神田神保町の路地裏に
江戸時代から続くそば屋がある
たしかめたわけではないから
表通りを ちょんまげ姿の侍や
てんびん担いだ魚屋が
急ぎ足で行き交ったかはわからない
それはともかく 昭和の終わりを見届けて
平成の年号を戴いたのは めでたい限りだ
神田神保町の路地奥で
同人雑誌の発送を終えたあと
米寿に近い長老が よろよろと足を運ぶ
江戸時代から続くそば屋の前に来ると
「ちょいと寄って行こうか」と仲間を見回す
黒光りする柱を背に席を定め
いつものようにソフト帽を取り
「何にする?」と目を輝かせる
どんな季節でも熱燗と決まっているのに
弟子たちの好みに配慮して
ビールや豆腐を注文させたあと
自分はおもむろに日本酒を追加する
手酌で二合ほど空けたところで
長老は むかし仲間だった私小説作家の話をする
「いい文章を書いたのに死んだら全部燃やされてねえ」
カミさんは恥を曝されたと恨んでいたらしい
長老を慕う弟子たちも六十歳に近いから
みな我が身に引き寄せて嘆いてみせる
「ぼくも不倫の話を書いたら女房に誤解されてね」
虚構というものを理解しないんだから
ほんとに女は厄介なシロモノだよ、と
そのくせ集まりがあれば参加して
酒を酌み交わし 夢を語っていられる能天気な身分
長老のいう私小説作家は もうこの世に存在しないのだ
「先生そろそろ蕎麦を頼みましょうか」
あと半合で切り上げるように細工して
いつものように モリ蕎麦を用意させる
「この齢になるとザルの海苔がうるさくってね」
更科をサカナに 軽くなった徳利をかたむける
白髪を右手で掻きあげ 正座に坐りなおして
突然カチューシャの唄を口ずさむ長老を
同人雑誌の発送を終えた弟子たちが囃したてる
たそがれた神田の街に
たそがれ近い男たちがさまよい出て
元気さの順に どんどん間隔を開ける
還暦のマドンナと 遅れがちな長老の二人を待ち
人混みに攫われそうになりながら
同じ方向だからと 地下鉄の入口に送り込む
手摺に掴まり階段を下りる長老の背中が闇に紛れ
次は自分の番かと見なれない後ろ姿を想像してみるのだ
(『蕎麦酔い』2012/11/15 より再掲)
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