母が前触れもなく家出した日、一人娘の夏子が札幌の病院で無事に女児を出産した。
五月の連休を利用して妻と共に臨月の夏子を見舞ったあと、私は休みの最後の日に新千歳空港から東京に戻っていた。
しばらく札幌に残って娘の面倒をみることになった妻が、予想外の冷え込みで冬物のセーターを送ってほしいなどと言ってよこしてから、三日目のことだった。
家には八十歳を過ぎた私の母が居る。
軽度の白内障と不整脈はあるが、運動能力は年齢より二十歳は若いと医者が驚いていた。
ただ、このところ物忘れが目立つようになり、妻はそうした母を残して東京を離れることに不安を抱いたのか、前々から家政婦紹介所に相談して、とりあえず二週間ほど来てくれるように手配してあった。
その点、私は実母のことでもあり妙に信じきっているところがあって、今日という日が昨日と同じように流れるものと思い込んでいた。
朝起きて庭の樹木や草花の手入れをし、片隅の小さな池に棲みついているヒキガエルの存在を確認し、その後簡単な調理をして朝食を摂る習慣が十年一日のごとく続くことを疑いもしなかった。
私は定年まであと五年、半端な立場の課長職にあって、明日にでも退職の肩たたきがくることは明らかであった。
最初の打診はすでに昨年経験しており、今年はさらに強めの勧奨が予想できたが、私は今度もそれをいなすつもりでいた。
母が家を出たまま戻らないとの電話が家政婦から職場にあって、私は内心あわてていた。
家政婦には、あわてないでそのまま家で待機するように指示し、すぐに最寄の駅に連絡した。
それらしい老婆が居たら保護してくれるように依頼し、続いて主な途中駅と終点の駅にも手配を広げてくれるように頼み込んだ。
外見や物腰、そぶり、言葉遣いなど、母を客観的に点検したのはかつてないことであった。
札幌の病院に電話すると、うまい具合に妻が居た。娘夫婦のマンションとどちらかだが、たぶんこちらに居るだろうと思った勘が当たったわけだ。
「あなた、生まれたのよ。女の子よ」
先手を打たれた。
私は母の失踪を伝えるつもりでいたので、言葉を詰まらせた。「・・・・おお、そうか。よかったな」
相槌をうったが、敏感に感じ取った妻が不安げな声で探りを入れてきた。
「お母さまが、どうかなすったの?」
「いや、別に大した事じゃないんだが、さっき家政婦から姿が見えなくなったといってきたので、一応伝えておこうと思って・・・・」
受話器の向こうで、ああっと呻く声がした。
私にとっては、母のことよりも妻の反応の方がよほどショックだった。
「あなた、それって大変なことなのよ。・・・・もしかしたら、私への当てつけかもしれないわ」
私の知らないところで、何かが進行していたようだ。
母はもう老人性痴呆症と診断されても不思議のない状況になっていたらしく、知らないのは息子ばかり、妻は私に遠慮して起こったことの半分も伝えていないことがわかった。
それによると、妻への当てつけというのは家政婦をめぐる意見の相違が原因になっていた。
母は、妻が夏子のもとへ行くのを賛成しながら、家に他人を入れることには相当の抵抗を示したのだという。
「わたしは、よその者に面倒を見てもらわなくても何でもできるんだから、ほっといてちょうだい」
繰り返し言い張ったという。
「でもお母さま、私がしばらく居ないのですから、洗濯や掃除や時には買い物だって家政婦さんにやらせた方が楽でしょう?」
東京を離れることの負い目をなんとしても減らしておきたい気持ちが、妻をめずらしく強引にしたらしい。
手伝いが必要か必要でないかより、母には自分の望まないものを押し付けられた不快さだけが残ったのである。
「わたし、東京へ帰りましょうか」
「いいから、夏子をみててくれ。こっちはぼくがやるから心配しないでいいよ」
たいして自信があるわけでもないが、妻の動揺を抑えてやりたかった。
部長に事情を話して、三時にお茶の水の会社を出た。
東京は真夏のような暑さで、上衣を脱いだサラリーマンやオフィス・レディーが鼻の頭に汗を浮かべている。
その横で、厚手のコットンシャツやブルゾン姿の学生たちが、平然と信号待ちをしていた。
JRの御茶ノ水橋口に近づいたとき、混雑する駅頭の人ごみの中に、私は何か気になるものを見た。
駅に並行して車道があり、宅配の小型トラックが信号を通過していくその直前に、体をくの字に折る灰色の虫の動きのようなものを視たのだった。
あっと息を呑み、私はたちまち理解した。
「お母さん!」
信号が青に変わり、いっせいに横断歩道を渡り始めた人々をかき分けて、まだ通行中の紳士に話しかけている母に近づいた。
「お母さん、勝手に動き回っちゃダメじゃないか」
