(虻の計略)
女夫淵の駐車場にクルマを停め、そこから先は徒歩で進んだ。
夏のはじめの昼下がりのことだった。
鬼怒川上流に点在する温泉の一つ、八丁の湯を目差す旅だった。
川沿いに造られた小道を歩き、道が崩れたところは川縁の石の上を拾い歩きした。
師匠の青山雨聴と弟子二名による、俳句吟行会の最終目的地であった。
弟子の一人は高校生の剛史、もう一人は注目の女流俳人春野霞子であった。
三名の師従は剛史を先頭に、霞子を間にして雨聴が最後尾を進んだ。
季節はずれの台風が逸れて、当地にも目立った被害はなかった。
しかし、一行が進む川沿いの小道には、旺盛な夏草が倒れるように張り出していた。
置き土産の湿った空気が、三人の顔のあたりに纏わりついてきた。
「なんだか、蒸し暑くないですか・・・・」
霞子の華やいだ声が聴こえてきた。二十歳を過ぎたばかりの無防備なひびきだった。
続けて交わされる言葉の音調から、時どき後ろの雨聴を振り返って話しかけているようだ。
剛史は一人取り残された寂しさを味わいながら、子供の自分がどことなく無視されているのを感じていた。
今回の吟行に同道を求められたのも、謂わば雨聴と霞子の道行をごまかすためのものであった。
妻の松江が薄々勘付いているのを承知で、雨聴がアリバイ作りに剛史を連れ出したのだ。
「きゃあー、虻よ」
霞子の甘えるような声が届いた。
気にしつつも背後を振り向かないのは、剛史が自分の立場を心得ているからだ。
憧れる霞子の嬌声に嫉妬する自分を、先へ先へと進むことで忘れ去ろうとしていた。
「くそっ」
いつの間にか、大きな虻が剛史に纏わりついてきた。
顔のまわりを掠め、手で払うとその手をめがけて狂ったように旋回した。
執拗ですばやい動きとともに、耳に残る激しい羽音が剛史を怯えさせた。
剛史は腰に巻いていたウインドヤッケを外して、振り回した。
虻はヤッケをかいくぐり、さらに攻撃の意志を固めたように剛史に襲いかかった。
走るように歩を進め、やっと振り切ったと思ったのは水辺の夏草が切れて道が雑木のなかへ登りかけた時だった。
体の回りをぐるっと見回し、腕やシャツに虻が留まっていないか確かめた。
いっぺんに緊張が解け、汗がじわりと噴きだした。
「いやーっ」
遥か後方で霞子の悲鳴がした。
剛史への追撃をあきらめた虻が、今度は霞子を襲ったのだろうか。
一瞬振り返ったが、剛史の足は動かなかった。
(師匠がいるんだから、守ってもらえばいいじゃないか)
知らん顔で先を急いだ。
加仁湯はとうに通り過ぎていた。
宿に近づいたと思われる頃、剛史は木陰に隠れて後続の二人を待った。
雨聴が、上気した霞子を支えるようにして姿を見せた。
「きみ、大変だったんだよ」
言い訳するように薄ら笑いを浮かべた。
「虻ですか? ぼくも襲われましたよ・・・・」
見透かしたように言葉を先取りした。
何かされたのか、霞子は目を伏せたままだった。
ともあれ、雨聴一行は日の高いうちに目的地に到着した。
虻に悩まされたものの、濃密な空気をはらんで八丁の湯に着いた。
宿の主人から、部屋と露天風呂の在り処を案内された。
「絶景だ・・・・」
雨聴はここに宿を定めた自分の判断を、それとなく自慢した。
夕飯まで三時間近くあった。
霞子は、早々に自室に引き上げていった。
雨聴と二人、八畳ほどの部屋に取り残された。
夜はそのまま寝室になる場所だった。
「霞子くん、人が来ないうちに温泉に浸かったらいいよ」
「はい」
小さな声で返事があった。
「さて、僕たちも飯前にひと風呂浴びようか」
師匠に従って階段を降り、露天風呂に向かった。
左手の崖から滝が流れ落ちていた。
その横に手すりを回した露天風呂がある。めざすのはその温泉だった。
大きな岩と緑の対比が興趣を呼んだ。
「素晴らしい眺めですね・・・・」
半ば独りごちるように、剛史が呟いた。
手すり越しに、女性用の露天風呂が見下ろせた。
到着には早い時刻のせいか、どの浴槽にも客はいなかった。
霞子の姿も見かけることはなかった。
浴槽が変化に富んでいて、評判の秘湯気分を満喫できた。
「食事のあとで句会を開くからね。今からよく考えておきなさいよ」
兼題は「青嵐」と決まっていたが、席題はどのように出題するのか何も分かっていなかった。
