今回は短編小説のカテゴリーに入ってはいるが、実質「八犬伝」の勉強会みたいなものなのでご承知おき願いたい。
明治時代の中頃までは物語といえば『南総里見八犬伝』が最もよく読まれていた。
江戸時代後期に曲亭馬琴によって書かれて以来いろいろな形で読み継がれてきた大長編物語である。
貸本による普及が第一だが、歌舞伎の演目にも取り入れられ庶民の間で人気が沸騰した。
馬琴はこの物語を48歳から76歳までの28年間かけて完結させた。〈全98巻、106冊の大作〉
途中失明しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記で完成させたと伝えられている。
物語の概要は、南総里見家の勃興と伏姫・八房の因縁を説く発端部(伏姫物語)
関八州各地に生まれた八犬士たちの流転と集結の物語(犬士列伝)
里見家に仕えた八犬士が関東管領・滸我公方連合軍(史実世界の古河公方連合軍)との戦争(関東大戦、対管領戦)に大きく分けられる。
抄訳本では親兵衛の京都物語や管領戦以降が省略されることが多い。
別の解説では次のように説明されている。
- 『南総里見八犬伝』は、室町時代後期を舞台に、安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説です。
- 共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、牡丹の形の痣が身体のどこかにあるとされています。
- 関八州の各地で生まれた彼らは、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集します。
- 馬琴はこの物語の完成に、48歳から76歳に至るまでの後半生を費やしました。途中で失明という困難に遭遇しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができました。
- 明治に入ると、坪内逍遥が『小説神髄』において、八犬士を「仁義八行の化物にて決して人間とはいひ難かり」と断じ、近代文学が乗り越えるべき旧時代の戯作文学の代表として『八犬伝』を批判していますが、このことは、当時『八犬伝』が持っていた影響力の大きさを示しています。
坪内逍遥による西欧の文学における考え方が紹介された〈フランスの作家エミール・ゾラが提唱した自然主義〉ことで、我が国の近代文学にも自然主義が台頭し人間の懊悩を描くことが主流となった。
島崎藤村の「破戒」や田山花袋の「蒲団」などの作品だ。
大時代的な構成を排し、卑近な出来事などを描く私小説などはその一例である。
八犬伝などの伝奇小説は、しだいに衰退の運命をたどった。
中国の歴史書「三国志」とともに心躍らせた人々はしばらく物語の醍醐味から遠ざけられる。
だが庶民が愛した物語性は、歴史小説や大衆文学の形で生き残った。
歴史上の武将などを主人公にした大河ドラマを見れば、日本人がいかに物語好きか明らかであろう。
合戦や国盗りに一喜一憂するさまは『南総里見八犬伝』に心躍らせた当時の人々と何ら変わっていない。
曲亭馬琴が残した影響力は延々と現在に及んでいる。
〈おわり〉
茨城県古河市では、古河城の屋根の上で八犬士が戦ったという、古河城跡の歴史博物館を見学に行きました。
また、千葉の館山城の中にある「八犬伝博物館」を見学に行きました。
更に、千葉の「八犬士の墓」に墓参りにも行きました。
千葉には、他にも、八犬伝ゆかりの土地が色々とあって楽しかったです。
「八犬伝ゆかりの土地巡り」をしたんですか。
茨城県の古河や千葉県の館山はまさにゆかりの地ですね。
資料もいっぱい残っていたでしょう。
南総里見家と関八州に散らばっていた八犬士が集結していく途中の物語が虚実交えて体験できましたね。
「八犬士」の墓まであるんですか。
館山市が建てたのかな?
そろそろテレビで「八犬伝」をやってくれませんかね。
しかし、江戸時代になって、里見家には内紛が発生したため、幕府に目を付けられ、伯耆国(鳥取県)倉吉へ転封になります。
そして、最後の当主・里見忠義が鳥取県倉吉で没した際に、8人の家臣が殉死しました。
その8人の家臣の遺骨を分骨し、ここ千葉の館山に供養したのだそうです。
この殉死した8人の家臣が、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」の「八犬士」のモデルになったため、この墓を「八犬士の墓」にみたてているみたいです。
曲亭馬琴の読本にはモデルがあったのですね、
安房といえば
阿波もお家騒動があったのでしょうね。
「鳴門秘帖」で幕府の隠密が入り込むのを興味深く観ましたが安房も似たような状況だったのでしょう。
殉死とは痛々しい。
史実があればこその『南総里見八犬伝』だったんですね。