志保は仁吉の帰りを待って針仕事に精を出していた。
夕食の時刻はとうに過ぎていたが、吉井駅近くの一杯飲み屋で小一時間は息抜きしてくるのが常だから、亭主の好きなおでんの鍋を火に掛けて、ごとごとという音を聴きながら頼まれものの訪問着を仕立て直しにかかっていた。
亭主は富岡製糸場の技師で、志保とは職場で上司と部下の関係だったが、三年前に結婚して吉井町で借家住まいをしていた。
「空っ風がきついわね・・・・」
木枯らしが吹いて一段と気温が下がってきたようだ。
上州名物は赤城颪と相場が決まったものだが、ここ吉井あたりに吹く風は実のところは榛名か妙義の山肌を舐めてきた冷気によるものと思われた。
強風が吹き荒ぶ中ひときわ寒さの堪える十二月になっていた。
ときどき火鉢の熾きに手をかざしながら針を運んでいた志保だが、ふと糸巻きの糸が尽きかけているのに気がついた。
あと少しで仕上げが近いところまで来ていながら、このままではあした客のところへ直しの品を届けられるかどうかわからない。すぐにも小間物屋まで買いに行きたいのだが、亭主と行き違いになるのをおそれて腰を上げ渋っていた。
「志保、表の看板が外れかけていたから直してやろう」
帰る早々道具箱を取り出して、『着物仕立て』と墨書した板を柱の上部にしっかりと釘打ちしてくれた。
「おまえさん、寒くなかったかい? おでんが好い具合に炊けたころよ」
志保は亭主の体を抱えるようにして部屋に引き入れた。
時は昭和十六年の師走である。
製糸場で見初められ所帯をもって三年、未だに新婚気分で居られるのは子供ができないからだ。
どちらに原因があるのか分からないが、周囲の期待にもかかわらず子宝に恵まれないことで、志保は明るい笑顔を見せながらもその裏で不安と焦燥を感じていた。
身分不相応とは感じつつも近くの磯部温泉に夫婦連れ立って湯治に通い、冷やかし混じりの励ましに身を細めることも少なくなかった。
「支那との戦争も勇ましいが、今度は碧眼相手に打ち勝たにゃあならんから、志保さん立派な男子を授かるよう励んでくれろ」
町内会の世話役の好色な視線にさらされたこともある。
一時期、上毛新聞の見出しにはABCD包囲網という活字が躍っていたが、強い日本に警戒したのか欧州列国に加えてアメリカまでもが中国から撤退せよという理不尽な要求を突きつけて、外国からの物資の調達に圧力を掛けてきているらしかった。
そんな仕打ちに耐えかねてのハワイ奇襲攻撃である。男たちが鬱憤を晴らすように声を荒げる気持ちも分からないではなかった。
「世の中なんだか騒がしくなってきたぞ」
酒が入ったせいもあって仁吉の顔がてらてらと輝いている。
志保は亭主が沈んでいると心配が先に立つものだから、今夜のように張り切っているときの方がよほど好きであった。
「・・・・おまえ知ってるかい。帝国海軍は十二月八日未明の真珠湾攻撃で敵の有力艦船を多数撃沈したらしい。これでアメリカを黙らせれば日本国だけが不当な差別を受けていた貿易も活発になって、仕事も忙しくなるかもしれないぜ」
近年、中国や東南アジアの安い絹製品に押されっぱなしの製糸場にも、少しは景気の回復があるかもしれないと期待を抱いている様子であった。
明治五年に官営工場として創立された富岡製糸所は、その後幾多の変遷を経て昭和十四年に片倉製糸紡績会社の所有となっていた。
志保が退社した一年後のことで、仁吉の話では事業としての採算が難しくなっていて、やむなく長野県の諏訪に本社のある同業の片倉製糸に引き取られたということらしかった。
もともと明治政府が産業振興の意図をもって設立した製糸場で、桑畑が多く養蚕業の盛んな富岡の地に近代的な大規模工場をつくり、日本全国に普及させたいという希望に満ちた事業であった。
そのための技術指導者を養成する目的もあったわけで、当時高級品の生産国として知られたフランスから技師を招き、蒸気機関を動力とする生産ラインを設備したのであった。
当初女工が集まらず、武家の娘たちを勧誘して出発した経緯は土地の者にはよく知られているが、維新という改革の時期だからこそ成し遂げられた近代化であり、その意味では昭和の時代まで営々と活動したことで一応の役割を終えたということもできた。
志保もフランス人技師ポール・ブリューナの残した業績については、折にふれて聞かされていた。
建屋の端から端まで繰糸機を連ねた志保たちの工場の他に、幾つもの繭倉庫や製品保管庫、動力棟、食堂、診療所、学問所、そしてフランス人家族たちの生活棟まで、赤レンガの建築物が広い敷地いっぱいに点在していた。
