官報を見ていると、私はときどき粗い印刷用紙の中に吸い込まれていくのを感じるときがある。
頬杖をついた掌がうっすらと汗ばむ五月の半ば、誰も居ない事務所で小さな活字の群れに向き合っている。
私は自分に与えられた仕事を逸脱して、知らず知らず紙面の一角に注意を奪われているのだった。
政令や告示といったものがある。
叙位、叙勲といった華やかな字句もゴシック活字で黒々と刻印されている。
だが私の目はそれら多くの項目を素通りして、いつものようにある一点に立ち止まる。
別にどうということはなく、ただ「行旅死亡人」と記された一段ほどの公告である。一名のときもあれば数名のときもある。
おおむね名前も住所もわからない影のような人々の死を、最少必要限度の行数で世間に知らせるのが、その欄の使命のようであった。
たとえば、いま私の目の前にある公示の一つは次のようなものである。
『本籍・住所・氏名不詳年齢四十歳位の男死体、身長一六四糎、中肉、着衣は緑色ジャンパー、えんじ色カーデガン、白色長袖シャツ、ねずみ色ズボン、黒色短靴を着用、所持金三七〇円。・・・・右記のものは平成○年十一月某日、○○市××町の山林内で凍死体として発見され、遺体は△△大学医学部に交付しました。心当たりの方は、福祉課まで申し出てください。--」
各地の市長や町長名で公示されるこれらの記事は、ほとんど毎日のように掲載され、そして忘れられていく。
名乗り出る家族や知人を持たない多くの死体にとって、この世との最後の接点とでもいうべき布令なのであった。
額の傷や盲腸手術の痕が特徴として記されていることもある。指の欠損とか、まれには女性の下半身だけが公告されるといったこともある。
有力な手がかりとして、そうした記載がなされるのは当然のことかもしれない。だが、いかに詳しく形状を説明されても、依然として彼らは名無しであり、むしろますます得体の知れないモノになっていく。
私は生乾きのインクの臭いを胸深く吸いながら、捉えどころのないそれらの存在について、いつも呆然とした思いに引き込まれてしまうのだった。
野菜や果物にだって名前はある。かぼちゃにしろ林檎にしろ、蔓や樹を放れたからといって名称が変わるわけではない。
それにひきかえ、行旅死亡人と呼ばれる人々の多くは、個別の名前どころかすでに人間ですらなくなっている。
過去を消失し現在を絶たれた状態では、不確かな肉塊か骨片としての扱い以外に、何を要求することもできないのである。
活字が示す彼らの希薄な存在について、私は何の感情も動かしたことはない。悲惨だとか哀れだとか、いわゆる人間的な思いを一度として抱いたことはなかった。
それなのに、なぜかそこで立ち止まっていることが多い。
私の目的は単に官報の中から企業の決算公告を拾い出すことなのに、その作業の過程で、いつしか行旅死亡人に魅入られてしまうとしか言いようがなかった。
もっとも、私の放心の度が昂じたのには多少原因がないわけでもない。
二週間前の金曜日、そろそろ正午になろうかという時刻に、私は見知らぬ男からの電話を取り次がれた。理由はわからなかったが、明らかに怒りを含んだ声だった。吃るような早口で、感情だけが脈打っている。
突然の非難に驚いた私は、あれこれと思いをめぐらし、結局不得要領のまま男の言い分に聞き入るしかなかった。
「き、きみ、ひどいことするなあ。何かわしらに恨みでもあるのかね。あんな記事を書かれたんじゃ、うちみたいな中小企業はいっぺんに息の根を止められちまうさ。それを承知でやるんだからひどいもんだよ」
男の口調は心底恨みがましく聞こえた。
だが、私にはまだ納得がいかなかった。どの記事が彼を傷つけたのか、恐るおそる問い返しながら私まで気持ちが沈んでいった。
「誰かに頼まれたんだろう」
男は見通しだといわんばかりに駄目を押した。
「それは言いがかりです」
「ふ、ふざけるな。おまえたちのおかげで、取引先から警戒されちまって大変なことになっているんだ。この償いをどうしてくれる!」
「そういわれても困りますよ。・・・・失礼ですが、まだお名前も伺っておりませんし」
