ミナコさんとの、もどかしい通信状況に耐えかねて、おれは電話を引くことを決意した。
ミナコさんに電話番号をどう知らせるのか。名案が浮かばないまま、おれは日本電信電話公社に出向いて申し込みの手続きをした。
半月もすれば、おれの部屋には電話が引かれているはずだった。
ピカピカの黒電話を、どこに置こうかと胸が高鳴った。本箱の上がいいか、それとも坐り机の端か。
電話がついたら、まず誰にかけようか。想像ばかりが先走って、肝腎のミナコさんに伝える手段は、なかなか湧いてこなかった。
大家には、家賃支払いの際に了解を取っておいた。
逮捕されたパチプロのその後を、格好の話題として待ち構えていた夫人は、騒動で蒙った被害を織り込みながら、堰を切ったようにしゃべった。
「いまどきの若い娘は、親に相談もなく、すぐに男とくっついてねえ。・・あげくにヒロポンを打たれて、親より先に死んでいくんだから。ほんとに親不孝なことだよ」
憤慨は、まだ収まっていないようであった。
「ほんとですね。・・それで、電話の件はよろしいでしょうか」
おれが念を押すと、二つ返事で笑顔を見せ、また話題を元に戻そうとするのだった。
残暑厳しい中、電話工事の人がやってきた。
二人で組んだ作業服姿の男たちは、汗を拭くまもなく仕事に取り掛かり、ひとりは外へ、ひとりは室内でと、それぞれの持ち場を手際よくこなしていった。
窓の斜向かいに立っている電柱の上で、引込み線を接続していた男が、レシーバーをつけて室内の男に話しかけてくる。
「もしもし、もしもし・・」
「はい、感度良好です」
こどもの糸電話のような通信を、二度三度繰り返して、工事完了となった。
申し込み時に選択しておいた電話番号が確定し、工事確認の判を押した。いよいよ、おれの電話機が、この世に誕生したわけである。
電話帳への掲載は辞退した。将来、多目的に使うアイデアを持っていたからだ。 せっかくの電話なのだから、企業と契約して、アンケート調査のようなことが出来ないか。頭をひねれば、まだまだ利用範囲が広がりそうな気がした。
ミナコさん宛ての手紙が制限されている以上、いくら考えてもこちらからの連絡は出来ないことを悟った。内容の如何に係わらず、姉夫婦の方書きでミナコさんに手紙が届くこと事態、あってはならないことだったのだ。
裁判所や弁護士名を騙って通信を試みる方法はあるが、万が一バレたときには、ミナコさんに与えるダメージが大きすぎる。了解も得ずに勝手なことをしたら、取り返しの付かない困難に陥ることが、目に見えていた。
銀杏の葉が色付き始めたころ、三週間ほど途絶えていたミナコさんからの手紙が届いて、山形の母親が亡くなったことを知らされた。
姉夫婦とともに実家を訪れ、葬儀その他を済ませてきたので、連絡が遅くなったとの報告と、近々東京へ出る用事があるので、日曜日の午前十一時に、上野駅公園口の改札前で待ち合わせしたいとのメッセージが書かれてあった。
その日、おれは三十分も前に到着して、改札口の外から構内通路を眺めていた。横浜から来るのなら、きっと京浜東北線を利用するに違いないと思い、階段の上り口付近に目を凝らしていた。
数分おきに到着する電車の乗客が、先を争って階段を登ってくる。山手線と京浜東北線が交互に人を吐き出していくから、さまざまな年代の人びとが切れ目なく、おれの目の前を通り過ぎていった。
十時五十分になっても、ミナコさんらしき人影は現れなかった。約束の時刻までに、あと十分しか残っていないと思いながら、ミナコさんの面影に、忽然と姿を消してしまう存在の危うさを重ねて、こころの底で怯えていた。
ほんとうに現れるのだろうか。ほんの少しミナコさんに似た人影を見つけただけで、おれは食い入るように見つめていた。
どこかで、いまと同じような光景に立ち会ったことがある。
おれは、自動車内装会社を辞めたあと、初めてミナコさんを待った大塚駅での出来事を、甘ったるい感情とともに思い出していた。
