(カラーコーン)
麻のジャケットを着た老人が、公園の外周路を歩いていた。
手には木製のステッキを持ち、日陰を選ぶように歩幅を伸ばしていた。
季節は初夏、あと一週間もすれば例年より遅い梅雨入りをしようかという時期であった。
老人の名は師岡博史、西洋大学の名誉教授を務めた後、いまはリタイアして東京郊外のM市に隠棲していた。
辞書の編纂では日本でも有数の学者で、日本国民の多くは彼の国語辞典の世話になっているはずだった。
そんな老教授にも、言葉に尽くせない辛い時期があった。
1960年代の学生運動が盛んなころ、奉職していた都内有数の大学で、過激さを増した学生たちに吊るし上げられたことがある。
今から思えば理不尽な仕打ちであったが、当局の代表の一人として矢面に立たされ、自己批判を強要されたのだ。
一度堰を切った学生たちの勢いは、陰湿な暴力を伴って身に迫ってきた。
「三角帽子をかぶせろ!」
紅衛兵にならって、旧来の価値観をすべて破壊しようとする扇動者が、師岡の耳元で大声を張り上げた。
彼の目的ははっきりしていた。
体制批判にかこつけて、師岡個人を傷つけることにあった。
「自己批判をせよ」
精神的なダメージだけでなく、身体そのものへの打撃を意図していたのである。
そもそも、自己批判が古典的な機能を維持しているなどと考えるものは誰もいなかった。
文化大革命の例を見るまでもなく、意見を異にする者への糾弾そのものだった。
日本の反体制勢力にあっては、総括と称して対象者を抹殺する手段にまでエスカレートしていった。
師岡の場合は、扇動者によって鼓膜を傷めつけられた。
立っていられなくなって、教室内で昏倒した。
首謀者とそのグループは、逸早く姿を消した。
病院に搬送された師岡は、片方の鼓膜を破られていて、検査で三半器官の異常も指摘された。
その後も難聴の治療と心的ダメージのケアを続けたが、学内での地位はしだいに低下していった。
教授同士の派閥争いから脱落した師岡は、定年を待つことなく退官し、その後しばらく別の大学の名誉教授に迎えられた。
やがて、そこでの職も辞し、自宅にこもって国語学者としての研究に専念した。
出版社の依頼によって、『こどもに残したい9×9のことば』という本を出したのは、師岡博史の余技のようなものだった。
ことばの誕生と生い立ちを分かりやすく解説しながら、子供に寄せる親の想いを歳月の中からつむぎだして見せた。
すると、これが思いがけないヒット作となった。
第二弾、第三弾の企画が持ち込まれ、日本語ブームのさきがけとなった。
振り込まれる印税の額に家族は驚き、喜んだが、師岡は余技ばかりが脚光を浴びる現象に複雑な心境だった。
麻のジャケットを着た老人は、いつもの散歩コースをたどりながら物思いに耽っていた。
急に緑の濃くなった公園外周路の並木に日差しを避けながら、またも持ち込まれた新規出版社の企画に断りを伝える言葉を探しあぐねていた。
(きみ、もう無理だよ)
(すまんが、研究に戻りたいんだ・・・・)
こうした説明で、執拗な相手を断りきれるのかと、内心焦りを感じていた。
師岡から色よい返事が引き出せないと見ると、担当者は妻の幸恵に狙いを定めて攻勢をかけてきた。
<将を射んと思わばまず馬を射よ>と、ほくそ笑む姿が見え隠れした。