「し、しらを切るのか。それなら読み上げてやるから、よく聞け」
私は厄介な出来事に巻き込まれたことを知り、すっかり途方に暮れていた。
それでも気を取り直して応対を続けた。相手の男が証拠でも突きつける具合に記事を読み始めたので、怒りの原因はたちどころにわかった。
たしかに最近私が書いた印刷会社についての経営レポートだった。誰が書いても放漫経営を指摘せざるを得ないひどいバランスシートだったので、私もその会社のことはよく覚えていた。
社長と名乗るその男の要求は、私の記事によって失った取引先や金融関係の信用を、早急に回復させろということだった。
だが、熟練した調査員の取材をもとに書いたレポートを、そうやすやすと取り消すことなどできるわけがない。私は最後の判断を編集長の永井に委ねた。
「ああ、もしもし」
永井は禿げ上がった額を撫でながら、気取った声で話しかけた。「・・・・ただいま、おおよそのことは承りました」
そして、事情はわかるが、掲載記事には確信を持っているので、取り消しその他の要求には応じられないことを慇懃に伝えた。
当然ながら相手は激昂している様子だった。
しかし、永井は笑みさえ浮かべる余裕をもって一つ一つ反駁していった。要するに、取材には十二分の注意を払っているので、大きく事実に相違することはあり得ない。また、記事は最終的に編集長がチェックするのだから、あらゆる責任はわたしが持ちましょうというような言い回しだった。
怒り狂う相手に対しては、おそらく永井のような冷静さが一番有効なのだろう。事実、男は受話器の向こうで喚き散らすだけで、最後には報道とか真実とか言う論理に打ち負かされたようであった。
「大丈夫ですかね、編集長・・・・」
私は永井が受話器を置くのを待ちかねて訊いた。「・・・・ずいぶん強硬のようですが」
「なに、口先だけのことさ。名誉毀損だ、へちまだって言ったって、実際に自分の会社の業績が悪いんだから文句のつけようがないんだよ」
「しかし、むちゃくちゃをやってきたらどうします?」
「きみが心配することはないさ。経営手腕の未熟さを棚に上げて言いがかりをつけるような男に、なにができるもんかね」
「そうでしょうか」
「そうだとも、あんなばかばかしい文句を並べている暇があったら、得意先の一つも余計に回った方がよほど利口じゃないですか」
それもそうだと納得し、私はしばらくその印刷会社のことは忘れていた。
ところが、それから旬日を経た一昨日、私は再び思いがけない電話に脅かされることになった。今度は私が直接受話器を取ったのだが、耳を当てるといきなり女性の声で攻め立てられた。
「○○の家内です。うちの人のことお忘れじゃないでしょうね。忘れたとは言わせませんよ」
興奮した声が鼓膜に痛かった。
「ああ、先だっての・・・・」私はいやな予感に抗して平静を装った。「それで、今度はなんなんでしょう」
「うちはつぶれましたよ。あなたたち大喜びでしょう」
「なにをおっしゃるんですか・・・・」
私も気色ばんで声を張り上げた。
すると堪えていた感情が堰をきったのか、女は電話口で急に泣き出した。「父ちゃんは、もう・・・・」
女はその言葉だけを繰り返している。
私の背筋に寒気が走った。今まで予感にすぎなかったものが、より強い実感をともなって襲ってきた。
「ご主人がどうかされましたか」
「明け方にくすりを飲んで・・・・」
「そんなバカな。・・・・だってそれじゃ無茶苦茶でしょう」
私は打ちのめされながらも、理不尽な思いを強くしていた。
「無茶苦茶をやったのは、あなたたちよ・・・・」受話器の奥からなおも怨嗟の声がひびいてくる。
私は頭を抱え込んだ。ここでしっかりしなければと思う気持ちがなかったわけではないが、相手の情況が重くのしかかってきて押しつぶされそうになっていた。
「なんてしつっこいんだ」
様子を見ていた編集長が顔をしかめた。「・・・・これ見よがしに自殺をしたって? ほんとは高利の金を借りて首が回らなくなったんじゃないのか」
私もそう思いたかった。しかし、倒産に続く自裁という結果を突きつけられては、それ以上言い争うことが空しく思われた。