あの時も、いまと同じだった。誰にも経験があるはずの既視感などではなく、現実に起こったことの記憶であった。
不安の積み重ねのあとの歓びだったから、いまでも甘酸っぱい味覚に似せて覚えているのかもしれなかった。
「あなた、補導員のかた?」
いきなり、背後から肩を叩かれた。
驚いて振り返ると、藤色のワンピース姿のミナコさんが、おれの真横で微笑んでいた。
「うわァ、やめてよ。心臓が止まりそうだよ」
おれは、胸を押さえて息を整えた。動悸が治まるとともに、喜びの感情が湧き上がってきた。
「ごめん、そんなに驚くと思わなかった・・」
ミナコさんが、おれの腕を取って、下から覗き込むようにした。「ずいぶん心配を掛けたけど、もう、怖いものなんかないわよ」
めそめそと涙ぐむ再会を予想していたおれは、ミナコさんの吹っ切れた対応に、内心ほっとしていた。
「いやはや、びっくりしました。ミナコさんには、いつも意表を衝かれるよ」
おれは、お悔やみや労わりの言葉を、すべて吹っ飛ばして、笑い声を立てた。昨日まで胸をふさいでいた苛立ちが、いまは霧のように消え去っていた。
「ミナコさん、いま、どんなふうに現れたの」
「あそこよ」
車道の先の瀟洒な建物を指差している。
「えっ、あの音楽ホール?」
「そうよ。東京文化会館で、弁護士に会ってきたの。もう、用事も済んだから、会館内のレストランでお茶でも飲んでいきましょうか」
ミナコさんは、おれを引っ張るようにして、公園口前の横断歩道を渡った。
昼食には少し早い時間帯だったせいか、なんとか席を確保することができた。これがリサイタルの休憩時間や、コンサート開催の昼時ででもあったら、行列が出来るところよと、ミナコさんが訳知り顔に自慢した。
おれは、明るくふるまうミナコさんにリードされながら、忘れかけていた安堵感を思い出していた。ミナコさんと知り合った当初から、おれはミナコさんに甘え、可愛がられて過ごしてきた。
ミナコさんが、それを望んだから、それに従ったと言えなくもないが、実はおれ自身の性格に、依存心の強い性向が隠されているのではないか。
退嬰的な考え方が後退して、いつの間にか、営業までこなすほどに進化してきたが、おれが心から満足できるのは、昔のようにミナコさんの思うがままに身を委ねて、安楽に漂って生きることだったのかもしれない。
「その弁護士って、クラッシック音楽が好きなの?」
「いえ、この建物の中に小会議室があって、そこで月に一回、半分ボランティア活動みたいに、依頼人と打ち合わせをするんだって。・・きょうも時間をずらして、何人か呼んでるらしいわ」
へえ。おれは、感心して声を発した。立派な事務所を構えて、高額の弁護料をふんだくる先生ばかりではないことを、ミナコさんに教えられた。
「裁判も大変だったでしょうけど、お母さんを亡くされたのが、一番つらかったのでは・・」
「そうね、母が危篤と聞いたときには、頭が真っ白になったわ」
「まだ、現実感が湧いてこないんだよね」
「うーん、でも、却って気持ちがシャンとしたわ。実家に帰ってみて、父や、兄のよそよそしい態度に出会って、これが現実だと気が付いたの。母が健在なうちは、知らず知らずに頼ってしまってたから」
ミナコさんは、いまは強くなったと、笑顔を鼻の周辺にまで広げた。
「うわっ、このハヤシライスおいしそう」
運ばれてきた軽食と飲み物を引き寄せながら、ミナコさんは目を輝かせた。
「ほんとだ。ぼくもお腹が空いてきたよ」
ミナコさんと同じものを注文してよかったと、おれは焦げ茶色のルーが掛かった人気メニューを、上から覗き込んだ。
「これからも、ふたりで同じものを食べていこうよ」
おれは、ミナコさんの顔に視線を移した。
「・・・・」
ミナコさんの手が伸びてきて、おれの左手に重ねられた。何ヶ月ぶりの肉の感触が、会話以上に雄弁であることを、再び実感していた。
(続く)
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