薄い肩に掌を置くと、振り返ってうれしそうに笑みを作りながら、「おや、おまえ、よく分かったね」と、この幸運に少しも驚いていない。
引き止められていた紳士は、「いやァ、待ち合わせだったんですか」と、ほっとした表情を見せて離れていった。
「どうもご親切にありがとうございました」
底抜けに明るい声で、母が紳士の後ろ姿に言葉を投げた。
改札口を通り抜けるところだったが、母には見えたのか見えなかったのか。またも体をくの字に折って、丁寧にお辞儀をした。
母の手からビニール製の手提げ袋を取り上げて、近くの喫茶店に連れて行った。
暑さで喉が渇いているに違いなかったし、事情も訊かなければならなかった。
母にはオレンジ・ジュース、自分にはコーラを注文すると、母は満足そうにうなずきながら、「おまえ、よくそんな薬臭いものを飲むもんだなあ」
何回も聞かされた終戦直後の話を蒸し返して笑い声を立てた。
周囲の誰よりも早くコカ・コーラを口にしたが、薬品と紛う味とにおいに出合ってあわてて吐き出したのだという。
それが母の自慢であり、それ以来コーラを口にしないのが母の性格であった。
気がつくと、母の手提げ袋が私の足下で口を開けていた。
底の方に三足の靴が折り重なっている。
ピンクとシルバーとグリーンのハイヒールで、三十数年を経てどことなく古びて見える。
何の材質か、ひび割れた箇所も見られ、来歴を知らなければ安キャバレーの更衣室を連想するところである。
「この靴、どうして持ってきたの?」
「ああ、おまえに預かってもらおうと思ってね」
「だって、これは靴ですよ・・・・」
「そうさ」
「お母さんは、家出をするってあばれて家政婦さんを無理やり帰したそうですけど、どうしてそんなことをするんですか」
フンと鼻先を歪める意地の悪い笑いが、そのまま声に乗り移った。
「おまえの嫁はな、わたしが社交ダンスで何度も賞を取ったのがうらやましくて、家政婦を雇って靴を盗ませようとしているんだ」
私の顔色を読みとろうとしているようだ。
「・・・・だけど、そうはいくもんかね。お前は偉いんだから、会社の金庫に入れておくことができるだろう? 頼んだよ」
私は言葉もなく母を見守った。
靴と同じように艶を失った白い髪が、目の前で揺れている。額にも頬にも首筋にも、ひび割れが広がっている。
壮んにしゃべりたてる口の中が、ときおり舌の紅さに華やぐ。喝采を浴びた靴の記憶のように、乾いていくものの中でその色はもがいていた。
(おわり)
タイトルを見てすぐ気がつきました。
今回再読してみて、私の中ではもっと長い作品だったように記憶しているのですが、前と同じなんですよね。
記憶というのも時間が経過するとあやふやなものです。
あるいは頭の中で勝手に膨らませていたのかなあー?
(超短編シリーズ)第三集をまとめるときのために編入したのですが、この分量だと平均の半分ぐらいでしょうか。
前回の『真夜中の寝台車』はかなり長めでしたから、これでバランスがとれた気もします。
こちらの都合でいろいろご迷惑をおかけします。
私の経験では、以前読んだときはもっと長い(あるいはもっと複雑な)作品だったように思えるのは、内容的にそれだけ出来のよいものだったようです。
多分書かれた言葉が言外にさらに多くのイメージを喚起する力を持っていたということなのだろうと思うのですが・・・如何でしょうか。
たしかにこれは短いですが心に響く作品化と。
原稿用紙に一字一字埋めていたときと、現在のようにPCで書き流すのとでは、言葉の喚起力に違いが出てくるのではないでしょうか。
いろいろ気づかせていただき、ありがとうございました。
登場人物の人生などが凝縮されて説かれておりますが、それらの実際はこれ以上ないほどでしょう。
そこのところは、読者の想像にユダネルあたり、いつものことながらお見事な手腕と言えましょうか。
そして、色を失ったように三足の靴が物語を象徴しているわけで、そこに人生の哀歓が込められているように感じます。
短くても良いから、こんな小説を書けたらなあと思うのですが、想像力に欠如している者にとっては無理でしょうか。
なほ、本編は再録のようですが、原作はこのブログで発表なさったのでしょうか?
この作品は、2008年1月に当ブログに投稿しています。
『行旅死亡人』ともども、当初の発表舞台で枚数制限を考慮しあれこれいじった記憶があります。
わずかな原稿料でも、それを戴くとなると真剣味が違ってくるものですね。
何度も商業出版しているくりたさんですから、その辺のことはよくご存じでしょうが・・・・。
なお、当ブログでは4000~5000字を目安としていますが、時にそれを超してしまうことがあります。
まあ、ユルイなりの面白さはありますがね。