あれはいつのことだったろう
蝶道ということばを知ったのは・・・・
たしかに夏だったのだが
暑さの記憶は残っていない
皮膚が覚えているのはそのことばの痛みだけ
消そうとしても消えない悲しみだけ
雲場池へ行ってみよう
友だちの兄さんが捕虫網を手にとった
半ズボンから長い脚を出して先頭にたち
林の中を駆けだした
そこへ行けば必ずアゲハに出会えると
透きとおった笑顔を見せた
さんざめく避暑客と
池に映る入道雲を避け
秘密の抜け道に迷いこむ
この先にはチョウドウがあって
夢のような蝶が現れるのだと
二つ違いの友だちと僕を振りかえった
町の道ということ?
そうじゃないよ蝶の道・・・・
兄さんは頬をピンクに染めて語りはじめた
種類によって飛ぶルートがちがうんだ
あかるい日射しを好む蝶と暗い葉裏が好きな蝶とで
飛翔の高さと時間帯が異なるのだ、と
蝶道ということばを知ったのは
たしかにその森の中・・・・
真顔で言葉を絞った
友だちの兄さんの口の奥
ピンクの頬の表面には
雲場池からの湿った空気が流れていた
アゲハ蝶が現れるのを待って森の道を見つづけた
這うように現れるかもしれないからと
樹の枝に注意を向けた
ときおり黒い羽ばたきが見えたのは
本物のアゲハだったのか
それとも風の揺らぎだったのか
兄が死んだと友だちから知らせがあったのは
たぶんその年の冬のことだった
病名は書いてなかったが
安らかに息をひきとったと添えてあった
葬儀に立ち合うことはなかったが
夢中で喋りつづけた兄さんのピンクの頬が忘れられない
蝶道ということばの痛みが忘れられない
(『蝶道』 2012/06/27より再掲)
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