「きみ、これくらいのことで落胆しちゃいかんぞ」
編集長が私を慰めるように近づいてきた。「・・・・きみには何一つ責任はないからな」
午後、取材から帰ってきた同僚たちも口々に私をかばってくれた。ついにはこの事件に関し、会社として特別の論説を出すところまで意見が沸騰していった。
そうした成り行きにも関わらず、私の胸中は晴れないままだった。電話を受けた時点から少しも好転していなかった。
ここまでくれば、もうどんな主張も関係ないのである。どちらが正しかろうと、人がひとり死んだ重みに勝てるわけはないのだ。
私は稼動を止めた印刷機械が、ひっそりと並んでいる光景を思い浮かべた。二重写しに、五十年配の男が硬直して横たわる姿が浮かんでくる。
いまとなっては取り返しのつかないことだが、あの社長に口汚く罵られたことまで、ある種の懐かしさとなって甦ってくる。一人の男がこの世を放棄するに至った心の中を想い、自分のことのように無念がつのった。
論説を掲げて会社の立場を明らかにするという編集長に、私はこれ以上触れないでやり過ごすことを頼み込んだ。
「しかし、きみ、このままではどんな誤解を受けるかわからんよ」
「はい、ですから会社がどうしてもいうのでしたら已むを得ませんが、当事者の気持ちとしてはもう死んだ人を安らかにしてあげたいのです」
「そりゃ、わたしだって死者を鞭打つのは心地好くないがね」
「奥さんだって嘆きの持って行き場がなくなって、あんな電話をよこしたんでしょう」
「逆上していたからな」
「そうなんです。いまは夢中ですが、あとで空しさがわかりますよ。・・・・ですから、編集長、この事件のことはこれ以上ノータッチということにしていただけませんか」
永井はいつもの癖で額を撫で上げながらウームと呻吟していたが、すぐに私の願いを承諾してくれた。
それが一昨日のことだった。どうやら、この二日ばかりは何事もなく時間が過ぎた。私は生々しい記事を書く気がしなかったので、以前から仕事の一部になっている資料整理に力を入れることにした。
業界紙を切り抜き、官報を丹念にめくるのだが、同僚も上司もすべて出払った事務所で単調な仕事をしていると、知らず知らず緊張が緩んでくる。そうした心の隙に、いつしか「行旅死亡人」を示す太い活字が忍び入ってくるのだった。
『本籍・住所・氏名不詳の女性、推定二十三歳位、身長一四八糎丸顔中肉、着衣黄色カーディガン、クリーム色セーター、ズボン下、黄色スラックス、所持品一八金指輪一個・・・・』
右はどこそこの海域にて発見され、身柄引取者がないので火葬に付された。・・・・こんな内容の記事がいくつも続いていた。
どういうわけか、この日は公告の数が多く、嬰児から七十歳前後の老人まで七、八人が並んでいた。どれといって特別の感情はないが、老若男女、年齢を問わない死者の列が、私の脳裏を影のように通過していくのだった。
五月の風が窓から入って首筋を撫でていく。
都心を外れているといっても、環状七号線を往来する自動車の騒音が遠いざわめきとなって絶え間なく届く。書類が風にめくられて緩やかにはためいている。
電話も途絶えた午後の一刻、ふと眠り込んでしまいそうな安穏な時間が事務所を支配している。このまま静寂を凍結してしまいたいと願い、願いとは裏腹にどこからか忍び寄る正体不明の不安に脅かされる。
私の網膜に影の行列はまだ続いており、なおもその後を追うものがある。小学生のときに送った祖母の葬列も、いまとなってはただの影のようだ。
父の記憶はさらに薄く、白い遺骨箱が母の胸に軽々と見えた光景が、まるで他人の話のように甦る。要するにどれも切実ではなく、感情が空へでも飛び去ってしまったようで、行旅死亡人たちへの一瞥とさほど異なるところはなかった。
あの男もいずれ同じ野辺路を歩くことになる・・・・。
私は一連の忌まわしい出来事を思い出しながら、自殺した印刷会社社長に想いをはせた。二週間前にはたとえ電話を通してとはいえ声を聞いた男が、もう話の中にしか存在しない人間になっている。
さらに一ヶ月もすれば、物を食い二本の足で立っていた気配すらあやふやになり、私にとって一筋の記憶の翳りになってしまうことは明らかであった。
