(二匹の猿とヒヨドリと)
藤巻が神楽坂で働いていたころ、職場に近い築土八幡神社の境内で、猿を彫りこんだ珍しい石塔に見惚れたことがある。
二匹の猿が戯れているような図柄で、猿田彦神を祭る庚申塚の一つとして知られていた。
普通、庚申塔は「庚申」と文字で刻むか、「見ざる、聞かざる、言わざる」を象る三匹の猿の図を配することが多いが、この神社のものは違っていた。
猿公の一匹が桃の枝に手を伸ばし、もう一匹は桃を押し戴いて相方の膝元に蹲るという図柄で、全国的にも類型のないものと説明されていた。
藤巻は昼食を摂るために、飯田橋駅方面や通称角栄通りを挟んだ神楽坂商店街に向かうことが多い。
そうした時かならず築土八幡神社の前を通り、下から急な石段と石の鳥居を見上げる癖がついていた。
時間が許せば、帰りがけに階段を登って束の間の休息をとる。
この日は、社長から発売直後の週刊誌を買って来るよう言付かっていて、手には『週刊競馬ブック』とテイク・アウトしたブラック・コーヒーを持っていた。
藤巻は、石段を登りきったところで、それまで素通りすることの多かった田村虎蔵の顕彰碑を見やった。
『浦島太郎』や『一寸法師』、『花咲爺』など数多くの唱歌を世に出した作曲家を称えるものだという。
この神社の裏手に生まれた誼で、代表作の『金太郎』の歌詞と音符を彫りこんだ石碑を建立されたらしかった。
顕彰碑は手前側の暗い場所にあり、枝を伸ばした樹木に隠れるように立っていた。
葉っぱの中からピーヨピーヨと鳴き交わすヒヨドリの声がした。
樹は適度の高さと広がりがあったものだから、小鳥が遊びに来るのだろう。
雀を見かけることもあるが、昔と違ってチュンチュンと地面を漁る姿が少なくなっていた。
藤巻は子供のころ馴染んだ雀には愛着を持っているが、ヒヨドリは可愛げがなくあまり好きではなかった。
(うるさい奴は、きらいだよ・・・・)
早々に飛び去ることを願いながら、境内を囲う石柱の柵に腰掛け、おもむろにコーヒーの蓋を取った。
冷めかけたブラック・コーヒーだったが、喉を通る苦味が頭の中のもやもやを鎮めてくれた。
(リタイアした身とはいいながら、こんな見通しのない仕事を手伝っていて好いのだろうか)
時どき脳裏を掠める疑問が、またも舞い戻ってきた。
藤巻の仕事というのは、競馬の情報サイトを立ち上げようとする社長の手足になることだった。
いろいろとサポートして欲しいといわれたが、早い話が使い走りと資料整備の日々に明け暮れていた。
社長は、一時は本屋の店頭に平積みされるほど人気を誇った『競馬データ特報』の創案者で、当時は画期的なアイデアと評価されていた。
中央競馬の開催地全場の前年度成績や、有名種牡馬の数代にわたる血統図を網羅したもので、最盛期には競馬のバイブルとして崇められたほどだった。
事業成功で脚光を浴び、競馬のイベントがあると講演を頼まれたりもする。
筋の通った理論家として、メディアにも引っ張り凧の売れっこ評論家に祭り上げられていた。
時勢を読む能力もなかなかで、予想専門紙を含む情報誌が売り上げを落とし始めると、『競馬データ特報』の権利を譲渡してさっさと転身を図った。
紙媒体の衰退と、ネット時代の到来を、逸早く見抜いて行動する機敏さを見せたのだ。
しかし、その後挑戦した事業はことごとく失敗したらしい。
パソコン教室のチェーン展開、オフィス特急便への参入など、アイデアは悪くないのに事業としての成功はままならなかった。
「ぼくは、躁鬱病でね。躁の時期には何でもできる気がするんだ・・・・」
藤巻を採用したときに発した社長の言葉が、またも思い出された。
冷静に自分を分析しているように見えて、事業を語り出すといつの間にか口角泡を飛ばす勢いになっている。
いままで出会ったことのないタイプの男を前に、藤巻はすっかり面食らっていた。
話に耳を傾けてみるだけの魅力はある。
(躁か欝か・・・・)
躁のまっただ中にいると思われるのだが、あるいは頂点を過ぎ、鬱のトンネルを目前にしていたのだろうか。
顔を合わせていても、傍目には判断がつかなかった。
散らかり放題のマンションの一室で、結局藤巻は雇われた。
みずから躁鬱病を告白する社長の正直さに、しばらく付き合ってみようと決心したからである。
だが半月もしないうちに、資金もスタッフも伴わない綱渡りの計画であることが分かってきた。
