飼い主は、クルマの接近にまだ気付いていない。
リュウも、珍しく後ろを振り向かなかった。
真木男は、クルマの鼻面を町道に入れたまま、前進するのを躊躇した。そこに止まるか、ゆるゆると進むべきか、あるいはスピードを上げて追い越すほうが好いのか。
「こんな場所で停まったら、かえって怪しいわよ」
助手席から、非難の声がする。
真木男はなおも逡巡していたが、まもなく相応の速度で追い越した。
追い越しざまリュウの脚を見て、胸が高鳴った。いつの間にか黒い布が外され、短くなった前肢があらわになっていた。
前回見たときには、少なくとも関節まではあったはずだ。
矯正しているのかとも思ったほどだから、折り曲げられていたとはいえ、ほんとうは足首部分まで残っていたのではないかと、自分の目を信じたい気持ちがある。
だとしたら、なぜリュウの脚はないのか。
それも、関節よりかなり上の位置まで詰められている。
「ちょっと気味悪いわね」
妻の呟きは、真木男の思いでもあった。
元気いっぱいのリュウのことだから、複雑骨折でもして獣医に切断を宣告されたのかもしれないが、それならそれで隠すことはないはずだ。接する人たちの憶測を収めることもできようというものである。
それが明らかでないものだから、すっきりしないのである。
囲炉裏の鈎のように結わえられていた足の残像と、いま目にした棒状の脚の落差。それら不確かな記憶と実像を繋ぐ糸が、黒い布の存在によって隠蔽されている。
いつまでも嫌な感覚となって真木男の心を塞ぐのは、リュウの状態のみならず、飼い主そのものの素性が明らかでないことも影響しているということに、やっと気付いたのだった。
翌朝、二坪ばかりの花壇を手入れしていると、散歩で通りかかった永住者の老人と顔を合わせた。
この老人とは、すでに数回立ち話をしたことがある。
いつも栗色の柴犬と一緒で、ジャックと呼んでいるのが古めかしくて可笑しかった。
森を隔てて、遠吠えが聞こえた。
どうやら、リュウの飼い主が出かけたようだ。真木男と、立ち話中の老人が顔を見合わせた。
「旦那さん、知ってるかい?」
老人が顔を寄せるようにして言った。「・・・・あすこん家の犬、脚が一本ないんだよ」
「ええ、知ってますよ。リュウちゃんのことでしょう」
「夏のころ、表の国道でトラックに撥ねられて、脚を折ってしまったんだとよ。そんで、すぐに動物病院に連れて行ったんだが、三十万円かかるといわれて止めにしたんだそうだ・・・・」
「へえ、撥ねたトラックは?」
「もちろん、逃げちゃったさよ」
老人は、ちょっぴり意地の悪い目つきで真木男を見た。「・・・・なんで、あんな危ない場所へ行ったんか、わからんね」
「でも、たまに散歩させてる人を見かけますよ」
真木男は、納得のいかない表情をした。
「それならそれで、ヒモを短く持てばいいだろう」
「なるほど・・・・」
真木男は、苛立つ老人に同調してみせた。「それにしても、動物の治療費って高いものですね」
「そりゃあ、そうさ。こいつだって去年風邪をひいて、なんだかんだ五万円かかったもんな」
返事はしているのだが、どこか気が飛んでいる感じがした。
案の定、老人は別のことを言いよどんでいたようだ。またも、周囲を窺うような目つきで、真木男に囁いた。
「リュウは、図体はでかいが、まだ子どもだろう? それを病院から連れ戻して、自分で切ったらしいんだわ」
「ええっ・・・」
まさかと思いつつ微かに疑っていたことを、目の前に付きつけられた。「だって、素人じゃ麻酔とかできないでしょう」
「どうゆう風にしたのかねえ。ここいらの者で、犬の大騒ぎを聞いたもんはいないから、睡眠薬でも飲ましたか。どっちにせえ、あの家の旦那は軍隊で衛生兵だったらしいから、やってやれないことはなかろうが」
真木男は、怯えに近いものを感じていた。
リュウの一件は、真木男が考えていた以上に、噂になっていた。怪我をした脚の長さも、すでに四度にわたって短くなっているという者もあり、壊疽を起こしているからいくら切っても止まらないんだと、眉をひそめる住人もいた。
(リュウの痛みは、どんなだろう)
徐々に腐っていく脚を抱えて、あの犬は何を思っているのだろう。適切な処置を受けられないわが身の悲運か。それとも、唯一無二のチャンスを逃してしまった脱走失敗の日の記憶か。
後者だとしたら、真木男にも責任がある。
まさか、このような事態が待っていようとは想像もできなかったが、生きて朽ちていくような運命に甘んじるよりは、どこかで別の飼い主にめぐり合う機会を与えた方がどれほど好かったかと、慙愧の思いに打ちひしがれるのだった。
翌日も、リュウの遠吠えが森にひびいた。
これまでは、ひとり置いていかれる寂しさを訴えているのかと想っていたが、いまは助けを呼ぶ悲鳴のように聞こえる。
真木男は、無人となったリュウの家をそれとなく見に行った。
「リュウ!」
タブーにしていた呼びかけをしたが、リュウは犬小屋の奥で立ったまま、憂鬱そうな目をして真木男の方を見ていた。
(続く)
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