深々とため息を吐いて外を見た。隣の柿の木が若葉をいっぱいつけて揺れている。
雀が不意に視野を掠める、その残像を塗りこめるように汚れた空が盛り上がってくる。そのとき階下から人声が聴こえ、編集長と取材記者の村田が現れた。興奮気味の会話が、そのまま私に投げられた。
「きみ、驚くなよ」永井が顔を輝かせてこちらを見つめた。「・・・・例の社長な、あれ死んでないんだってさ」
一瞬、私の身体は痺れたようになっていた。何が現実なのか、とっさの判断ができなかった。
「まったく人騒がせな奴らだよ。自殺未遂というのかね、一昼夜眠った末に助かったんだってさ」
「ほんとうですか・・・・」
問い返すというより、自分に言い聞かせる言葉だった。
「ほんとうだよな、そうだろう?」
永井は村田を振り返って念を押した。
「間違いありません」村田は永井に相槌を打ち、次に私の方を見た。「・・・・ずいぶん悩まされたけど、これでほっとしたでしょう。今度はあの社長が債権者に締め上げられる番ですよ」
ネクタイを緩め、はだけた胸元を拭きながら、若い村田は誇らしげに顛末を話しはじめた。
「そうか」と私はうなずいた。
世の中はたいがいこんなものなのだ。別に驚くことはないし、それによって何かが変わるわけでもない。永井の言葉を受け取ったときから、私の感情は麻痺したままだった。
私は机の上の官報をのろのろと片付けた。切り抜いた新聞のファイルを、機械的に重ねたりした。
頭の中は死の淵から浮上した男のことでいっぱいだった。寝姿からむっくりと起き上がるのが見え、それでいて工場は静まり返っている。
印刷機械はもう彼の声を聞き分けようとはしない。深夜、鉄は歯軋りのようにギチギチと音を立てるという。それを知りながら、彼は二度と機械に話しかけることはできない。
私は初めて男の運命を憎んだ。くたばりぞこないに野辺の送りは必要なかったのだ。
まもなく退社の時刻となった。私は鞄を提げて私鉄の駅に向かった。まだ日没には間があり、西日があたりを明るく照らしていた。
都心からぼつぼつと人影の目立つ電車が到着する。各駅停車をやり過ごして準急に乗り込むのが、私の定まった習慣である。座れることはまれで、その日も私は吊革にぶらさがった。
発車した電車はカーブを勢いよく曲がり、踏切を徐行もなく突っ走っていく。その屈託なさが心地好かった。窓外のみどりの展望もすばらしい。
バラ園があり、ゴルフ練習場があり、アーチェリーの大きな的がある。スピードはさらに上がり、通過駅を横目に警報機の音を割り裂いていく。
こんなときに電車がつまずいたらどうなるだろうと、胸が高鳴るのを感じる。もしかしたら私は宙に放り出され、身元不明の死体になるかもしれない。衣類や所持品が飛び散り、ついでに虫歯もすっ飛んでくれたら、何の特徴もない私の身体はありふれた肉塊になることもできる。
妻を愛し、仕事に熱心な三十過ぎの男にとって、実は人生をもう一度やり直すなど真っ平なのだから、その意味でも名無しの資格がないとはいえなかった。
遠くに山並みが見えたとき、電車は軋みながら大きく弧を描いた。残照を受けた黄色の車体が、いまうっすらと影を連れて郊外の街へすべりこむところだった。
(了)
頬杖をついた掌がうっすらと汗ばむ五月の半ば、誰も居ない事務所で小さな活字の群れに向き合っている。
私は自分に与えられた仕事を逸脱して、知らず知らず紙面の一角に注意を奪われているのだった。
政令や告示といったものがある。
叙位、叙勲といった華やかな字句もゴシック活字で黒々と刻印されている。
だが私の目はそれら多くの項目を素通りして、いつものようにある一点に立ち止まる。
別にどうということはなく、ただ「行旅死亡人」と記された一段ほどの公告である。一名のときもあれば数名のときもある。
おおむね名前も住所もわからない影のような人々の死を、最少必要限度の行数で世間に知らせるのが、その欄の使命のようであった。
たとえば、いま私の目の前にある公示の一つは次のようなものである。