できた当時は世界でも有数の大規模製糸場とたたえられ、品質面でも高級品の多いフランス・イタリアに迫る製品づくりを目指していたのであった。
「おまえさん、いずれフランスとも戦争することになるのかねえ」
「どうだろうね。今のところフランスはドイツに脅かされていて日本どころの話じゃないだろう。いままで中立だったアメリカが連合国に加わってどう出てくるか、場合によったらお前が心配するような事態が起こるかもしれないが、ポーランドを占領したヒットラーのナチスが同盟国の英仏にも攻撃を仕掛けているから、欧州戦線だけで精一杯だろうよ」
どこでどう仕入れたのか、志保は仁吉の意見にはいつも感心させられていた。
おでんを肴に飲みなおした仁吉の勧めで、志保もお猪口で燗酒を何杯か付き合わされた。
「どうだ、群馬の酒も満更ではないだろう」
「男の人っていつもこんなに辛いお酒を飲んでいるのですか」
志保は少し噎せながらもしっかり飲み干した。
「新潟の酒はたしかにうまいが、ここいらの地酒だって勇ましくて好いやな。馬庭の剣士たちにも、気合が入ると評判らしいぜ」
江戸以来、多くの門弟を輩出している馬庭念流の道場が隣駅にあり、宗家の樋口家はこの辺りでは知らぬ者のない名家だったのである。
「そういえば、ここいらのおかみさん連中だって皆お屋敷とか樋口様とか丁寧な呼び方をしているわね」
「そりゃあ、そうだろう。昔っから川越街道を下って念流の門を叩く者があとを断たなかったんだから・・・・」
仁吉の説明によれば、古くは『寛永御前試合』の立合い人の一人に抜擢された十一世定勝をはじめ、堀部安兵衛の師とされる十三世将定、<矢留の術>を編み出した十八世定伊など、念流歴代の宗家の評判を数えたてれば限がないほどであった。
「江戸で評判を取っただけじゃないぜ。馬庭念流が偉いのは、農民や町民まで門弟に受け容れて庶民の剣法として広めたことだ・・・・」
仁吉は吾がことのように高揚した口ぶりでまくし立てた。
明治維新でそれまで乱立していた武芸諸派の多くが衰退していったが、念流は馬庭を中心とした地域に根付いていたため庶民の護身を司る身近な武術として生き延びた。
剣法の一流派というより、郷土の兵法家としての側面が農民や町民に受け容れられた要因かもしれない。
あくまでも自衛の剣として殺傷をいさめた馬庭念流の理念が、中央から遠く離れたこの地で存続できたのは、立身出世の手段として武芸を利用してきた武士たちの価値観とは異なる庶民の肌感覚があったからではないだろうか。
体制が変わるとたちまち流行が変わる俗世の習いには影響されず、遥かに本質に迫る理解の幅と深みを示した市井の人びとに、仁吉は土に接して生きるからこそ芽生える感覚の確かさを感じ取っていたのである。
志保には平易なことばで説明してくれる仁吉だが、技師らしく理屈を極めようとする性質もあった。
馬庭の剣士たちのことも、飲み屋で同席した門弟のひとりから根掘り葉掘り聞き出したか、あるいは郷土史館から資料でも借り出して読み漁ったか、妙にこだわるところがあった。
「志保、おまえにも苦労を掛けているが、もうすぐ好いこともあるだろうから辛抱してくれな」
酒の熱りをそのまま夜具に持ち込んで、志保は仁吉の腕の中にあった。
何かに急かされているような亭主の激しさに不安を懐かぬでもなかったが、戦争となると目の色が変わる男の本性のままに、志保もまた夢の波間に吸い込まれていくのだった。
真珠湾攻撃の二日後にはマレー沖海戦でイギリス海軍の戦艦を沈め、ルソン島、マレー半島、ボルネオ、ミンダナオ島などに上陸し、わずか二週間あまりで電撃的な進攻を果たしていた。
いったんは攻略に失敗していたウェーク島を再度攻撃し、香港島もクリスマスを祝わせることなく制圧して、この地でのイギリス軍降伏という戦果をあげた。緒戦での勝利の勢いは留まることを知らなかった。
しかし、こうした展開は日本の望むところではなかったはずだ。
そもそも満州事変、第二次上海事変で仕掛けた対中国戦争がアメリカなどに邪魔されて長引いた結果、仏領インドシナにまで戦線を広げなければならなくなった。
日本は欧米からの兵糧攻めに遭って、やむなく腰の伸びた作戦を実行しなければならなくなったとみることもできたのである。
しかし、明けて昭和十七年になっても人びとは大本営発表の華々しい戦果に酔い痴れていた。
正月二日にはマニラを無血占領し、その後もクアラルンプール、ラバウルと資源確保の重要拠点を次々と手中に収めていったのである。
全国紙並みに特派員を派遣して戦地からの報道に力を入れる上毛新聞を手に、仁吉は朝から興奮していた。
