(こっちへおいでよ)
迂闊といえばうかつだった。
歩道で自転車にぶつかられて転倒するなんて、まったく考えてもいなかった。
高校生が人混みを縫うように飛んできて、避ける間もなくボクの腹めがけて突っ込んだのだ。
救急車で運ばれ、病院の手術室に横たわるボク。
倒れた拍子に頭を打ち、脳挫傷、硬膜下血腫をおこしたらしい。
もちろん昏倒以後のことは意識にないはずだが、どういうわけか知っているのだ。
鴉の眼といったらいいのか、天井の高さからボクがボクを見ている。
ボクはたくさんの白衣に囲まれて、ベッドに括りつけられていた。
煌々と輝く手術燈に照らされて、ほとんどボクの命脈は尽きかけているようだ。
救急車で運ばれているときは、しばらくスティービー・ワンダーの「アイ・ジャスト・コールド・トゥ・セイ・アイ・ラヴ・ユー」が聴こえていた。
ヘッドホーンから漏れていたせいかもしれないが、いまはそれも止んだ。
「ロックなんか聴きながら歩いているから、こんなことになるんだ」
誰かが非難がましく言ったのを覚えている。
(ロックじゃないけどなあ)
耳に刺さった声に興奮し、悪いのはどっちなんだと腹も立っていた。
もっとも、それは後から思い出したことで、首を振りながら唄うスティービー・ワンダーの姿が見えなくなったとたんに画面が変わっていた。
「ヒロシぃぃィ、こっちへおいでよ」
遠くの方で、四人ぐらいの人が手を振っている。
ほんとうに親しみをこめて、ボクの名を呼ぶのだ。
ボクとその人たちの間には、青い霧状の帯が横たわっていて、向こう側でボクを呼ぶ人たちの正体ははっきりしない。
ただ、ボクの方もすごく幸せな気分になっていて、彼らの呼ぶまま一歩踏み出そうとしているのだ。
(ちょっと待ってよ・・・・)
相手がラーメン同好会の仲間ではないのに、いつもの口癖が出た。
「何してるんだ、早く、こっち、こっちぃィ」
「ヒロシさん、こっちへ来て・・・・」と、女性らしき人も呼びかける。
得も言われぬ潤いに満ちた声が、向こう側から流れてくる。
いつのまにか、ボクとの間に横たわっていた青い帯が幅を狭め、いまにも向こう側へ渡れそうに思える。
はっきりしなかった対岸には、赤やピンクや白のポピーが咲いていて、ボクに呼びかける笑顔が光の中に浮かんでいる。
(ああ、兄さん、・・・・あっ、叔母さん・・・・)
小学校四年の担任だった嶺崎先生の顔もある。
軽やかな音楽が空を流れ、図版で見た法隆寺金堂壁画の飛天が抜けだしてきたように舞っている。
ボクは懐かしさのあまり、薄れてきた霧の帯を突っ切り、対岸に向かって走りだそうとした。
スティービー・ワンダーの声が再び聴こえてきたのは、その時だった。
<アイ・ジャスト・コールド・トゥ・セイ・ハウ・マッチ・アイ・ケア>
飛天が、そのまま洋楽の声に乗って飛んでいる。
ボクは、疑いもせずにその情景に身を任せていた。
ガツンとショックがあって、ボクは強い力で引き戻された。
渡りかけていた青い帯が遠ざかり、兄や叔母や嶺崎先生の姿がかき消される。
一瞬のうちに、白い光が網膜を満たし、麻酔液が血管を通り過ぎていくのが意識された。
「おっ、動いたな・・・・」
医師が手元と計器を見比べながら呟いた。
ボクの眼は、それらを見届けたあと高い天井の位置から降りた。
まだ、スティービー・ワンダーが唄っている。
(あなたのことを本当に大切に思うって電話しただけ・・・・)
耳元で鳴る曲の波長が、向こうから呼びかける人たちの声よりも強く響いたのだろう。
ボクは一晩中、スティービーの声を聴きながら、喉の渇きと麻酔の切れ目に襲ってくる激痛に悩まされていた。
ICUには数日間いたようだ。
その間、身体には何本もの管が差し込まれていた。
見ることはできないが、一本一本がどこかとつながっていて、そこの機嫌を損なえばボクはたちまち窮地に陥るのだろうと従順な気持ちになっていた。
眠りから醒めると、点滴の容器と管がぼんやりと見えた。
静脈に入ってトゥルル、トゥルルと囁く輸液は、リズムを刻んで身体を潤した。
点滴スタンドにぶら下がった容器からは、生理的食塩水も栄養剤も麻酔液も落ちていたはずだ。
ときおり小水がしたくなり、下腹部につながった管からどこかへ流れ出ていく。
重苦しさが少し軽減すると、入ってくるものより出ていくものについて考えはじめていた。
レンタル・ビデオ店で借りたCDの返却期限はいつだったろうか。
(ああ、クレジットの8000円をすぐ口座に入れなくっちゃ)
急に喉の渇きを覚え、駅前のラーメン店で食った豚骨ラーメンを思い出していた。
旨かったというほどではない。
一応スープを飲み干したが、塩けがきつかったのか後からお冷を三回もお代わりした。
(あれで850円は高いよな)