馬主に投資を募る電話勧誘が頻繁になって、藤巻の胸中に不安がひろがった。
ヒヨドリは、時たま現れては小鳥に餌をやる藤巻を覚えていて、雀を追い払ったのかもしれなかった。
(小さい鳥といえども、侮ってはいけない・・・・)
ある国の「道教え鳥」は、蜂の巣の在りかを人に教え、収穫した蜜の一部を分け前としてもらうという習性を持っているのだという。
起源さえわからない遠い昔から、鳥と人との共存関係ができていたらしい。
人間が約束を守らなかったときのエピソードも伝えられていて、何食わぬ顔で再び案内した場所が熊のひそむ樹の洞だったという怖い話である。
人間の想像を超える狡猾さまで備えた鳥の説話に、藤巻もそれほど違和感を覚えなかった。
ヒヨドリがライバルを追い払ったと考えたのは、神社の境内で雀に米菓子をやったことがあるからだ。
(その時の姿を、どこかで見られていたのかもしれない)
こじつけに近い思いだが、筋雲が空にかかるように頭の一画を掠めていった。
この日はポケットにピーナッツを忍ばせていた。
バタピーの袋を開け、まず二粒を自分の口に入れ、三粒を顕彰碑の足元に抛った。
ピーピーと仲間を牽制しながら、ヒヨドリが激しく舞い降りた。
浅ましいまでの執着が、藤巻の平穏であるべきひと時を乱した。
そろそろ昼休みも終わりに近かった。
二匹の猿が待つ庚申塔に向かうことなく、その場で踵を返した。
事務所に戻ると、社長は寄稿先の新聞社に電話を掛けていた。
北海道の馬産地をエリアとする業界紙のようであった。
隔週発行の新聞には社長の署名記事が載っていて、その時どきの問題を取り上げては、競馬界やメディア宛てに苦言を呈しているのだ。
社長の提言がどれほど影響力を持っていたかは別にして、新聞発行時に発表される競走馬の格付け表はそれなりの評価を得ていた。
『週刊競馬ブック』はそのための資料で、重賞レースや特別競走の結果をもとに社長が判断し、負担重量を増減する仕組みになっていた。
「藤巻君、ぼくが赤ペンを入れておくから、今日中に直してくれないか」
業界紙の色刷り面に、ランクの入れ替えやハンディの変更を指示する数字が書かれている。それをもとに藤巻がパソコンで修整を図るのだ。
パソコンの作業は藤巻にまかせっきりで、社長の電話はまだ続いている。
「すみませんね。明日の朝にはそちらへ番付表を送信しますから」
社長は、業界紙の女性編集者を相手に愚痴をこぼしていた。
なかなか出資に応じない有力馬主に対して、これまでの付き合いを無視した友だち甲斐のない態度だとなじる口調だった。
相手の女性はハイ、ハイと相手をしている様子だったが、果たして内心はどうだったのか。
JRAの公式サイトが展開されているなか、重複するような情報提供を目論むサイトの立ち上げに、少なからず不安を感じていたに違いない。
得意の弁舌で、一千万円単位の出資金を何口か手にした社長だったが、ずさんな資金計画が災いしてデモ・サイトの立ち上げが遅れていた。
「実現したときのインパクトがどんなものか、零細な牧場経営者にも知ってもらう必要がある。衰退気味の馬産地にも喝を入れる起死回生の策なんだから・・・・」
半月かけて準備していた北海道浦河市での講演会へ、社長は勇んで出かけていった。
前々から知り合いだった印刷業者の一人を引き連れ、羽田から新千歳空港へ飛んだ。
二泊三日の日程で、まだ出資に応じない馬主を説得する旅でもあった。
社長が留守の間、藤巻は築土八幡神社にお参りをした。
今回の講演会で賛同者を得られるかどうかが事業の成否に直結していることを、社長の言動で分かってきたからである。
アルバイト社員としての採用だから、雇用契約もはっきりしないままだった。
就業規則や各種保険も整備されていない。
労災も雇用保険も、この状態では望むべくもなかった。
後から助っ人として入ってきた元競馬予想紙の記者も、身分保障のなさは同様だった。
(ま、賃金さえもらえればいいさ)
ところが、先月は給料日に支払われず三日も遅れた。
交通費や事務用品の立て替え金すら、催促してやっと払ってもらったのだった。
そのような経緯だから、藤巻の祈りは真剣だった。
本殿へのお賽銭を奮発した他、あらためて二匹の猿に願いを向けた。