剛史は、ぬるめの湯の中で霞子の身体を妄想した。
汗ばんだブラウスに包んだ女流俳人の匂いが、湯煙に混じって流れてくる気がした。
「あ、そうだ。手帖を忘れてきた・・・・」
雨聴が肌身離さず持ち歩いているメモ用のノートだ。
それを部屋まで取りに行ってくるという。
「きみは折角だから、ゆっくり入ってなさい」
僕はまた戻ってくると言い置いて、石畳を降りていった。
雨聴はなかなか戻ってこなかった。
当初から抱いていた疑いが、むくむくと頭をもたげた。
(師匠は、部屋に残った霞子のもとへ行ったにちがいない)
所詮か弱い女だ。強引に迫られれば、屈するしかない・・・・。
雨聴の引き立てがあってこそ、中央の俳壇でも有望な新人とか閨秀作家とかもてはやされているのだ。
注目作品の大方には、雨聴の手が加えられている。
剛史を甘く見ているのか、雨聴は秘すべきことも平気で口にしていた。
あるいは、霞子を手中にしている優位さを、剛史に見せつけようとしているのかもしれなかった。
(もう手遅れかもしれない)
焦りが剛史を奮い立たせた。
タオルを腰に巻き、あわてて部屋に戻ろうとした。
露天風呂の縁を回って宿の階段に取り付くと、上で人の気配がした。
階段上部の手すりに寄りかかり、雨聴がカメラを構えていた。
「綺麗だよ・・・・」臆面もなくささやく声がする。
「先生、やめてください」
恥じ入るようなひびきは、女流俳人霞子の本音だったろうか。
レンズの焦点は、内湯に入る霞子のこころに向けられているようだ。
三方は壁に囲まれ、一方だけが外に向かって開放された湯屋の、その空間が戯れの場だった。
嫌がるそぶりを見せながら、雨聴のカメラに肌をさらしている霞子。
ほんとうは、カメラなど無用の道具にすぎない。
師匠の欲望を隠さない視線こそが、女流俳人の密かな願望なのではないかと、剛史の邪推がいっそう激しさを増した。
(霞子さん!)
暴力的な思いが、剛史の中で急に沸きあがった。
無言で足元を見ながら、足音高く階段を登っていった。
雨聴があわてて立ち去った。
登りきったところで、剛史は手すりの下の内風呂を覗き込んだ。
確かめようとする霞子の視線と、微妙に交錯した。
竹林からの微光に浮き上がる女の肩を見た。
ここでもまた霞子の肌の匂いを嗅いだような気がした。
早めの夕食は、大広間に用意されていた。
ひとり地酒を注文した雨聴が、宿の主人と舞茸談義をはじめた。
「いやあ、こんなに歯ごたえのある舞茸は食べたことがありません」
「そうですか、一応天然のものですから・・・・」
「キノコ採りは、一人で行かれるとか」
「この辺りじゃ、親兄弟にも教えませんよ」
夕方になって到着した数名の登山者が、手早く湯泉に浸かって広間に入ってきた。
主人は準備のために厨房に戻って行った。
剛史はイノシシの肉とマイタケの分厚い舌触りに、獣を養う山肌の濃密な味を感じ取っていた。
ワラビやゼンマイも、保存食特有の秘められた逞しさを取り戻していた。
いずれも、これまでに味わったことのない食感だった。
「おいしい」
剛史が唸ると、雨聴が可笑しそうに口元をゆるめた。
「うまいか?」
「はい」
「これを飲むと、もっと美味いぞ」
猪口を剛史に突き出した。
「先生ッ」
霞子がたしなめた。「・・・・タケシさんは、まだ未成年なんですから」
「あ、そうか。それなら君が飲め。たまには破目を外してもいいだろう」
強引に勧められて、霞子は猪口を隠すように口元に持っていった。
このままでは、霞子が酔わされてしまいそうな不安を感じた。
「よし、食事が済んだら部屋の方に運んでもらおう」
雨聴は手伝いの青年に追加の地酒を頼んで、句会の席に引き上げようとした。
「お客さん、お酒も食事も本来この場所以外は駄目なんです」
「あ、そうなの。じゃあ、自分らで運ぶから大目に見てもらえないかな。・・・・実は内輪の祝い事があって、乾杯用に使いたいんだが・・・・」
気の弱そうな青年は、しぶしぶ雨聴の要請に応じた。
雨聴が銚子を持ち、剛史が猪口を三つ重ねて手の中に隠すように部屋まで運んだ。
登山者の拠点にもなっている温泉宿だから、アルコール類は肩身の狭い立場に置かれている。
こそこそと隠れて飲む雰囲気が、剛史を硬い表情にした。
「さあ、それでは始めようか」
兼題は「青嵐」、席題は「半夏生」と決まった。
