦労して切り拓いたブドウ畑を、父と母が整備して今日の大きさにした。ほぼ二反部の広さで、大きくはないが小さすぎるということもない。
もともと長男が後を継ぐはずだったが、甘やかして買い与えたオートバイが一家の運命を変えてしまった。
仕事が終わった夜、成人になった気の緩みからバイク仲間と富士山へ向けて突っ走った末、転倒してあっけなく此の世を去ってしまったのだ。
人手を失くした父親は、まだ中学生だった冴子を果樹園に引っ張り出して過重な仕事を言いつけた。
一見、葡萄にかかわるのは収穫期だけと思われがちだが、冬の休眠時期に養生をさせなければ年毎の見事な果実は期待できないのである。
古枝の剪定と支柱の点検、枝を燃やして害虫駆除を兼ねた燻し焚き、棚や鉄条網の修理、土の手入れも欠かせない。
そして、実りを前にすると袋がけが忙しくなる。いよいよ収穫が近づけば、鳥や獣からの防衛を図ってアルミテープや反射板CDを張りめぐらし、ガス鉄砲の設置と朝夕の作動など休む暇がないのだ。
大方の作業は父母が中心になって行なうが、畑仕事にかかりっきりの両親に代わって、食事、洗濯、正人の子守と主婦以上の労働が中学生の冴子の肩にのしかかってきていたのである。
「兄ちゃん、なんで死んでしまったの・・・・」
悼む言葉というより、愚痴に近い呻きだった。
冴子の同級生は、みんな塾や部活動に精を出している。自分だけが野良仕事や家事に駆り出されて、不機嫌な両親の指示に従わなければならない。
呪われた運命に呪詛の言葉を投げつけたとしても、無理のない状況ではあった。事実、親との口争いは高校を卒業してからも絶えることがなかった。
前年の盆踊りで知り合った青年との交際を、親から厳しく叱責されたのを正人も知っている。
冴子の出奔には、そんな遠因があったのかもしれなかった。
正人の住む明野村には、対岸の武川村と隔てる形で釜無川が流れている。
この川に流れ込む支流を上から順に数えると、明野村を過ぎるものだけでも鳩川、甲川、須玉川、塩川などがあり、川向こうには上流から白洲町の流川、神宮川、尾白川をはじめとする清流が流れ込んでくる。
武川、韮崎あたりからも大武川、甘利沢川、御勅使川ほか幾つもの小河川が合流する。
山から運ばれてくる栄養が釜無川にもたらされ、そうした山川の恵みによる肥沃な大地のお陰で、流域は豊かな農村地帯を形成しているといってもよかった。
おまけに、ここ明野村は年間の日照時間が日本一多いといわれる場所で、葡萄に限らず桃などの果実、切り花などの花卉類の出荷も盛んな恵まれた土地であった。
隣接する長坂から白州に掛けての高台からは、甲斐駒ケ岳や八ヶ岳連峰を見渡せる。
これらの眺望をも加味して、日本の桃源郷ともてはやす評判が立ち、この地での老後を夢見る都会からの脱出組が増え、静かなブームが浸透していったという経緯もあった。
もっとも、正人には遠足で行った韮崎の新府城に思い入れがあった。
ちょうど桃の花が咲く時期で、城跡の解説よりも高台に広がる桃畑の美しさと鼻腔をくすぐる濃厚な匂いに心を奪われた想い出が残っていた。
文字通りの桃源郷はこの場所ではないのか。正人の中では揺るぎの無い確信として定着していた。
しかし、どんなに美しくても風景は風景だ。
好きな男と駆け落ちした姉の胸中には、もっと煮えたぎる桃源郷があったのだろう。
親の制止をも振り切る衝動を抱いた以上、冴子の行動は誰にも止められなかったに違いない。
たとえ哀しみと道連れの結末となったとしても、冴子が引き受けるべき運命なのであり、両親にもそのことがわかっていて手を拱いていたのかもしれなかった。
遠足から帰った夜も正人は口笛の音を聴いた。
疾うにいなくなった姉を誰が呼ぶというのか。
通ってきていたという若者も、今はこの地にいるはずが無い。とすれば、爺のいうとおり釜無川が奏でる水音なのだろうか。
興奮の熾きが静まることなく、夢の中に断続して現れる姉の顔が、時に苦痛の表情を見せて正人を苦しめた。
浅草のストリップ劇場で冴子を見かけたという噂が流れたのは、正人が十八歳になった年だった。
長兄を交通事故で失い、長女の冴子は家を捨てて駆け落ちするという状況の中で、正人は家業のブドウ園を手伝うために中学卒業と同時に進学を断念していた。
頼りになる働き手として成長してからは、臆病な父母を説得して、巨峰ばかりでなく新種の葡萄も栽培して市場の要求に応えられるように準備を進めた。
どんな果物でもそうだが、出荷の時期が重なれば値崩れする。