「今日も富岡で提灯行列があるそうだ。おれも第一乙種だからいつ出番があるかわからんぞ」
二十歳のときの徴兵検査で甲種になれなかった口惜しさを、どこかで晴らそうとしているような様子が窺えた。
「おまえさん、自分から志願するような真似はよしておくれよ」
昔から気位の高い土地柄だけに、お国のためとなると一途に忠誠を尽くそうとする人間が多かった。
仁吉は甲種合格で徴兵された現役兵とは異なり、補充兵としていつでも兵役可能な待機集団に組織されていたから、連隊区司令部に保管されている在郷軍人名簿に印を付けられれば、直ちに召集のかかる立場に置かれていたのである。
二月、三月にかけても日本軍の華々しい戦況が打電され続けた。
オランダ領東インド(インドネシア)スマトラ島における落下傘部隊の活躍、シンガポールでのイギリス・オーストラリア軍降伏、アメリカ軍司令官マッカーサーのフィリピンからの逃亡など、やんやの喝采をもたらす戦果が矢継ぎ早に紙面をにぎわわせた。
こうした状況が、一般国民にまで勝ち戦への期待を膨らませた。
仁吉も例外ではなかった。破竹の勢いで進軍する日本軍は、犠牲も少なく楽に連合軍を打ち破っていくように思えたのだ。
四月に入ってB-25爆撃機による東京初空襲があったにもかかわらず、富岡あたりにいた仁吉はあまり脅威を感じていなかった。
五月初めには一週間のうちにイギリス領ビルマ中部のマンダレー、アキャプ、ソロモン諸島ツラギ等を占領し、フィリピン・コレヒドール島のアメリカ軍降伏といった戦果が報告されたものだから、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸と爆撃して飛び去った十数機の敵機来襲の深刻さに気付いていなかったのである。
「なあに、あんなものは迷い込んだ虻みたいなものさ。撃ち落す気になればたちまち高射砲の餌食にできたのだが、敵機の様子をみて泳がしておいたらしいぜ」
仁吉の認識は、大多数の国民の感覚と大差なかった。
皇居上空をかすめ、死者五十名を数えたB25爆撃機に依る攻撃が、敵空母から発進した航続距離の長い艦載機であることを知っていたのは、おそらく軍関係者だけであろう。
よって一般市民はあまり不安を懐くことがなかった。「・・・・奴さんたち今度またやってきたら、飛んで火にいる夏の虫だい」
どんな娯楽よりも、ラジオや新聞で知る戦況の話題が一番だった。
職場でも、家庭でも、男たちは自分がその場に立ち会っていたような口調で泡を飛ばしていたのである。
仁吉のもとに『赤紙』が届けられたのは、七月半ばのことだった。
梅雨が明けて間もないころで、このところ酒も自粛の風潮があって早寝をした夜十時ごろのことである。
ドンドンドンと雨戸を叩く音に起こされ、玄関口で仁吉本人がそれを受け取った。ピンク色をした横長の用紙に『臨時召集令状』と大きく印字され、その横に住所と所属と氏名が書かれていた。
「召集令状を持ってまいりました。おめでとうございます」
志保は蚊帳の中で赤紙配達人の声を聞いた。いろいろと近所の女たちの話を耳にしていたから、それが役場の兵事係の口上だとわかっていた。
「おお、とうとう俺にもきたか。待っていたぞ」
体裁をつくろった決まり文句の返答の中に、仁吉の心底嬉しげな響きがみなぎっていた。
志保は亭主が八方ふさがりの状況から逃れようとしている気配を感じ取っていたが、こうまで嬉しそうな反応は予想していなかった。
出征が現実のものとなったと知って、胸がドキドキした。
仁吉がいなくなってからの生活など想像もつかなかった。
片倉製糸紡績会社での居心地が悪いといっても、我慢して志保と一緒の生活を選んでくれるとおもっていた。
蚊帳を透して青い海のように揺らめく六畳の居間を横切り、紙切れの字を読みながら戻ってくる仁吉のシルエットが夢の中の海坊主に見えた。
「志保、志保、喜べ。苦労させたが、これで少しは見通しができたってことよ」
置いていかれる女房の辛さなど想像もできない亭主の独りよがりが、はじめて鬱陶しく感じられた。
「赤紙がきちゃあ仕方がないだろう」
気が飛んでしまった志保に気付いて、仁吉が言い訳のようにつぶやいた。
1985年、志保六十七歳の誕生日が過ぎた昭和六十年、好景気が確かなものになった日本経済の先行きを謳歌して、都心の繁華街は人びとで溢れてかえっていた。
銀座、新宿、青山、原宿、おとなの街も若者の町も、それぞれの流行を追って日がな一日浮かれているように見えた。