千円札を出すとき、バンダナを巻いた店員がボクの顔色を窺った。
あの駅前のラーメン店は、Cランクだ。
ボクが治ったら、ラーメン同好会の会報にそう書いてやる。
続々と会員からのレポートが集まっているだろうに、彼らはボクが入院していることさえ知らないのだ。
ICUの薄暗さと、停滞した空気のよどみが鼻についてきた。
四六時中、水が垂れているような音がしているのも憂鬱だ。
誰かに止めてくれと言いたいのだが、声を張り上げるだけの元気はない。
そのうち、この日何度目かの睡眠に引き込まれ、夢だか幻覚だかわからない影の男に追われることになる。
「おい、逃げるなよ」
背後から三尺ほどの腕が伸びてくる。
肩のあたりを掴まれそうになり、ボクは避けようとして身をよじる。
とたんに、頭がズキンとして腹の底から呻き声がもれる。
「先生、ちょっと様子が変です」
白衣の女性がどこからか飛んできて、ボクを覗きこむ。
装着した器具や管を調べ、脈拍や呼吸数を計器で確かめているようだ。
ボクは面倒くさくて状況を知ろうともせず、そのくせ看護婦が近くにいたことで安心していた。
(家族はどこかにいるんだろうか・・・・)
安心したのは確かだが、直後にボクの容体が悪化するのがわかった。
気が遠くなり、頭が枕ごとベッドの下へ抜け落ちた気がした。
「おかしいな・・・・」
駆けつけた医師の曇った声が、床に転がるボクの頭蓋を半周して消えた。
それまで一度も気にしたことはないのに、家族の不在が気になる。
ボクは無意識に兄のことを思った。
温泉旅行から帰って間もなく、劇症肺炎で死んだのだ。
八年前のことだった。
病院に駆けつけたとき、ボクはレントゲン写真を見せてもらったが、両方の肺とも真っ白だった。
「もう呼吸ができない状態です」
レジオネラ菌に汚染された循環式の浴槽設備が、肺炎の原因ではないかと後から問題になった。
だが、その時は新たに疑問を呈する知識もなく、結局うやむやになってしまった。
重大な事態に直面していたはずなのに、医師側も家族もなんとなくフワフワと見逃してしまった気がする。
(ボクも同じじゃないだろうな)
不安が急速に膨張し、その圧力に押し出されるように、ボクは再び暗い空間にさまよい出た。
目の前に花園があった。
ポピーと思っていたのは、ケシの花だった。
こんなに不法な栽培をして・・・・。
ボクが不機嫌なせいか、誰ひとり姿を見せなかった。
(兄貴も叔母さんも、どこかへ行ってしまった)
やさしい嶺崎先生の姿も見えなかった。
(あのとき呼びかけに応えなかったから、シカトしているのだろうか)
ボクがスティービーの曲に引き戻されなければ、兄や叔母や峰崎先生の歓迎の輪に飛び込んでいたはずだ。
青い帯を突っ切ろうとまでしたのに、今は合図の声さえ聞こえない。
さびしかった。無性に寂しかった。
ボクの寄る辺ない気持ちを慰めてくれる、ただ一人の身内もいない。
まるで孤児のように無視された悲しみが、ボクの瞼の下から流れ落ちていた。
(こっちへおいでよ)
もう一度、そう呼びかけて欲しい。
あのチャンスを逃したことで、当分近しい人たちに巡り合うことはできないに違いない。
痛恨の思いが、ボクの神経を枯れたツルのように震わせる。
もう一度、春風のような声で呼びかけてほしい。
< And I mean it from the bottom of my heart >
(・・・・心の底から、そう思っているよ)
ボクはすごすごと引き返し、今度彼らと出会った時にはもう少し愛想良くふるまおうと心に決めていた。
(おわり)
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不思議な感触の小説ですね。
テーマは「死」か「生」でしょうか。
結びがどちらになるかは最後まで分からず、
静かに幕を下ろす手法というわけでしょうか。
全編に余韻を残すのは、なぜかスティービー・ワンダーであり、嶺崎先生の描き方です。
その歌詞や動きが何かを意味しているのでしょうか。
なんだか凄い手法のように思えます。
こんな感じの短編小説を矢継ぎ早に作り、発表できる才能と手腕には、毎度のことながら感嘆しております。
魔法の技が次から次へと編み出されていく感じもします。
注目していただき、ありがとうございます。
ほとんど描写もしていないのに、何かを感じていただいたということは、くりたさんの深層に経験として同様のものがあったのかもしれません。
大変うれしいコメントでした。
確かにそういうことはありますもの。
しかしうまいですねえー。
脳科学がそれらしい答えを出すにしても、おっしゃる通り小説や宗教向きのテーマかと思います。
長生きして、決着を見てみたい(!?)