また、消費者の好みが変われば人気の品種といえども需要が少なくなることもある。
そうしたリスクを出来るだけ少なくするために、将来的には白桃といった他の果樹にも目を向けようとしているのだった。
仕事のことでは能力を発揮していた正人だったが、姉の噂を耳にしてからは考え込む時間が多くなった。
石和まで行けばストリップ劇場があるらしいが、正人はいまだにそうした小屋に入ったことがない。
中学卒業と同時に家業についてしまったから、進学した仲間からの誘いも間遠になって、歓楽街をもぐり歩く機会もなかったのである。
それでもストリップがどういうものか、おおよその見当はつく。
それだけに、東京で姉を見たという噂をもたらした男を殺してやりたいほど憎んだ。誰かはわからないが、そいつが目の前に居たら肥後の守を腹に突き立ててやろうと、死んだ長兄の遺品を作業衣のポケットに忍ばせて怒りの感情を育てていたのだった。
仕事が一段落した十二月に、正人は朝早く韮崎から普通電車で甲府まで出た。そこからは急行に乗り換え新宿に着いた。
山手線で上野に到着したのはちょうど昼時だった。
人の流れに乗せられて、アメヤ横丁にほんの少し入ってみた。すぐに食堂があったので、玉子丼を注文した。
卵と三つ葉のとじ具合がやわらかくて口に合った。田舎の卵と違って、黄身も白身もゆるく仕上げられているのが、都会のやり方なのかと思った。卵の質の違いなど、その日の正人にはわかるはずもなかった。
昼飯を食って少しは東京になじんできた。
店内では、方言丸出しの若者が堂々としゃべっていたし、顔を見てもそれほど垢抜けた男もいなかった。
「んだっぺよ・・・・」と、怒鳴るような調子でやり合う二人組の男たちがいた。見ていると別に喧嘩をしているわけではないらしい。その言葉がどこの土地のものかはわからないが、「そうずら・・・・」と大差ないことが類推できた。
地下鉄銀座線で浅草に着いた。いきなりロック座とは聞けないから、街頭の案内地図で見た『花やしき』の方角を教えてもらった。
浅草寺と国際通りのあたりをうろついた末に、ついに発見したロック座を間近で眺めた。
派手な幟と看板を見上げたまま、正人は体の中に勇気が湧くのを待った。
東八千代の幟がひときわ大きくはためいていたが、何代目とか書かれた小振りの文字は読み落とした。
「兄ちゃん、早くしないと好い席無くなっちゃうよ」
なかなか踏ん切りのつかない正人の背中を、呼び込みの男の声が押した。
舞台中央から突き出た花道ふうの張り出しを囲んで、左右から男たちが群れている。どうやらそこでもショーが行われるらしい。
「おい、かぶり付きへ行こうや」
正人の座った壁際の席のあたりから、焦ったような声が聞こえてきた。連れ立ってやってきた客同士の会話のようだった。
やがて背景の照明が激しく瞬き、音楽とともに踊り子が走り出た。舞台の端から端に六、七人の女性が並び、羽飾りのついた冠とスパンコールのついた衣装を煌かせながら、むき出しの手足を跳ね上げていた。
色とりどりのスポットライトが一人ひとりの踊り子を追う。赤や青の光の束が交差し、その輪の中に笑顔を見出す瞬間は、正人にとっては夢を見るような光景だった。
一景が終わると、レビューを見るようなダンスに代わって着物ショーが始まっていた。踊り子たちは肩脱ぎをした襦袢を上げ下げしながら、股間が見え隠れする演目への期待を煽っていった。
扇を使った巧みな技が、時に羽目をはずして客の歓声を呼んだ。
休憩をはさんで次第に生臭くなっていった出し物が、七景八景と進むにつれてクライマックスを迎えたようだ。
五人で踊っていた中央の一人が、客席に張り出した舞台で海老ぞりの姿勢になったのだ。
開脚したまま齧り付きの客に覗き込ませている。どっと押し寄せた十数個の頭が、ぶつかるように重なって群がっていた。
その光景は、正人にとって驚きそのものだった。
禿頭も混じる男たちの破廉恥な行動は、自分もそうなるかもしれない欲望を意識させて正視するのを憚らせた。
同時に、女が見せる不敵な行為が姉への冒涜に思えてショックを受けていた。
齧り付きから目を逸らした正人の正面舞台で、いつの間にか他のダンサーたちがきわどい踊りを繰り広げていた。取り残された大方の客のために、それなりのサービスをしているらしかった。
正人はその中の一人に視線を向け、動きを追っていた。
若手の花形ダンサーがスポットライトを浴びているなか、やや盛りの過ぎた印象の踊り子に華やかさとは程遠い闌れた陰を感じていた。
