あの男は、素人ではあるまいと睨んだ。
人のいいチンピラか、組に属さない日陰者だろうと結論付けた。
上京したてのミナコさんが引っかかったインチキ芸能プロダクションの男よりは、ずっとマシなのではないか。彼の話が嘘でなければ、自分の腕が腫れ上がるほど仕事に打ち込む、見上げた根性の職業人なのである。
それにしても、楽に見える商売ほど苦労は多いのだと悟らされた。おれは、マンダ書院で味わった半端者の悲哀を思い出し、現在の充実した毎日と比べて、どれほど心のゆとりに違いがあったかを反芻した。
多々良に対する感謝の気持ちが、おれの中でますます膨らんだ。一方、ミナコさんへの心配は募るばかりだった。
おれの思いあがった行為は許されないとしても、ひと言、詫びをいう機会を与えてもらうことは出来ないのだろうか。
あまりにも唐突な別れの決断に、手紙で示された理由とは別のしがらみがあるのではないかと、納得のいかない思いが次第に頭を持ち上げてきていた。
翌日、おれは予定通り、たたら出版へ出勤した。
最初は、みんなに気を遣われ、却って疲れを感じていたが、国鉄のディスカバージャパンに関連したディスプレーの注文が飛び込んできたことで、一気に仕事モードになった。
張り切った気持ちを持ち続けていると、体の芯に巣食っていた疲れのようなものが消えていった。ミナコさんに係わる絶望的な思いも、少しは軽くなっていくように感じられた。
おれは、風邪で休んでいた間に考えていたことを、もう一度検証してみた。
(思い切って、自動車内装会社に電話をかけてみようか)
誰が電話に出るか。受話器を取った人間がおれの声を識別するのではないか。バレたらミナコさんの立場が、悪くなるのではないだろうか。
躊躇しながら、昼休みを待って電話をした。経理課直通の番号だった。
「もしもし・・」
おれは、マスクを掛けたまま声を発した。
「はい、はい。こちらは・・」
嘱託のゴトウさんが出たようだ。おれは、さらに声を作って、ミナコさんの所在を確かめようとした。
「恐れ入りますが、経理の責任者の方にお取次ぎいただきたいのですが」
「わたしが、責任者です」
ゴトウさんが、怒ったように言った。「・・それより、どんな用事なんですか」
「ただいま、各会社さんに商品先物の運用をお勧めいたしておりまして。このところ、めざましい成績を・・」
途中で電話を切られた。「もう、いい」と、声を荒げていたから、おれと気付いた形跡はなさそうだった。
肝心なことは、ミナコさんが出勤していないという事実だった。そのうえ、嘱託だったゴトウさんが責任者に据えられ、ミナコさんの居場所が失われている状況が分かったことは収穫だった。
(会社にも、戻ってくる気はないのだ)
おれは、自動車内装会社社長の顔を思い浮かべ、ミナコさんとまだ繋がっているのではないかと疑いを残していた気持ちを、完全に払拭することができた。
呻きながら見たベビー服姿の夢のシーンは、おれの惧れがもたらした妄想のようだった。
ホッとすると同時に、ミナコさんが置かれている立場の困難さが、現実のものとして迫ってきた。
おれのせいで、長年の安定した生活が失われたことは間違いなかった。ミナコさんにも、半ば覚悟があったとはいえ、おれさえ現れなければ、いままでどおり安穏な暮らしを続けていただろうにと、申し訳ない気持ちになっていた。
「きっと、探し出してみせる」
おれは、萎えかけていた気力が戻ったのを感じていた。
多々良社長も、おれが元気になったことを、心から喜んだ。オペレーターの紺野も、個人で受注してきた仕事に専念できるので、うれしそうに鬚を撫でていた。
物不足は、さらに深刻さを増していた。便乗値上げが横行し、それらが人びとのモラルを著しく低下させていた。
秩序が乱れれば、こころもカネも滞るようになる。経済が下降線を描いていったのも、企業みずからが自分の首を絞める行為をやった結果と言われても、反論できない状況だったのである。
人びとの大多数は、ガスも電気も石油も節約して、寒い二月を乗り切った。
三月に入って、元日本兵がルパング島で救出されたとのニュースが、新聞の見出しを飾っていた。
以前から、フィリピンのジャングルで、終戦を知らずに隠れ続けている日本兵の話題は聞いていたが、現地入りした上官の『復員命令』下達によって、はじめて姿を現したとの詳細な経緯を知って、おれは、わけもなく涙を流した。