『本籍・住所・氏名不詳年齢四十歳位の男死体、身長一六四糎、中肉、着衣は緑色ジャンパー、えんじ色カーデガン、白色長袖シャツ、ねずみ色ズボン、黒色短靴を着用、所持金三七〇円。・・・・右記のものは平成○年十一月某日、○○市××町の山林内で凍死体として発見され、遺体は△△大学医学部に交付しました。心当たりの方は、福祉課まで申し出てください。--」
各地の市長や町長名で公示されるこれらの記事は、ほとんど毎日のように掲載され、そして忘れられていく。
名乗り出る家族や知人を持たない多くの死体にとって、この世との最後の接点とでもいうべき布令なのであった。
額の傷や盲腸手術の痕が特徴として記されていることもある。指の欠損とか、まれには女性の下半身だけが公告されるといったこともある。
有力な手がかりとして、そうした記載がなされるのは当然のことかもしれない。だが、いかに詳しく形状を説明されても、依然として彼らは名無しであり、むしろますます得体の知れないモノになっていく。
私は生乾きのインクの臭いを胸深く吸いながら、捉えどころのないそれらの存在について、いつも呆然とした思いに引き込まれてしまうのだった。
野菜や果物にだって名前はある。かぼちゃにしろ林檎にしろ、蔓や樹を放れたからといって名称が変わるわけではない。
それにひきかえ、行旅死亡人と呼ばれる人々の多くは、個別の名前どころかすでに人間ですらなくなっている。
過去を消失し現在を絶たれた状態では、不確かな肉塊か骨片としての扱い以外に、何を要求することもできないのである。
活字が示す彼らの希薄な存在について、私は何の感情も動かしたことはない。悲惨だとか哀れだとか、いわゆる人間的な思いを一度として抱いたことはなかった。
それなのに、なぜかそこで立ち止まっていることが多い。
私の目的は単に官報の中から企業の決算公告を拾い出すことなのに、その作業の過程で、いつしか行旅死亡人に魅入られてしまうとしか言いようがなかった。
もっとも、私の放心の度が昂じたのには多少原因がないわけでもない。
二週間前の金曜日、そろそろ正午になろうかという時刻に、私は見知らぬ男からの電話を取り次がれた。理由はわからなかったが、明らかに怒りを含んだ声だった。吃るような早口で、感情だけが脈打っている。
突然の非難に驚いた私は、あれこれと思いをめぐらし、結局不得要領のまま男の言い分に聞き入るしかなかった。
「き、きみ、ひどいことするなあ。何かわしらに恨みでもあるのかね。あんな記事を書かれたんじゃ、うちみたいな中小企業はいっぺんに息の根を止められちまうさ。それを承知でやるんだからひどいもんだよ」
男の口調は心底恨みがましく聞こえた。
だが、私にはまだ納得がいかなかった。どの記事が彼を傷つけたのか、恐るおそる問い返しながら私まで気持ちが沈んでいった。
「誰かに頼まれたんだろう」
男は見通しだといわんばかりに駄目を押した。
「それは言いがかりです」
「ふ、ふざけるな。おまえたちのおかげで、取引先から警戒されちまって大変なことになっているんだ。この償いをどうしてくれる!」
「そういわれても困りますよ。・・・・失礼ですが、まだお名前も伺っておりませんし」
「し、しらを切るのか。それなら読み上げてやるから、よく聞け」
私は厄介な出来事に巻き込まれたことを知り、すっかり途方に暮れていた。
それでも気を取り直して応対を続けた。相手の男が証拠でも突きつける具合に記事を読み始めたので、怒りの原因はたちどころにわかった。
たしかに最近私が書いた印刷会社についての経営レポートだった。誰が書いても放漫経営を指摘せざるを得ないひどいバランスシートだったので、私もその会社のことはよく覚えていた。
社長と名乗るその男の要求は、私の記事によって失った取引先や金融関係の信用を、早急に回復させろということだった。
だが、熟練した調査員の取材をもとに書いたレポートを、そうやすやすと取り消すことなどできるわけがない。私は最後の判断を編集長の永井に委ねた。
「ああ、もしもし」
永井は禿げ上がった額を撫でながら、気取った声で話しかけた。「・・・・ただいま、おおよそのことは承りました」