いってみれば生活の疲れのようなものだろうか。もしも姉の冴子がこの世界に入っているとすれば、目の前の舞台でけだるい動きをする女と、滲み出る倦怠の色が似ていそうな気がした。
そのダンサーと目が合ったのは、背後に流れる音楽がスローなものに変わったときだった。
女は戸惑う正人を見据えたまま舞台の端から短い階段を降り、踊りながら近づいてきた。
「あたしのこと、好きなの?」
笑いかけるのはショーの一環だったのだろうか。
あいまいにうなずいた正人の横まで来ると、くるりと向きを変えて尻から正人の膝の上に滑り込んできた。
正人の肩から首に回した踊り子の腕が、ブルーとピンクに染め分けた薄物の一部を巻き込んで、くすぐったいような痺れを皮膚に伝えた。
女を膝に乗せたまま、正人の体は固まっていた。
一瞬の戯れかと思っていた正人は、なかなか膝を降りない女に話しかけなければいけないような気持ちになっていた。
「ここに冴子という女の人いますか」
震える声で尋ねた正人の様子に尋常でないものを感じたのか、踊り子が正人の顔を覗き込んだ。
「あんた、彩華のこと知ってるの?」
「そういう名前なんですか・・・・」
本名を名乗るはずはないから、彩華が芸名なのだろうと推し量った。
「あんた、後で楽屋へいらっしゃい」
曲が変わって、さすがにそれ以上は留まれず、正人の膝から舞い降りながら短い階段を登って舞台に戻っていった。
周りの者は、突然の成り行きにシーンと静まり返っていた。
もともと客席の端にいるぐらいだから遠慮がちな客が多かったのだろう、舞台に戻っていく踊り子を野次を飛ばすでもなく見送った。
十一景で踊り子が勢揃いするのをぼんやりと観ていた正人は、それがフィナーレと気づかずにしばらく惚けていた。
やがて彼はのろのろと席を立ち、入口で入場券を販売していた女性の小窓に顔を突き入れて、楽屋への出入りが許されるものかどうか確認した。
女性が奥に声をかけると、中年の男が出てきて「ちょっと待ってな」と正人をその場に待機させた。
おそらく楽屋へ行って確かめたのだろう、戻ってくると正人をじろりと品定めした上で、仕方がないといった様子で許可を出してくれた。
「休憩は十分しかないから急いでくれって。みどりさんが待ってるそうだよ」
そっけない口調で楽屋への行き方を説明してくれた。
暗い通路をたどって行くと、舞台の横手にそれらしい空間が広がっていた。
ドアもなく布一枚で仕切られた楽屋の奥から、次の回の準備をしているらしいダンサーたちの嬌声が漏れてきた。
正人は暖簾の外に立って、声もかけられずに立ち往生していた。
「あら、坊や何してるの?」
モワーッとした脂粉の匂いともに、まだ衣装を着けたままの踊り子が背後から声をかけてきた。
みどりさんに来るように言われたのだと事情を説明すると、あらそうなのと疑いも持たずに伝言をしてくれた。
入れ違いに先ほどの踊り子が顔を覗かせた。衣装も化粧もそのままらしく、上から緑色のガウンを羽織っている。
「あら、ちゃんと来てくれたのね。次の出番までにちょっと間があるから、一緒に中華ソバでも食べようか」
正人を別の小部屋に連れて行って、そこのピンク電話でラーメン二つの出前を頼んだ。
「わたしねえ、彩華とは同期で姉妹みたいに仲が好かったのよ・・・・」
ラーメンを食べ終わると、みどりという踊り子が堰を切ったようにしゃべりだした。「わたしの方が一個年上だったから、いろんな悩みを打ち明けられたわ」
彼女によると、姉の冴子がロック座の専属になったのは、今から七年前のことらしい。
駆け落ちしてきた男と所帯を持ったものの、賭け事でやくざに付け込まれた男が卑怯にも女房を差し出すことに同意したとのことで、冴子は息のかかったクラブで働かされることになった。
一度逃げ出そうとして連れ戻され、激しく制裁を受けた。
シャブを使うぞと脅されて、ストリップ劇場への移籍を受け入れた。裏でどんな取引があったのかはわからないが、新たな男がついて何かと面倒を見てくれた。
「やつら女には優しいから、彩華も諦めたのね」
情夫になって稼ぎを絞り上げる常套手段とわかっていても、最初の亭主とのことで絶望していた冴子は次第にストリップの世界になじんでいった。
「あら、いけない。もうこんな時間・・・・」
ふと時刻を気にした女が、正人の顔を仰ぎ見た。「もう出番だから行くわよ。あんた、明後日の月曜日に電話をよこしなさい」
電話機の側に転がっていた黛用のスティックでアパートの電話番号をメモし、それを正人に渡して急いで楽屋に戻って行った。
正人は夕暮れの浅草をふらふらと歩いていた。