秋のブライダルシーズンを迎えて、ホテルや結婚式場には連日ウェディングマーチが流れ、新婚旅行も海外へ向かうカップルが飛躍的に増えていた。
「おかあさま、わたしのデザインしたウェディングドレス好評よ。結婚式場やデパートから注文が殺到しているんですって」
満面の笑みを浮かべて理事長室に入ってきたのは、志保の一人娘よし乃である。
東京御茶ノ水にある学校法人『トミオカ和洋服飾学院』の校長をつとめ、表舞台の仕事は母の志保に代わってあらかたこなしていた。
よし乃は二十五歳で結婚してすでに二人の子供がいる。
結婚相手はプロのテニス選手で、浅黒い皮膚と均整のとれた肢体が自慢のスポーツマンだが、志保からみれば少し軟派な印象で百パーセント信頼しているわけではなかった。
ただ、よし乃の子供たちは志保にとって目に入れても痛くない孫である。
戦死した仁吉との間でなかなか子宝に恵まれなかった志保の苦労が嘘のように、出征前夜に授かった忘れ形見のよし乃は、女の子、男の子と、いとも簡単に子供を産み分けてみせた。
軟派な男とはおもっても、可愛い孫の父親である以上、志保も当たり障りなく付き合っていくしかなかった。
「よし乃さんのセンスが好いからよ。絹の光沢がほかとは違うから、品のよさが際立っているのね」
志保は四十三歳となった娘の、年齢を感じさせない肌つやに目を細めながら、仁吉が戦死した昭和十九年前後の状況を思い浮かべて感慨にふけった。
昭和十七年六月のミッドウェー海戦で、日本軍は初めて敗北らしい敗北をした。八月にはソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島などにアメリカ軍が上陸し、先に陣地を築いていた日本軍に対して熾烈な攻撃を加えた。
連合軍の本格的な反抗が始まったのである。
戦況の微妙な転換点がこの時期であった。提灯行列に浮かれて志願したわけではないが、密かに望んだ南方での戦線に陸軍歩兵部隊の一員として運ばれた結果が、昭和十九年七月のマリアナ諸島サイパンにおける日本軍玉砕の悲劇に付き合う形となった。
仁吉もまたおのれの遺骨すら残せない戦死となってしまったのだ。
六月十五日から開始されたアメリカ軍による攻撃は、山中にめぐらした日本軍陣地に向けた艦砲射撃など、圧倒的な火力によって山の形が変わるほど繰り返されたという。
終焉は七月七日。日本の行事でいう七夕の日である。
軍人の自決が相次ぎ、民間人もバンザイクリフから投身するなど、後に攻撃を受けた三週間あまりで日本人一万人が死んだと記録された凄惨な戦場となった。
現地の島民も巻き込まれ、多数の犠牲者を出したのは哀れである。
仁吉が何月何日に、どこで死んだか明らかではない。
岩も塹壕も跡形のない状況では、一兵卒が生存した痕跡など探すべくもない。出兵にあたりあらかじめ用意された爪や髪が箱に収めて届けられ、それを根拠に吉井町の寺で葬儀を営んだ。
志保は一歳になった娘のよし乃を抱いて法事を終えた。涙が溢れたのは家に戻ってからだった。
「おまえさん、糸に飽きちゃったんだね・・・・」
製糸業の技師として不遇な時代にめぐり合わせてしまったことが、ガラにもなく勇ましい戦争に憧れるきっかけになってしまった。
辛抱していれば高級な絹織物やメリヤスの生産に転進することもできたはずなのに、兵士として送り込まれた南方戦線では武運空しく「転進」と称する敗走の憂き目に遭っていた。
そして、ついに転進が適わなくなっての玉砕。
真実を伴わない言葉のむなしさが無数に転がっている。
戦場ははどんなに飾り立てても、腐臭に満ちた死体の集積場所だ。そこに人間を赴かせる戦争の論理は、嘘で固めたインチキ教祖の催眠術だ。
志保は瞼が腫れるほど泣き続けたが、それは日本の敗戦に対する口惜しさでもないし、亭主と過ごした日々への愛惜でもなかった。
「赤紙がきちゃあ仕方あるまい」
非国民になれというわけではないが、「非国民」という言葉の真実を見据えながら出征する男であって欲しかったと悔やんだのだ。
死の瞬間、仁吉は彼を取り巻いていた言葉がすべて虚妄に満ちたカケハギに過ぎなかったことに気付いただろう。
それを思うと、志保は仁吉の無念にも涙を流した。
翌朝、泣き腫らした志保の瞼はなかなか開かなかった。手探りでよし乃に乳を含ませ、こんなことでは授かった子供に申し訳ないと濡らした手拭で目を冷やし、ようやく朝の光を見た。
顔を洗い、目を洗ったが、眼球を膜が覆ったようになっていて鬱陶しい。
鏡に映してみると、なにやら白い糸状のものが黒目に張り付いていた。
(なんだろう?)
