「雷電」の生家をたずねて
前回ドライブした鹿沢~東部湯の丸『百体観音通り』が、東御市に至って浅間サンラインと交わるところに道の駅『雷電』がある。
すぐ近くを上信越道が通っていて、店内食堂や駐車場に併設の木製テラスからも眺められる。
雄大な浅間山麓に位置し、浅間山のほか上信越道越しに八ヶ岳方面の山々まで遠望できる快適な立地条件を備えている。
この道の駅の特徴は、名前からも分かるとおり江戸相撲の大関「雷電為右衛門」に由来している。
建物の前には大きな全身像が設えられ、親に連れられて来た子供がびっくりしたように見上げる光景にも出くわす。
道の駅の一角には「雷電」の手形や関連の品々を展示するコーナーがあり、希望すれば館長(?)の説明を聞くこともできる。
時あたかも大相撲の真っ最中、朝青龍、白鵬、安馬とモンゴル出身力士ばかりが話題になる中、かつて桁違いの力士が日本にいたことを思い出すのも悪くはないだろう。
展示コーナーの壁面をかなりの部分占めていたのは、雷電の幼児期からの怪力ぶりと親孝行の様子を描いた絵物語である。
這い這いの時期から縄に括った力石と呼ばれる大きな石を首にかけて引きずる絵もあり、親孝行のエピソードとあわせていかにも故郷の偉人顕彰にふさわしい。
ここまで来たからには、近くにある『雷電の生家』まで足を延ばしたほうが好いだろう。そんなわけで早速教えてもらった道をたどった。
もともと広大な農地が広がる場所で、道路沿いの標識によって黒々とした平屋が生家だとすぐに分かった。
誰でも無料で見学できるおおらかさが、怪童雷電の来歴を勉強してきた身には嬉しい。
後世に建てられた資料館とはいえ、もともとの生家の写真を元に復元した様子が記されており、土間にあった土俵はともかく雷電ゆかりの行司軍配など見るべき物も少なくない。(画像はその一部)
見学のあと、さらに探して雷電の墓も詣でた。
道路沿いの一並べの人家をひょいと分け入ると、立派な御影石の『雷電の墓』があった。
墓域全体は一族の墓所のようなので、ひときわ大きい雷電の墓に手を合わせて去ったが、目に映るものすべてが大きいので、こちらの気持ちもすっかり伸びやかに広がった。
好い気分をいただいて、軽井沢方面をめざす。
浅間サンラインをドライブする気分も爽快だ。左方の浅間山頂から一気に駆け下る山肌は、樹木のほかにさえぎるものもない。
そのまま道路を一跨ぎして、広い広い佐久平へなだれこむ。その先の壁は八ヶ岳連峰か南アルプスか。
いずれにしても川越街道の終点地佐久の風景が眼前にある。豊かな大地から生産される米を江戸に運び、大いに潤った裕福な街だ。
小江戸・川越も、佐久からの農産物や川魚(鯉)などを抜きには商売繁盛とはいかなかったのではないか。
と思う一方、ひょっとしたら、この雄大な大地から収穫した最大のものは「雷電為右衛門」だったのではないか?
いささか不謹慎な想像をまじえながら、東御市を後にして晩秋の色濃い風景と風を切ってのドライブを楽しんだ。
その"おらが村(?)の偉人"を讃え、遺そうとするのは、一種の美風でしょうね。
でも、たとえ「道の駅」の名称に使っても、空前絶後のこの怪力お相撲さんの名を知っている人がどれだけいるでしょうか……。でも、地元の誇りを、まだ前面に押し出したい地元民の心意気がいいね。
そこをまた、筆者さんは旧家やお墓まで見に行くなんてところは、ほんわかさせられましたよ。
同書によると、彼は自ら「信濃者」(しなのもの)と称し、不遇な信濃の人々を救ったり、江戸に乗り込んで力士となり、初土俵で優勝。
雷電の手形によると、掌の長さ25㌢、横幅18㌢とされ、いかに巨体であったかがうかがわれます。
引退までの17年間の土俵歴は、214勝10敗だそうで、相手を投げ殺したとの俗説も。
それだけでも、いかに怪物であったかお判りでしょう。
ところで、不遇な信濃の人びとを救った話、足柄山の金太郎もそうですが「気はやさしくて力持ち」という伝説的な男たちが実際に居たんですね。知りませんでした。
自然児さんのコメントで、次回写真をもう一枚載せたくなりました。