正門を出ると、正夫は道路を挟んだ土手を見ながら右に曲がった。
病院寄りに数メートル進んだところで道を渡り、雑草の踏み跡をたどって斜面を一気に登った。
緑陰をめがけて、濠からの風が幾重にも吹き上げてきた。
折りしも通過中の電車が、心地よい振動音を風に含ませている。
正夫は一瞬、土手の上でたたずんだ。
泡のように皮膚表面で弾ける感覚を、立ち止まって味わった。
水と緑のかすかな香りを、胸いっぱいに吸った。
ほっと息をつき、次の行動に向かう決心がついた。
彼は、このあと神田方面に出る予定をしていた。
目星をつけておいたアルバイト先の一つを、訪問してみようかと思ったのである。
ところどころに設置された木のベンチに、一休みするジャージー姿の中年男が目に付いた。
病院から抜け出してきた患者が、決められたリハビリ時間をここで調節しているのだろう。
去年スキーで骨折した友人が、この病院に入院していたからおおよその見当はついた。
大学に近すぎないかと揶揄したが、その友人は親の薦めだからと誇らしげに笑っていた。
右手にこじんまりとした郵便局が見えてきて、土手上の散歩道は終わりになる。
正夫はたわいない思い出を脳裏に仕舞いこんで、土手の石段を大股に降りた。
何気なく視線を向けたガラス窓に、ひらひら動くものが目に入った。
(なんだろう?)
親しげな合図のようであったが、どんな理由なのか突き止められないもどかしさを感じた。
知らず知らず首を差し伸べていた。
前屈みに透かし見た正夫は、太陽光の反射をかいくぐって、ひらひらするものの正体を探り当てた。
ガラスの向こうで激しく振られる女性の両手だった。
(あっ)
正夫は意表を衝かれて路上に立ち止まった。
折りしも差し掛かったタクシーが、必要以上にクラクションを鳴らして、彼の身体ギリギリのところをを走りすぎた。
「バカヤロー・・・・」
沸騰しかけた怒りを押さえ込むように、郵便局の内側からワンピース姿の若い女が飛び出してきた。
「逢いたかった・・・・」
外見は変わっていたが、機動隊に追われて転倒した小柄な女性に違いなかった。
「あ、あの時の・・・・」
言葉をつまらせながら見入った。
自然に伸びた左手が、女の肩を抱えて建物の陰に連れ戻した。
機動隊員に突き飛ばされ、教室の壁に両手両足を開いて立たされた女は、デニムとカッターシャツの男っぽい服装をしていた。
それに比べ、この日は紋白蝶のように変身していた。
「大丈夫だった?」
臆せずに覗き込んだ正夫に、女はコクンとうなずいた。
「ずっと、探していたの」
かすかにほころんだ口元が、素直な喜びをあらわしていた。
「ぼくも、キミを捜していた。だけど、名前も知らないし・・・・」
熱い思いがこみ上げてきた。
「どこか、喫茶店に入りましょうか」
野暮な立ち話になりかけるのを、女が制した。
ふたりはぎごちなく歩き出し、間もなく女が正夫の腕に手を絡ませたことでスムーズな歩調となった。
大神宮側には曲がらず、信号を渡って神楽坂方面に下った。
いつも乗り降りする駅舎の前を素通りすることで、新しい人生が動き始めたのを感じていた。
外堀通りを越え、再び上り坂となった坂の登りかけの喫茶店に滑り込んだ。
めったに訪れない地域の商店街は、正夫にある種の緊張を強いていた。
ゆったりとしたボックス席に腰を落ち着けると、すかさずウェイトレスが水を運んできた。
女はアイスティーを注文し、正夫が口を開くのを待った。
「ぼくは、コーヒー・・・・」
ホットかアイスか確かめてウェイトレスが去ると、入れ違いのようにパガニーニのヴァイオリン曲が流れてきた。
歯切れのよい演奏が、やっと正夫の意識に入り込んできたのだ。
「こちら側へはあまり来たことがないんです。拙くなかったですか」
「ええ、わたしも大学の近くはいやだったの」
「そうですか、あっちだと仲間に遭いそうな気がしますもんね」
「そうなの・・・・」
二人は顔を見合わせた。
思いが一致したことで、いっぺんに親しみが増した。
「ぼく、山野正夫です。あと二年というところで、足踏みしています」
いずれ休学のことも説明することになりそうだと思いながら、とりあえずはぼかした物言いをした。
アルバイト先も決まっていない焦りを、相手の女性に気取られたくなかった。
「わたしは、萩村夕子です。三年残してます」
正夫に倣っておどけたようだ。
いまのところ、夕子は彼より後輩だった。
1960年代の終わり、全共闘の活動に煽られた闘いが、全国の国公立大学や私学にも燎原の火のように広がった。
学費値上げ反対、大学自治の開放などを要求した正夫たちの活動も、学部ごとの主導権争いが顕著になり、入り乱れての闘争となっていた。
68年には、他大学の活動家がジャックナイフを携帯していて、敵対するセクトにつけ込まれる事件があった。
謀略を思いついた一派が、武器を所持していた男を取り囲んで恫喝し、挑発によってナイフを抜くように仕向けたのだ。
この一派は、この後「ジャックナイフ事件」を錦の御旗として、敵対グループへのテロを路線化することになる。
「なんだが怖いわ」