そして、事情はわかるが、掲載記事には確信を持っているので、取り消しその他の要求には応じられないことを慇懃に伝えた。
当然ながら相手は激昂している様子だった。
しかし、永井は笑みさえ浮かべる余裕をもって一つ一つ反駁していった。要するに、取材には十二分の注意を払っているので、大きく事実に相違することはあり得ない。また、記事は最終的に編集長がチェックするのだから、あらゆる責任はわたしが持ちましょうというような言い回しだった。
怒り狂う相手に対しては、おそらく永井のような冷静さが一番有効なのだろう。事実、男は受話器の向こうで喚き散らすだけで、最後には報道とか真実とか言う論理に打ち負かされたようであった。
「大丈夫ですかね、編集長・・・・」
私は永井が受話器を置くのを待ちかねて訊いた。「・・・・ずいぶん強硬のようですが」
「なに、口先だけのことさ。名誉毀損だ、へちまだって言ったって、実際に自分の会社の業績が悪いんだから文句のつけようがないんだよ」
「しかし、むちゃくちゃをやってきたらどうします?」
「きみが心配することはないさ。経営手腕の未熟さを棚に上げて言いがかりをつけるような男に、なにができるもんかね」
「そうでしょうか」
「そうだとも、あんなばかばかしい文句を並べている暇があったら、得意先の一つも余計に回った方がよほど利口じゃないですか」
それもそうだと納得し、私はしばらくその印刷会社のことは忘れていた。
ところが、それから旬日を経た一昨日、私は再び思いがけない電話に脅かされることになった。今度は私が直接受話器を取ったのだが、耳を当てるといきなり女性の声で攻め立てられた。
「○○の家内です。うちの人のことお忘れじゃないでしょうね。忘れたとは言わせませんよ」
興奮した声が鼓膜に痛かった。
「ああ、先だっての・・・・」私はいやな予感に抗して平静を装った。「それで、今度はなんなんでしょう」
「うちはつぶれましたよ。あなたたち大喜びでしょう」
「なにをおっしゃるんですか・・・・」
私も気色ばんで声を張り上げた。
すると堪えていた感情が堰をきったのか、女は電話口で急に泣き出した。「父ちゃんは、もう・・・・」
女はその言葉だけを繰り返している。
私の背筋に寒気が走った。今まで予感にすぎなかったものが、より強い実感をともなって襲ってきた。
「ご主人がどうかされましたか」
「明け方にくすりを飲んで・・・・」
「そんなバカな。・・・・だってそれじゃ無茶苦茶でしょう」
私は打ちのめされながらも、理不尽な思いを強くしていた。
「無茶苦茶をやったのは、あなたたちよ・・・・」受話器の奥からなおも怨嗟の声がひびいてくる。
私は頭を抱え込んだ。ここでしっかりしなければと思う気持ちがなかったわけではないが、相手の情況が重くのしかかってきて押しつぶされそうになっていた。
「なんてしつっこいんだ」
様子を見ていた編集長が顔をしかめた。「・・・・これ見よがしに自殺をしたって? ほんとは高利の金を借りて首が回らなくなったんじゃないのか」
私もそう思いたかった。しかし、倒産に続く自裁という結果を突きつけられては、それ以上言い争うことが空しく思われた。
「きみ、これくらいのことで落胆しちゃいかんぞ」
編集長が私を慰めるように近づいてきた。「・・・・きみには何一つ責任はないからな」
午後、取材から帰ってきた同僚たちも口々に私をかばってくれた。ついにはこの事件に関し、会社として特別の論説を出すところまで意見が沸騰していった。
そうした成り行きにも関わらず、私の胸中は晴れないままだった。電話を受けた時点から少しも好転していなかった。
ここまでくれば、もうどんな主張も関係ないのである。どちらが正しかろうと、人がひとり死んだ重みに勝てるわけはないのだ。
私は稼動を止めた印刷機械が、ひっそりと並んでいる光景を思い浮かべた。二重写しに、五十年配の男が硬直して横たわる姿が浮かんでくる。
いまとなっては取り返しのつかないことだが、あの社長に口汚く罵られたことまで、ある種の懐かしさとなって甦ってくる。一人の男がこの世を放棄するに至った心の中を想い、自分のことのように無念がつのった。
