翌朝、おれは、ふらつきながら家を出た。朦朧とした意識のなかで、たたら出版への執着がおれを衝き動かしていた。
会社に着くと、社長の多々良に、たちまち最悪の体調を見抜かれた。
誰が見ても憔悴した顔付きだったから、見抜かれたというより、気付いてもらうための出勤といってもよかった。
「いやあ、これはひどい」
多々良は、おれの額に手を当てて診断を下した。「・・すぐに、病院へ行ったほうがいい」
おれは、社長が呼んだタクシーで、九段坂にある病院へ運ばれた。まだ壮年の多々良は、痩躯のわりには力があって、おれに肩を貸し、ときには抱えるようにして、救急受付の看護婦におれを引き渡した。
マスク代わりに巻いていた襟巻きを外され、若い当直医によって診察を受けた。あと一時間もすれば、通常の診療時間帯に入る微妙さに、医師はちょっぴり浮かない表情を見せていた。もう、アガリの気持ちになっていたのかもしれない。
聴診器を胸に当てられ、いつもより速く打つ鼓動を聞かれたのだと思った。だが、それは見当違いで、医師は別のことを確かめていたようだ。
「音は濁ってませんから、いまのところ肺炎の心配は少ないと思います。ただ、脱水症状がみられますので、あちらで点滴をしていってください」
医師は、となりの処置室を目で示し、看護婦に二言三言指示をした。
点滴が始まると、口や鼻から薬剤の濃厚な匂いが漏れ出てきた。どこかで嗅いだ記憶があった。ひとを安心させる匂いであった。
強張っていた体が急に楽になり、わずか一枚の薄がけだけでも、おれは寒さを感じなくなっていた。
(医者って、すごいなあ・・)
カーテンで遮蔽された空間で、おれは、子供のように感激していた。
それまでの苦しさが、魔法をかけらたように消えている。
看護婦に起こされるまで、おれは眠っていたようだ。
「あっ」
おれは、小さく声を発した気がする。覚醒していく意識の焦点に、看護婦の笑みがあった。
「どうしました?」
「あ、はい・・」
おれは、看護婦の口元に、ミナコさんの微笑を重ねて見ていたようだ。
「点滴は終わりましたけど、気分はいかがですか」
「はい、不思議なくらい気持ちがいいです」
おれは、頭の中がすっかりクリアになっているのを、点滴の薬液の効果だと思った。「・・それで、社長はどうしたろう」
「ああ、付き添いの方ですね。いったん帰られましたが、迎えに来られると言ってましたよ」
おれは、処置台から別のベッドに移された。
「付き添いの方が見えられるまで、そこで休んでいっていいですよ」
夜勤の看護婦は、引継ぎのために、向かいのナースステーションに入っていった。当直医の姿も、すでに無かった。
おれは、廊下越しに看護婦たちの動きを目で追った。ひとつのテーブルを挟んで、白い帽子が盛んに揺れていた。
彼女らの背後の壁に『備品・消耗品の無駄使いはやめましょう』と大書した縦長の紙が貼ってある。なんだか管理の厳しい病院だなあと、おれは、真剣に引継ぎを続ける看護婦たちに同情していた。
まもなく、多々良の声がして、別の看護婦がおれを迎えに来た。
「おお、だいぶ顔色が良くなってきたな。しかし、流感らしいから、しばらくおとなしくしていないと駄目だぞ。ぶり返したら大変なことになる」
多々良は、さっさと会計を済ませて、おれを市谷の駅までタクシーで送ってくれた。
「家でゆっくり静養すればいいよ。仕事の方は、少し減ってきているから、なんとかやりくり出来そうだし・・」
なんだか寂しい気がした。自分がそれほど必要ないと言われているようで、病気になったことが、余計に悔やまれた。
だが、多々良社長の言ったことは、間違っていなかった。昨年秋の中東戦争勃発以来、石油製品の暴騰が続き、いわゆるオイルショックと呼ばれる経済の減速が明らかになった。
大阪のスーパーマーケットでのトイレットペーパー買いだめ騒動に始まり、洗剤や石鹸、それに砂糖、塩、小麦粉といった日々の生活に欠かせないものが、軒並み店頭から消える事態となったのである。