サークルや校内での集会を通じて要求をアピールしていた時期から比べると、学生運動は短期間のうちに大きな変貌を遂げていた。
暴力が前面に躍り出た闘争に、夕子は不安を感じそれを口にした。
「ついていけないよな」
正夫も同調した。
69年9月には、芝浦工業大学で内ゲバによる初めての死者が出た。
10月には日本大学で、四階からのコンクリート塊投下による機動隊員の死亡事故が発生し、それまで手加減をしていた学生運動への対応が一気に厳しさを増した。
正夫と夕子が出会ったのは、学生運動がまさに劇的に転換する時期であった。
機動隊の導入によって大学秩序の回復を目指すやり方は、このころから大学当局の常套手段となっていった。
「ぼくは、しばらく休学するかもしれない」
長兄とのいきさつは抜きに、今後の見通しを口にした。「・・・・しばらく働きながら、将来のことを考えてみたいんだ」
「わたしは、親がすぐに結婚話を持ち出すから、卒業が長引くのは好都合なの。花嫁道具としての卒業証書が目的だから、やめろとは言わないし・・・・」
詳しくは語らなかったが、かなり有力な企業のお嬢さんという立場らしかった。
70年代初めには、二人の大学も含めセクト同士の争いが、さながら殺し合いの様相を見せはじめた。
彼らのキャンパスでも活動家の殺害事件が起こり、大学側はそれを口実にして、現場となったサークルボックスのある六角校舎を解体した。
夜間・休日は学生の立ち入りを禁止するなど、ロックアウト体制を強行した。
飯田橋本校地区全体を取り囲む鉄柵を設置して、「法大動物園」と揶揄されたのもそのころのことだ。
正夫は、まもなく休学状態に入っていった。
夕子は夕子で、大学に席を置いていたが、サークル拠点の封鎖やロックアウトで、まともに進級できる状態ではなかった。
目的を失い、希望も見えなくなった二人は、互いを拠りどころとして縺れ合うような生活をしていた。
中野の杉山公園に近いアパートで、安息を求めて同棲に近い親密な生活を始めていた。
彼ら二人に限らず、内ゲバによる死者の発生を契機に、学生運動に背を向けた活動家は少なくなかった。
しかし、卒業資格を持たないままでは、どこへも行き場のない状態だった。
それでなくとも世間は、当初の同情的立場から警戒の目に変わっていた。
山野正夫は、自らの置かれた境遇から、すでに長期アルバイトの仕事に付いていた。
印刷会社の夜間工である。
明け方まで働いて、よれよれになりながら中野のアパートにたどり着く。
時には新宿の夜明けを眺め、終夜営業の食堂で一息ついていくこともある。
街なかに屯する一世代若い少年少女が目に付いた。
正夫たちのせっぱ詰まった状況を尻目に、夢遊病者のようにうろつき、路地裏にへたり込んでいる。
腹立たしく思ったが、元はといえば寄る辺ない心の浮島を作り出したのは彼ら学生にあった。
理想の潰えた大学、信用のならない大人たち、希望を見出せない社会、指標を示せない教育者や宗教家。
クスリやシンナーの力を借り、ぐだぐだと慰めあう青春の残滓が、街なかにも新聞紙上にも染みのような痕跡を増やし始めていた。
ただ、正夫は自分を無気力とは思っていなかった。
将来の展望が描けていたわけではないが、いまは風待ちのつもりでいた。
(何かが自分を待っている・・・・)
都合のよい思い込みのようだが、辛抱の先に幸運の日矢が差し込むのを信じていた。
時どき訪れてくる夕子の存在も、彼の心を支える希望の一つだった。
表向き外泊を避けていた夕子とは、正夫が眠りから覚めた午後の逢瀬が多かった。
逢えば互いに愛をむさぼった。
それでいて、彼女との結婚など、具体的なイメージを描けなかった。
差別や人権に敏感であるはずの現役学生が、夕子との身分の違いに気後れするところが多かったのである。
(つづく)
(くりたえいじ)様、時代・風俗・思想・・・・その中で翻弄される人間の生き方を描きたいと思っています。
女の子の存在もその一部。
こちらの思いが具現化すればよいのですが・・・・。
(知恵熱おやじ)様、時どきスイッチバックしながら進みます。
ドラマを多く持ち込みますので、混乱するかもしれませんが、それはこちらの力量不足のせいです。
次回もコメントください。
史実に迫るようなリアリティーがあり、往時がふつふつと蘇ってきましたよ。
物語の途中でなんですが、奥ゆかしい素敵な女の子が登場してきたようですね。
その不自然な最初の出会いと、次の偶然の出会いから、彼と彼女の行く末が楽しみになってきました。
そんなことを予感し、想像してみると、この短編小説、案外と長く続く長編になるのではとの予感もします。
状況説明に紛れていつの間にか「半同棲」していることになっちゃったのですか。
そこに至る心理的経緯がもうちょっと何か描かれていてもよかったような気がしますが、如何でしょうか。
小説としてはそこのところが面白いのではないかと思うのですが。
もっともこのあと何らかの仕掛けが用意されていて、それに絡めて同棲に至る状況が明かされるのかもしれませんが。
それを期待して、続きを楽しみに読ませていただきます。