論説を掲げて会社の立場を明らかにするという編集長に、私はこれ以上触れないでやり過ごすことを頼み込んだ。
「しかし、きみ、このままではどんな誤解を受けるかわからんよ」
「はい、ですから会社がどうしてもいうのでしたら已むを得ませんが、当事者の気持ちとしてはもう死んだ人を安らかにしてあげたいのです」
「そりゃ、わたしだって死者を鞭打つのは心地好くないがね」
「奥さんだって嘆きの持って行き場がなくなって、あんな電話をよこしたんでしょう」
「逆上していたからな」
「そうなんです。いまは夢中ですが、あとで空しさがわかりますよ。・・・・ですから、編集長、この事件のことはこれ以上ノータッチということにしていただけませんか」
永井はいつもの癖で額を撫で上げながらウームと呻吟していたが、すぐに私の願いを承諾してくれた。
それが一昨日のことだった。どうやら、この二日ばかりは何事もなく時間が過ぎた。私は生々しい記事を書く気がしなかったので、以前から仕事の一部になっている資料整理に力を入れることにした。
業界紙を切り抜き、官報を丹念にめくるのだが、同僚も上司もすべて出払った事務所で単調な仕事をしていると、知らず知らず緊張が緩んでくる。そうした心の隙に、いつしか「行旅死亡人」を示す太い活字が忍び入ってくるのだった。
『本籍・住所・氏名不詳の女性、推定二十三歳位、身長一四八糎丸顔中肉、着衣黄色カーディガン、クリーム色セーター、ズボン下、黄色スラックス、所持品一八金指輪一個・・・・』
右はどこそこの海域にて発見され、身柄引取者がないので火葬に付された。・・・・こんな内容の記事がいくつも続いていた。
どういうわけか、この日は公告の数が多く、嬰児から七十歳前後の老人まで七、八人が並んでいた。どれといって特別の感情はないが、老若男女、年齢を問わない死者の列が、私の脳裏を影のように通過していくのだった。
五月の風が窓から入って首筋を撫でていく。
都心を外れているといっても、環状七号線を往来する自動車の騒音が遠いざわめきとなって絶え間なく届く。書類が風にめくられて緩やかにはためいている。
電話も途絶えた午後の一刻、ふと眠り込んでしまいそうな安穏な時間が事務所を支配している。このまま静寂を凍結してしまいたいと願い、願いとは裏腹にどこからか忍び寄る正体不明の不安に脅かされる。
私の網膜に影の行列はまだ続いており、なおもその後を追うものがある。小学生のときに送った祖母の葬列も、いまとなってはただの影のようだ。
父の記憶はさらに薄く、白い遺骨箱が母の胸に軽々と見えた光景が、まるで他人の話のように甦る。要するにどれも切実ではなく、感情が空へでも飛び去ってしまったようで、行旅死亡人たちへの一瞥とさほど異なるところはなかった。
あの男もいずれ同じ野辺路を歩くことになる・・・・。
私は一連の忌まわしい出来事を思い出しながら、自殺した印刷会社社長に想いをはせた。二週間前にはたとえ電話を通してとはいえ声を聞いた男が、もう話の中にしか存在しない人間になっている。
さらに一ヶ月もすれば、物を食い二本の足で立っていた気配すらあやふやになり、私にとって一筋の記憶の翳りになってしまうことは明らかであった。
深々とため息を吐いて外を見た。隣の柿の木が若葉をいっぱいつけて揺れている。
雀が不意に視野を掠める、その残像を塗りこめるように汚れた空が盛り上がってくる。そのとき階下から人声が聴こえ、編集長と取材記者の村田が現れた。興奮気味の会話が、そのまま私に投げられた。
「きみ、驚くなよ」永井が顔を輝かせてこちらを見つめた。「・・・・例の社長な、あれ死んでないんだってさ」
一瞬、私の身体は痺れたようになっていた。何が現実なのか、とっさの判断ができなかった。
「まったく人騒がせな奴らだよ。自殺未遂というのかね、一昼夜眠った末に助かったんだってさ」
「ほんとうですか・・・・」
問い返すというより、自分に言い聞かせる言葉だった。
「ほんとうだよな、そうだろう?」
永井は村田を振り返って念を押した。
「間違いありません」村田は永井に相槌を打ち、次に私の方を見た。「・・・・ずいぶん悩まされたけど、これでほっとしたでしょう。今度はあの社長が債権者に締め上げられる番ですよ」