剛史も青嵐の句はいくつか作っていたが、席題となったハンゲショウは意味さえ判らなかった。
「先生、ハンゲショウって何のことですか」
雨聴は、漢字の書き方から始まって、語源や意味を説き聞かせた。
師匠が語るすべてを理解したわけではないが、ドクダミに似たカタシログサという薬草をさす言葉だと知った。
真っ白な花が咲くのに合わせて、葉っぱの半分が白くなるという。
夏至から十一日目に当たる七十二候の一つといわれるよりも、見たことがあるような懐かしい気分が剛史を少し明るくした。
なんとも意味ありげな命名の由来となった半夏生という植物が、急に親しみをもって迫ってきた。
<半夏生 乙女ら憩う 畦のうら>
雨聴がさっそく一句披露した。
いきなり題を提示される剛史とちがって、師匠は長時間あたためていた気配があった。
剛史は結局一句も作れなかった。
「きみも席題をこなす訓練が必要だよ」
「はい」
雨聴の顔に、わずかながら軽侮の色が浮かんだ。
「霞子くんはできたかな?」
<温泉の ゆらめく面や 半化粧>
「ほう、凄いじゃないか。日に日に上達している感じだね」
雨聴は有頂天になって褒め称えた。
手酌の盃を傾けて、太い喉首を反らした。
その瞬間、剛史はあからさまな敵意を師匠に浴びせた。
信頼し慕ったこともあったが、霞子をめぐる感情の波が、ひそんでいた嫉妬や嫌悪を水面に浮かび上がらせたようだ。
(おれは虻のように付き纏ってやる・・・・)
相手を雨聴一人と定めたわけではない。霞子への思いはさらに断ちがたいものとなっていた。
(青嵐 閨秀と褒め 散らす宵)
師匠の妻に、それとなく自分の句作ノートを読ませる計略を考えた。
霞子に対しては・・・・。頭の中で虻がブンブンと飛び回っていた。
「きみ、酔ったのか」
急に黙りこくった弟子に、雨聴は戸惑いを見せた。
「霞子くん、兼題の方はどうかな?」
何も気づかない雨聴は、霞子が書き終えた短冊に首を伸ばした。
(おわり)
(知恵熱おやじ)様、コメントありがとうございます。
俳句にまで評価をいただき、本当に嬉しくなっちゃいます。
ところで、知恵熱おやじさんも八丁の湯に入られたんですね。
現在は送迎バスが女夫淵の駐車場まで来るようですが、以前は一時間ほど歩いて行くしかなかったのです。
場所こそ違いますが、まだ法師温泉にランプが点っていたころで、秘湯中の秘湯といえるでしょう。
それにしましても、別の宿(加仁湯?)に向かうバスまで立ち往生とは、今でも大変なところなのですね。
体験披露ありがとうございました。
最後っ屁的な一刺しが決まった!
本当に上手いですね。
雪の崖道に僅かに残る車のわだちを辿って上ると、先に行ったよその宿(八丁の湯より手前の宿)の送迎バスが立ち往生していてその全員を私たちのバスに乗り移らせて進みました。
入っている女性らもわざと見えるあたりまで出てきたりして・・・ああいう原始そのままというような自然の中では開放的になるらしいことを知りました。
悪い子だ。はっはは・・。
(くりたえいじ)様、コメントありがとうございます。
田舎育ちのせいか、虻に付き纏われて恐怖を感じたことがありました。
今回は虻の直接的な関与ではなく、嫉妬と執拗さを表す象徴として使ってみました。
改行については、短編の特色として「文章の俳句化」につながればいいなと思うところもあります。
また、文中の俳句がどう受け止められるかも、気になるところです。
虻がこの物語にどのように絡まっているのでしょうか。
弟子の霞子の"切り札"は、どんな内容だったのでしょうか。
「それは読者のご想像に任せます」風の巧みな終わり方。
それはそうとしても、出だしからして異色の短編かなと思わせられました。
毎度のことながら、風景と情景の描き方は抜群の巧さでつい引き込まれます。
虻を小道具に仕立てたのも、表題にしたのも、作者の綿密な計算があってのことでしょう。
創作する悦びを噛みしめるように。
それにしましても、今回の作品に限りませんが、段落を着けたならそこで改行という手法、お見事なものですね。
普通、句読点の読点を付けるまで長々と書いてしまうところでしょうが、スパッと切って改行、というのは至難の業です。
おかげで、窪庭作品は読みやすくなるのです。
毎週のようにご苦労さまです。