(カナカナの声に誘われて)
ささやかな山小屋といったら、一番当たっているだろうか。
猛暑のさなかに、北軽井沢のいつもの住処に行った。
二三日前にテレビ画面をにぎわした旧軽井沢の別荘地とは別世界だが、緑の風とセミの声は分け隔てなく安らぎを与えてくれた。
前回からちょうど三週間がたっている。
連日のように雨が降っていたから、つい足が遠退いていたのだ。
畑の作物は生育が遅れ、嬬恋に接していながら買い求める野菜はほとんどないような状態だった。
だが、ここ一週間の猛暑でトマトや胡瓜、ズッキーニが出回るようになった。
あとはトウモロコシが楽しみで、次に来たときにはいやというほど食べてみようと思っている。
五月の末に蒔いておいた蔓なしエンドウは、一目見たときまだなのかとがっかりしたのだが、地面近くでわんさか莢をつけていたのでほっとした。
昨年までは蔓のあるモロッコエンドウだったので、背も高くどこまでも伸びていく旺盛さがあったのに、今年の品種はどこか歪められている印象を持った。
素人なりにいろいろ試して、少し利口になるのかもしれない。
シーズンを通してここで生活したときには、虫や小動物の生態を観察し、小さな驚きの連続だった。
週の大半を東京で働く今は、週末だけのとんぼ返りで、せいぜいセミの声の変化に気づくのがやっとである。
森中が油蝉の大合唱だったのが、今回夕暮れに聞いたカナカナの声は、どこか少年の日を回想させる物悲しさを帯びていた。
草取りを終え、草津へ行って帰って畳に寝転がっていると、偉くなれなかった人生にもなにがしかの慰めはあるのかと、負け惜しみのような思いが湧いてくる。
そうなのかな? どうなのかな?
カナカナの声が、あの夏休みの日のまっただ中までぼくを連れて行き、暑熱と歓喜の中に置いて、「どうだ、満足なのか、気に入らないのか」と問いただす。
(いやいや、さしたる不満があるわけではありません・・・・)
もとより突き詰める頭がないのだから、楽な姿勢で横になっていれば、自然と眠りに落ちるのであった。
本当の贅沢というのはこういうことを言うのでしょうね。
とにかく暑い下界に留まるしかないボクは、家の中の風の通り道を探して座布団を枕にごろり
で、邯鄲の夢から覚めてナアーンダ。いつもと変らねエーや。
南関東のこの暑さには、それぞれ参っていることと思います。
一時涼を求めてさまよっても、早くも西日を背に帰宅する生活。
三箇所の窓を開け、家の中の風の通り道を探してみました。
フムフム、邯鄲の夢か・・・・。
味わい深い故事を枕の下に敷いて、あとは朧・・・・。
そして、筆者との無言の会話。
いいですねえ。
初めてか、久々に見た別荘の佇まい。
その画像に赤い日よけ傘がちらりと写っていたり。
雰囲気濃厚な、よく出来た写真ですね。
この欄、しばらく見落としていましたが、
発見してホッと胸を撫で下ろしました。
(自然児)様、猛暑も一段落したようで、昨日は東京でオーシンツクツクと鳴くセミの声を聞きました。
目に映る風景、耳に忍び寄る季節の音、そして肌に感じる風の気配、それらがもう秋の到来を予告しているようです。
束の間、残暑がつづくようですが、「その先の秋・・・・」を楽しみにしております。