桃の枝に手を伸ばすのが社長とすれば、足元に蹲って桃の実を押し戴くのが自分に見えた。
卑屈に考えるのではなく、そのように見立てることで、講演の成功を願ったのである。
週明けに顔を合わせた社長は、こころなしか大人しかった。
「まあまあの入りだった・・・・」
相変わらず強気の姿勢を崩さなかったが、まもなく惨憺たる結果が明らかになった。
事前に朝刊の折込広告を打ち、当日配る土産のグッズまで用意したのに、来場者はわずか三人だったらしい。
藤巻がたまたま見たネット配信の記事に、若手の牧場経営者が凋落したかつての名評論家を哀れむ一文を呈していたのである。
このイベントの失敗で、事業成功ののぞみは完全に断たれた。
「デモ・サイトさえ完成すれば・・・・」
なけなしの二百万円を払って情報システムの公開を督励したのは、最期の悪あがきだったろう。
その程度の追加資金で、ネット上に競馬資料サイトを展開できるとは、誰も思っていなかった。
「いや、いま競馬関係者と交渉しているから、必ず成功させるよ」
藤巻や他の助っ人の給料、立て替え金とも、支払われることなく会社は破綻した。
不思議なのは、社長が一向に落ち込んだ気配を見せなかったことだ。
躁状態のまま、鬱を迎えることのない躁鬱病ってあるのだろうか。
藤巻はある時期から賃金不払いを覚悟していたので、心の痛手は少なくて済んだ。
一場の夢を見たと思えば、諦めもつく。
(おれの人生も、静かで長~い躁なのかもしれない)
一人の男の行く末を、粘り強く眺めていられる自分も正常ではない気がした。
築土八幡神社の二匹の猿が手にしていた桃は、いったい何の暗示だったのか。
そのことだけがいつまでも気がかりとして心に残った。
(おわり)
(註)猿田彦神=天孫降臨に際して、ニニギの尊を高天原に導く道案内をしたとされる記紀神話の中の容貌魁偉な神。一説には天孫族(弥生人)と先住の国津神(縄文人)を結びつけた伊勢地方の豪族の長といわれている。
江戸時代になると、猿と申の連想から十干十二支の庚申と結びつき、庚申信仰が盛んになった。夜通し眠らずに勤行(実際は酒盛りなど)することで、都合の悪いことを天に報告されないようにする民間信仰。
願いが叶うと庚申の年に四つ辻や境内に庚申塔を建て、それらが庚申塚として地名などに残っている。
読後感は「暗示的な物語だったなあ」というものでした。
中心は、しがない青年と競馬業界紙のボス、それを取り巻く、というより彼らをあざけるような猿とヒヨドリ、それにスズメをからませる巧みな技法を感じました。
それにしましても、スズメとヒヨドリという野鳥の生態が見事に活写されてましたね。
どちらも地味な鳥で、人間の目に触れることは少ないようですが、著者はちゃんと観察していたのでしょう。
猿はどちらかというと人気者ですが、この素性も見破っていたと思えます。
この一篇も著者にとり一里塚となったようでする。
さて、いきなり飛躍した話ですみませんが、先ほどテレビを観ていましたら、水戸の愛宕中学の先輩梅宮辰夫と二年後輩の立花隆が55年ぶりに再会する番組をやっておりました。
ともに走り高跳びを得意とし、梅宮が立花の家に英語を学ぶために通っていたという交流の様子が紹介されていました。
微妙にすれ違いつつ必死に記憶を蘇らせようとする梅宮と、格好いい梅宮に憧れつつ見ず知らずの人の後をどこまでもつけていく好奇心旺盛な中学時代を持つ立花の対比が大変面白かったです。
医者になるはずの梅宮が街でスカートされ俳優に、一方ジャーナリストにでもなるしかなかったという立花が文芸春秋で大仕事を為したことは周知のとおりです。
この二人のもどかしいような再会ぶりは、記憶の中の関係と現在(いま)の時間が織り成す一種晦渋な人間存在の不思議を示していて、いつまでも忘れられない番組になりそうです。
あまりにも面白かったので、ついこの場を借りて紹介してしまいました。
その番組、見落としましたけれど、同じ中学の先輩後輩という関係も知りませんでした。
好奇心旺盛な立花がカッコいい梅宮の姿を追っていたなんて、当時からご両人の間に伏線があったというのも面白いですね。
ぼくらも中学や高校の頃の顔見知りに数十年ぶりに会って話したいと思うことしばしばですが、俗人にはそうもゆかないのでしょうね。
情報ありがとうございます。