歌舞伎の鑑賞券やら、来日中のクラシック・バレーの特別席を用意し、ついに細君の攻略に成功した。
しぶしぶ承諾をした師岡であったが、真正面から向かってこない編集者に不快感を抱いていた。
搦め手から篭絡しようとするやり方に、義憤のようなものを覚えるのだ。
いつものコースから逸れて、新興住宅地の一角に足を踏み入れたのは、むしゃくしゃした気分の転換を図りたかったからだ。
自分でもはっきりしないが、とにかく公園の外周路を外れて、こじんまりとした小市民のための区画に足を踏み入れた。
どの家にも、塀の内側に花木が植えられていた。
植物の種類こそさまざまだが、ハナミズキやモクレン、海棠やミモザ、萩や紫陽花といった業者お手の物の植栽が並んでいた。
生垣にせよ、ブロック塀にせよ、小さな幸福を囲い込もうとするたたずまいが鼻についた。
「クソ、どいつもこいつも・・・・」
著名な国語学者にはあるまじき雑言が口をついて出た。
今回用意された若い女性向けの『慎ましい日本語』などというタイトルに、師岡はまやかしを感じずにはいられなかった。
日頃街で見かける女たちのどこに、慎ましい日本語を受け入れる素地があるというのか。
「だからこそ、いま、先生の啓蒙が必要なんですよ」
したり顔に切り返す編集者に、唾でもかけてやりたい心境だった。
公園に隣接した立地条件が評判だった住宅街は、分け入ってみるとどれもこれも豆腐を切ったような変哲もない家が続いていた。
師岡は、同じ造りの家が並ぶ通りをコの字に回り、間もなく公園に接した道路に戻ろうとしていた。
角から二軒目のところに、はみ出して置かれた小ぶりのカラーコーンが目に入った。
駐車スペースを確保しようというのか、赤の工事用カラーコーンに黒いテープを巻いて置かれていた。
可動式の鉄柵やチェーンで仕切りをするのが普通だが、ここでは工事現場で見かけるような円錐型設置物が利用されていた。
しかも、公道にはみ出した状況が、この家の住人の無神経さを象徴しているようで腹が立った。
(どうせ、ろくでもない奴が住んでいるに決まっている・・・・)
師岡は、はみ出して置かれたカラーコーンを足で蹴飛ばした。
自制心を突き破って、つい足が出た・・・・そんな感じだった。
躊躇する心を蹴り飛ばすように、もやもやしていた鬱憤が噴出していた。
無意識のうちにも土地への欲が滲み出たような住人の行為が、ひたすら癇に障ったこともある。
また、新規の出版社に、無理やり執筆を承諾させられたことへの不満もくすぶっていた。
しかし、師岡自身がどきりとしたのは、赤いカラーコーンに反応した嫌悪の根深さだった。
補聴器をつけた左耳が、ジェット機でも通過したときのようにキーンと鳴り響いたのだ。
(あいつだ!)
忘れもしない憎き扇動者の顔が目に浮かんだ。
師岡教授の頭に三角帽をのせ、押さえつけるようにして自己批判を求めたのだ。
奴の意図ははっきりしていた。
左耳に顔を寄せ、繰り返し大声で喚きたてたのだ。
鼓膜は堪えきれずに破られた。
長時間吊るし上げられた疲労と、音の暴力によって師岡は昏倒した。
甦る記憶の音が、眩暈を呼んだ。
消し去ったはずのトラウマが、きっかけを得て浮かび上がっていた。
(黙れ、不埒者!)