二日後、信義を失くしてしまった日本に、三十年も前の信義が帰ってきた。
日頃テレビを見ないおれも、食堂のテーブルで箸を休めたまま、飛行機のタラップ上で敬礼をする戦闘帽姿の小野田少尉に見入っていた。地を這い、ジャングルに同化しながら、なおも人間の持つ凛々しさを失わなかった日本人の気骨に、胸を熱くしていた。
おれは、久しぶりに駅の売店で夕刊を買った。
つり革につかまりながら、小野田寛郎の履歴をむさぼり読んだ。
「陸軍中野学校なら、駅から遠くないじゃないか・・」
いつかバスで通り過ぎたときに気付いた、厳格なたたずまいの建物を思い出しながら、おれは独り言を呟いていた。
電車が減速を始めたらしく、体が傾いた拍子に、おれの視線が紙面の上を掃いた。とたんに、おれの目は、小さな見出しに引っかかって留まった。
『女事務員を横領容疑で逮捕』
なんと見出しの下にあったのは、ミナコさんの名前だった。
降車客に押されながらも、おれは車内にとどまっていた。
中野止まりの電車は、この後回送電車になるので、全員降りるようにとアナウンスが流れていたが、おれは、その短い記事を食い入るように見つめたまま、走りこんできた駅員に連れ出されるまで、その場に立ち尽くしていた。
「うそだろう・・」
ホームの階段を降りながら、東北にいたはずのミナコさんが、なぜ警察に捕まっているのかと、疑問ばかりが湧いて出た。
信じられない気持ちの一方、多少思い当たるところもあった。
去年の秋、自動車内装会社社長に殴られて、目の下に痣を作って現れたとき、翌朝会社を休ませようとするおれに抵抗して、昼ごろ出勤したことがある。
「すべては言えないけど、わたしの一存で操作しているところがあるの」
聞き流してはいたが、気になる告白ではあった。
それが何を意味しているのか、おれには到底分からないことであった。だが、いまになってみれば、「わたしが行かないと、大変なことになる・・」と言った、その大変なことが発覚したのだと分かった。
新聞によれば、会社のカネを不正に引き出して、架空名義の口座に移していたという。取引を装った悪質な操作が、単独でなされたものかどうか、これから解明していくと捜査当局は述べていた。
(だれが告発したのだろう?)
あの野郎が、悔し紛れに訴え出たに決まっていた。ミナコさんに、脱税の手伝いをさせておきながら、見境もなく告訴したに違いなかった。
ミナコさんは、自動車内装会社社長の性格を見誤ったのではないか。みずから不正な利益圧縮を指示したことを棚に上げて、ミナコさんの些細なやり繰りを咎めるような、ケツの穴の小さな男とは思わなかったのではないか。
ミナコさんを告発する前に、奴は、すべての不正をミナコさんひとりに被せるような工作をしてはいなかったか。
おれは、想像のなかでも怒りを覚え、危うく階段を踏み外しそうになった。
どっちにしても、もう、あと戻りはできない。ミナコさんも、闘う準備を整えていたフシがある。おれの前から、いきなり姿を消したのも、おれにとばっちりが及ぶのを防ごうとする決意の表れかもしれなかった。
(続く)
〈2006/05/ 19より再掲)
小野田少尉の件は、大分昔の話の事ですね。
ミナコさんが横領容疑。
話がいろいろと展開されていきますね。
そうそう、小野田少尉のニュースはもう大昔の話になりました。
ミナコさんの話は更に展開していきます。
ミナコさんが横領容疑で逮捕!、全く予想外の展開には度肝を抜かれました!
「わたしが行かないと、大変なことになる」というのがその伏線だったんですね。
終戦を知らずに隠れ続けている日本兵と言われていた小野田さんが、実は、上官の直接の復員命令が無いために姿を現せなかった、という話には私も感動しました。
そうなんです。
「わたしが行かないと、大変なことになる」という伏線がこの先の展開を進めます。
小野田少尉は情感の命令があるまで出てこれなかったんですね。
時代錯誤の話のように受け止める人もいますが、日本人の信義の原点を見るようで頭が下がりました。
ここに至って小説としての構えが一気に一段ギアチェンジしそうな展開で、読みながら背中がしゃんとしました。
このあとのを楽しみにしていますよ!!!
エンストしないように気をつけますが、さてどうなることやら・・・・。
コメントありがとうございました。