出版界も、印刷用紙の不足と高騰に悩まされていた。めぐりめぐって、印刷業者の仕事が減り、写植関係の需要も絞られてきていたのである。
「あ、そうか」と、気付いたことがあった。原油の値上がりによる二次的、三次的影響は、病院で使うさまざまなものの値上がりと品不足のかたちで、直撃していたのだ。しみったれと思ったのは早とちりで、ゴム手袋からトイレのロールまで、節約するのが当然の状況だったのだ。
アパートに戻って、布団にくるまった。すぐに眠れそうな気がしていたが、妙に頭が冴えてしまった。
昼には、病院から渡された薬を飲まなくてはならない。一日四回、六時間ごとと指示されたことが、薬に慣れないおれを脅かしていたのかもしれない。
おれは、久しく忘れていた弱気の虫に苛まれていた。
多々良社長は、いまのところ親切にしてくれるが、これから景気が悪くなれば、たたら出版そのものが立ち行かなくなる事態に陥るかもしれない。
社長が持たせてくれた粥とスープの袋を枕元に置いて、おれは、おれの運も下り坂に向かっているにではないかと、暗い気持ちになっていた。絶頂にあると思えたミナコさんとの関係が、あっという間に暗転したように・・。
その日をいれて三日間、おれは会社を休んだ。
抗生物質の威力で、インフルエンザを押さえ込んだようにみえた。だが、熱はともかく、体の芯にだるさが残っていた。
幸い、翌日が日曜日なので、あと一日静養することが出来た。多々良にもらった粥から始めた食事にも、さすがに飽きてきて、戻ってきた食欲のままに、外でチャーハンが食いたくなった。
三味線通りまで出ると、お気に入りの中華飯店があった。
そこのカウンターで、おれは、ふっくらとした玉子チャーハンを食った。どんな油を使っているのか、作っている最中から香ばしい匂いに鼻腔の奥までくすぐられていたので、おれは脇目も振らずに、飯の山を崩していった。
少しは散歩でもしようかと、鍋横方面を一瞥したものの、すぐに諦めた。交差点を渡って行くのが億劫だったのだ。信号を待てば何の苦もなく渡れるのに、それだけのことをやろうとする気力が、まだ伴っていなかった。
もと来たとおり、最短距離を歩いてアパートに戻った。
おれが、部屋のカギを開けていると、隣室から出てきた坊主頭の男と目が合った。
「やあ、お出かけでしたか」
「ちょっと、飯を食いに行ってきました」
「おお、わしもそうしようと思ったところよ。きょうは、コレがおらんけん、えらい不自由をしとるところや」
大きな目を見開いて、かすかに笑いながら、左手の小指を立てて見せた。
「はあ・・」と、返事をしながら、おれの視線は男の右手に向いていた。コートの下で、ぐるぐる巻きにされた包帯の腕を見てしまったのだ。
「いやあ、これ、パチンコのやりすぎなんじゃ。わしの稼業じゃけん、仕方がないんよねえ」
初対面ではないが、この日まで、あまり立ち入った話をしたことはない。
ところが、この男は人懐っこい性格らしく、自分のほうから何でも打ち明けてくる。人は好さそうなのだが、おれにとっては苦手のタイプだった。
男が小指を立てて「コレ」といった女性とは、何度か会釈を交わしたことがある。おれが屋台に寄らずに帰った日に、これからオデカケの彼女に出会っているから、おそらく夜の仕事をしているのだろうと推察していた。
付き合っていると、話が長くなりそうなので、おれは途中で頭を下げた。
「すみません、風邪で少し熱があるんで・・」
「いやあ、それはいかんね。今度、元気になったら、一度あそびに来んしゃい」
目の中に、笑みをたたえて、おれを見た。
おそらく、同棲中の彼女をホステスとして働かせ、自分は朝からパチンコ屋に入り浸っているヒモに相違なかった。
おれは、曖昧にもう一度会釈をして、自称パチプロを名乗る男に背を向けた。
(続く)
(2006/05/15より再掲)
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