ゴミを取る要領で瞼をひっくり返してみると、涙腺かと錯覚させる小さな穴から細い糸がひなひなと生えている。
志保が慎重に指で摘まむと、抜いた糸の奥から別の糸が引き出されてくる。三度繰り返した末に、志保は天啓を受けたように震えた。
(わたしは繭になる・・・・)
富岡製糸場に就職したての頃、志保は会社の図書室で絹織物の歴史を勉強した。
はじめ絹織物は中国の王侯・貴族の独占物であり、蚕種や生糸を国外へ持ち出すことは厳しく禁じられていたが、西域の若き王に嫁いだ中国の姫がこっそりと繭を隠して運び出したことから、西域一帯に養蚕が広がったのだと言い伝えられていた。
やがて絹はシルクロードを経て地中海諸国にまで伝わったといわれ、東洋、中近東、ヨーロッパなど多くの国で独自の絹織物が生産されることになったのである。
中国の姫の伝説になぞらえれば、富岡製糸場から極上の繭玉を瞼の裏に託されたことになる。
たとえ会社は別の会社に吸収されても、志保の瞼に隠された絹の糸はいつか脚光を浴びる日が来る。
着物仕立てから身を起こした志保が、洋装の時代にもすばやく適応して事業を成功させ、ついには東京に乗り込んで学校法人『トミオカ和洋服飾学院』を立ち上げた陰には、多くの人の支援と幸運があったことはいうまでもない。
しかし、志保の瞼にひそむ糸の存在は、魂を織り成す神様の意思として消えることなくひそみ続けた。
それは、志保以外誰も知らない秘密であった。
(完)
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あの大東亜戦争から太平洋戦争に至る時代の、一見ありふれた国民の暮らしぶりが再現されていることにまず驚嘆。そして、敗戦に至るまでは、あたかも大河小説を凝縮したかのような観がありました。
史実の裏付けも大変だったことでしょう。
そんなスケールにありながら、登場人物は仁吉と志保という当時、ありふれた夫婦だけ。この名前も当時をしのばせるようですね。
何よりも物語の極致は、志保の瞼から細い糸が引きだれていくところでしょう。非現実的と言えば言えるでしょうが、それを天啓として上昇気流に乗っていく。この展開の妙。
願わくば、娘よし乃をもう少し描き出されていたら、と願うのは筋違いでしょうか。
ともあれ、作者渾身の一作に違いありません。
男は国を支えると肩いからして赤紙に連れられて行った。女は眼からひなひな引きだされてくる糸を頼りに、男が最後の睦合いで残して言ってくれた子と戦中戦後の荒廃のなかを生き抜いてきた。
あの時代、状況は違ってもみんなそんなふうに懸命に生きてきたんだよなー。
時代の大きな流れはいつだって過酷でないときはないのでしょうが、その中でどんなに弱弱しくとも懸命にこつこつ生きようとするとき、自らの内なる細い糸が現れてきて支えてくれるのでしょう。
志保の眼から出る糸はその足元の地中に根を張っていたに違いない。
この小説は読むものに生きる勇気を与えてくれます。
私たち名もない草の民の生命力を教えてくれて、なんだか嬉しい。ありがとう!
知恵熱おやじ