ネオンがちかちかと点滅する盛り場を、昼間よりも活気の出た人の群れが流れて行く。ときおり呼び込みの声が横から迫ってくるが、正人は反応することなく夢遊病者のように漂っていた。
「・・・・あんた、彩華の弟さんじゃない?」
最初に言われた言葉が、頭の中で反響していた。「あの子、いつもあんたのこと気にしてたわ」
心配するぐらいなら、なぜ連絡してこなかったのか。
出奔して四年後と考えれば、正人が小学校の高学年になっていたころである。相談するには頼りなかったのか、それとも両親に顔向けならないと思ったのか、正人が知る限り一切の連絡はなかった。
当時の姉の心境を考えると、呆然としたまま感情が堂々巡りするだけだった。
「それで、姉は今どこに?」
突然中断された会話に追いすがるように訊ねたが、みどりは正人の一番知りたいことには答えず、電話番号を書いた紙切れを手渡してあわただしく楽屋に走りこんだのだった。
休演日だという月曜まで、正人は上野の安宿に泊まって時を過ごした。二晩だけなので、何とか費用は賄えた。家には詳しい事情を話さず、せっかく上京したのだから二、三日東京見物をして帰ると電話で連絡しておいた。
月曜日を待って、メモにある電話番号にダイアルすると、眠そうな声で返事が返ってきた。
「なぁに、マサト・・・・ああ、彩華の弟ね。いま何時かしら? 九時・・・・そろそろ起きなくっちゃね」
待ち合わせの場所を決めあぐねた末に、「あんた、上野の西郷さんぐらい知っているでしょう。そこでいい? 銅像の下よ」
二時間後にそこまで行くというみどりに詫びの言葉を述べて、正人は宿を後にした。
西郷像は韮崎からやってきた日に街中で望見していたから、すぐに探し当てることができた。
時間つぶしに上野公園の中をぶらついたが、みどりの姿を認めるまではひたすら気を静めるための時間となった。
「お待たせ、ずいぶん待ったでしょう・・・・」
正人の様子を見ただけで、二時間の焦燥が推測できたらしい。
まだ食事をしていないので、少し早いかもしれないけど付き合ってねと、広小路に下りてレストランを探した。
「楽屋じゃ詳しいことは話せなかったけど、彩華はここにはいないのよ」
仲間のダンサーが聞き耳を立てている場所では、うかつに事情を伝えられなかったのだと言い訳をした。
「姉は、元気なんですか・・・・」
「うーん、実はいま仙台の病院にいるらしいの。あたしも一度お見舞いに行きたいと思っているのだけど、一日五回のステージを一週間続けるとくたくたになっちゃうのよ」
たしかに香盤表と呼ばれるプログラムを見ると、昼十二時半の開演から夜十一時頃の終演まで、ほぼ十一時間の拘束時間を義務付けられているのだから、並みの体力では務め続けられない仕事のようであった。
「彩華はね、仙台の劇場に出演していて倒れたのよ。たぶん過労よね。この世界では、お互いトシだもの・・・・」
頭の血管が切れて一時は危なかったらしいが、なんとか命を取り止めたとのことだった。
「そんなことになっていたんですか」
「でも、目の離せない状態だって・・・・」
「誰か一緒にいるのかな。男の人が面倒見てるんでしょう?」
「だから、この前言ったじゃない、優しく見えてもヒモなんだって。稼ぎがなくなりゃ近寄りもしないわよ」
「・・・・」
正人の表情が変わったのを見て、みどりも急にそわそわした。この青年の胸中にある怒りを見過ごしていたことに気づき、自分がしゃべりすぎたのではないかと我に返ったのだった。
(続く)
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最初の舞台は山梨の山間部なんでしょうね。夜遅くそこに聴こえてくる口笛らしき音。少年の研ぎ澄まされた聴覚にそれが空想力を広げる。
そんな出だしに著者ならではの叙情性が静かに込められているような。
それがどうしたのでしょう? 年月を経て少年は男として育ち、失踪した姉に思いを致し、舞台は一転、東京の繁華街に移るなんて、すごい物語展開。
ストリップ劇場の描写が緻密さを加えたのは、著者のただの好みとは思えません。
その伏線が解かれた先には意外な展開が……。次回、じっくりと書き込まれることでしょう。
村を捨て男と歓楽の巷に身を沈めていった姉。
幼いころの姉恋いの想いをひっそり燃やし続けた弟は一人前の男になりかけたとき、姉の軌跡をたぐりはじめて、、、。
面白いですね、小説として。
一時ポケットに忍ばせたことのある長兄の肥後の守はいまも旅行バッグに忍ばせているのか。
後編を楽しみにしています。
知恵熱おやじ