何度、叫ぼうとしたことか。
だが、黙してしまったのは自分の方だった。
一方的にいたぶられ、恐怖心で手も足も出ないようにされてしまったのだ。
大学当局には幾多の教授や助教授がいたはずだが、引きずり込まれた師岡を助けようとする者は誰もいなかった。
かかわりを怖れたということもあったが、もっと意図的な陰謀の疑いを消し去ることができなかった。
小ぶりのカラーコーン。
想い起こすのは、師岡と対立関係にあった経済学部の教授だった。
背が低く、それでいていつも背筋を反らせて会議に臨んでいた初老の学者だった。
ときどきマスメディアに登場するのが自慢の男で、アメリカ仕込みの経済理論を披露して悦に入っていた。
師岡を駆逐したあとは、学内トップの座を不動のものとした。
反体制派の力が封じ込められたあとは、時の権力者に重用され、一日として名前を聞かない日はなかった。
いまでも亡霊のようにマスコミに登場することがある。
テレビ嫌いの師岡は、あまり彼の顔を目にすることがなかったが、扇動者とセットで思い出すと唇が震えるほど興奮するのだ。
カラーコーンを蹴った衝撃からか、師岡はしばらく杖にすがって動悸の収まるのを待つしかなかった。
翌朝、散歩している師岡の横に、一台の高級車が音もなく近寄ってきた。
はっとして左横を振り返ると、黒縁メガネの男がニヤニヤしながら教授に声をかけた。
「センセイ、昨日うちのコーンを蹴っただろ?」
どうやら、道路にはみ出してカラーコーンを置いていた家の主人らしい。
中年の太った男だが、変貌した顔付きの奥から見覚えのある顔型が浮き上がってきた。
「あっ」
みるみるモンタージュされて甦った男の顔は、にっくき扇動者の顔だった。
杖を振り上げて殴りかかりたい憎しみが湧き起こっているのだが、手足は縛られたようにピクリとも動かない。
「ウー、ウー」
二、三度唸った末に目の前が暗くなった。
またかと思いながら、眩暈に堪えかねて目を瞑った。
師岡のそばから、高級車が音もなく立ち去って行った。
明け方、夫の異変に気づいた妻が救急車を呼んだが、心臓マッサージの甲斐もなく師岡教授は息を引き取った。
あわてて駆けつけた関係者の中に、『慎ましい日本語』の執筆を約束させた新興出版社の担当者もいたが、彼の引き攣った表情は見るに耐えなかった。
妻の幸恵は、よほど二枚の鑑賞券の代金を返すと言いたかったが、動転した振りをして葬儀社の人間の方へ駆け寄った。
(おわり)
あってもなくてもいいような、しかし、一定の役割を果たしているのが道路脇に置かれたカラーコーンでしょうが、この高名な学者教授もその同族だったような。
そのコーンがまた、「三角帽子」を比喩的に表しているようにも思えました。
だからこそ、教授は道路脇に置かれたコーンを蹴飛ばすという発作を起こしたのではなでしょうか。
以上は偏見かもしれませんが、この短編小説はそれほど深い意味を内包しているのでしょう。
その物語を積み上げていき、最後には老教授が息を引き取るところで幕を閉じたのには、作者のせめてもの思い遣りが感じられました。
(くりたえいじ)様、カラーコーンを蹴飛ばした老教授に思いを寄せていただき、ありがとうございました。
人間は一生をかけて、受けた傷を癒していく動物ではないかと思っているのですが、ときには直しきれない傷もあるような気がします。
自分が最期を迎えたとき、どんな思いが去来するのか、「怖いなあ」と目を逸らしたくなります。
人は誰でも自ら「こころの牢獄」に入って一生を送ることになるのでしょうか。
分かっていながらどうしようもなくそうなってしまうのが哀しいですね。
そう言やあ、歌の文句にありましたっけ。「分かっちゃいるけど止められない」ってね。
人のそんな性(さが)を見せてくれるのは小説ならではなのかもしれません。
そのことを普通に説明されてしまうと、もう違うものになってしまいますし、これぞ小説の効用なのでしょうか。
まったく上手いなあー。
(知恵熱おやじ)様、人間が人間の歴史をたどるうちに、自然の生物とは「まったく違った生き物」になってしまったのでしょうか。
助けられた鹿が、何度も振り返りながら山奥へ帰っていった話とか、飼い主の危急を知らせるために、豚やカンガルーや馬たちが見せた生物としての知恵など、わけもなく胸を衝かれる思いがするのは、失われたものへの郷愁がなせる業かもしれません。
鳥なども、長い間「三歩歩くと忘れる」などと馬鹿にされてきましたが、たぶん偏見であろうと考えるようになりました。
「違った生き物」になり、「こころの牢獄つながれ」た人間には、生物に与えられた本来の気高さが、眩しく感じられます。
コメントありがとうございました。