ネクタイを緩め、はだけた胸元を拭きながら、若い村田は誇らしげに顛末を話しはじめた。
「そうか」と私はうなずいた。
世の中はたいがいこんなものなのだ。別に驚くことはないし、それによって何かが変わるわけでもない。永井の言葉を受け取ったときから、私の感情は麻痺したままだった。
私は机の上の官報をのろのろと片付けた。切り抜いた新聞のファイルを、機械的に重ねたりした。
頭の中は死の淵から浮上した男のことでいっぱいだった。寝姿からむっくりと起き上がるのが見え、それでいて工場は静まり返っている。
印刷機械はもう彼の声を聞き分けようとはしない。深夜、鉄は歯軋りのようにギチギチと音を立てるという。それを知りながら、彼は二度と機械に話しかけることはできない。
私は初めて男の運命を憎んだ。くたばりぞこないに野辺の送りは必要なかったのだ。
まもなく退社の時刻となった。私は鞄を提げて私鉄の駅に向かった。まだ日没には間があり、西日があたりを明るく照らしていた。
都心からぼつぼつと人影の目立つ電車が到着する。各駅停車をやり過ごして準急に乗り込むのが、私の定まった習慣である。座れることはまれで、その日も私は吊革にぶらさがった。
発車した電車はカーブを勢いよく曲がり、踏切を徐行もなく突っ走っていく。その屈託なさが心地好かった。窓外のみどりの展望もすばらしい。
バラ園があり、ゴルフ練習場があり、アーチェリーの大きな的がある。スピードはさらに上がり、通過駅を横目に警報機の音を割り裂いていく。
こんなときに電車がつまずいたらどうなるだろうと、胸が高鳴るのを感じる。もしかしたら私は宙に放り出され、身元不明の死体になるかもしれない。衣類や所持品が飛び散り、ついでに虫歯もすっ飛んでくれたら、何の特徴もない私の身体はありふれた肉塊になることもできる。
妻を愛し、仕事に熱心な三十過ぎの男にとって、実は人生をもう一度やり直すなど真っ平なのだから、その意味でも名無しの資格がないとはいえなかった。
遠くに山並みが見えたとき、電車は軋みながら大きく弧を描いた。残照を受けた黄色の車体が、いまうっすらと影を連れて郊外の街へすべりこむところだった。
(了)
いい小説ですね。
名無しの行旅死亡人とそれを報じる素っ気無い記事をぼんやり眺める主人公。
どちらも同じで、彼はそこに自分を視ているのでしょう。
そして彼とこの小説を読ませていただいている私も、結局は同じもので・・・。
叙位、叙勲にありついたと言ったところで、あるいは大金持ちになったり立派な仕事を成し遂げたといったところで、100年もしたら誰も覚えちゃーいないわけで。
この世の存在は誰もちょぼちょぼなんでしょう。
多分私たちは皆、人生の行旅人の一人なのです。
もっとも誰が成したかは分からなくなっても、やったことが人間の本性の何かに深く触れるものであったとしたら、何百年経とうがその欠片は何かのかたちで人類の記憶の底に記憶されていくのでしょうが。
こう考えると無名性とは何と安心感を与えてくれるものであるかに気付かされます。
やっぱり生きてある今の一瞬一瞬こそが愛しいな。
ガアガアどなって来る電話はあっても、実はとても静かな深みを湛えたよい小説で、嬉しく読ませていただきました。
知恵熱おやじ
その書き出しからして読者を引きずり込むのに、実際に職場で起きた小さなトラブルと変な結末がまた奇怪。おやおやと読み進むうちに「私」はいつものように通勤電車で帰宅の途に就く。
この話の組み立て方に筆者の並々ならぬ力量を再認識させられましたよ。
そして、いつの間にやら人間の生の空しさみたいな感情が襲ってくるんですね。どんな人間であろうが結局は行旅死亡人みたいなものとか。
あと、この新聞社の性格がもう少し詳しく説明されると、現実味を帯びるのでは、とも。
総合紙のような大新聞社ではなさそうだし、さりとて企業情報ばかり扱う専門新聞でもなさそうだし。まあ、たいした問題じゃありませんが。
こんな意味深い小説を月に一編ほどでも読ませてもらえたらありがたいです。