三が日が明けた仕事始めの日、出勤しようとしていた雅夫は賃貸マンションを経営する大家と珍しく顔を合わせた。
「おはようございます」
背後から声をかけられて振り向くと、膝上まである防寒コートを羽織り、そのくせ帽子もかぶらずにニコニコと立っていた。
一度か二度すれ違ったことがあるが、その時は目を合わせることもなく、雅夫は内心愛想のないオヤジだなとこちらも無視する気持ちになっていた。
だが、年が変わって心境が変化したように挨拶されてみると、もともと悪意を持っていた訳ではないから悪い気はしなかった。
「おや、おでかけですか?」
「うーん、・・・・二、三日留守にしますんでよろしく」
返事とは裏腹に、どこか遠くを視るような目付きでぼそりと答えた。
ふだん入居者のことなど無関心かと思っていたのに、どうした風の吹き回しか。
家の中で雑煮など食いすぎて、そろそろどこかへ出かけたくなったのか。
雅夫は訝しみながらも、さらに言葉をさがした。
「温泉にでも行かれるのですか」
雅夫のやんわりした追及に、大家はしばらく返答をためらっていた。
「いや、ちょっと鉄道を乗り継いで・・・・」
大家の困ったような表情から、遠くの親戚か義理ある人の葬儀にでも行くことになったのかと、雅夫は深入りしたことを後悔していた。
「あっ、遠くまで・・・・。それじゃ、いってらっしゃい」
ふたことみこと交わしただけであったが、余計なことを訊くんじゃなかったとの思いがあった。
大家はポケットに手を入れたまま、背中を丸めて歩道に出た。
雅夫はひと呼吸入れて、大家を見送った。
いつもならエントランスの空気を押し出すような勢いで出勤するのに、正月早々とんだ道草を食ったものだと憮然たる思いだった。
同じ駅へ向かう様子の大家の後ろ姿を一瞥し、雅夫は反対側の歩道に渡り先を急いだ。
駅に着くまでの間、大家の口にした言葉が気にかかっていた。
(鉄道を乗り継ぐって、なんだろう?)
雅夫の勤務先は日本橋の横山町にあったが、私鉄から地下鉄に乗り換える彼の通勤経路などとは明らかに意味が違う気がした。
きっと、新幹線など使えない辺鄙な町へ行くのだろう。
葬儀でないとすれば、正月だけに催される地方の行事でも見に行くのかもしれない。
さまざまに想像しているうちに、いつしか電車を乗り換え、雅夫は会社へ向かう商店街を歩いていた。
彼の仕事は、安売り紳士服店の売り子である。
寸法を計るメジャーを首にかけ、笑顔と目配りを絶やさずに来店する客に声をかけていた。
「いらっしゃいませ」
洋服の○○とかいう全国展開のチェーン店がどこにでもあるが、わざわざ横山町まで足を運んでくれる客がいることも確かなのだ。
折り込みのチラシで気を引き、やってきた客は雅夫たちの接客術で勝負する。
狭い街区に衣料品の問屋が密集し、婦人服から子供服、それに付随の小物まで調達できる街に今貴方はいるのだと意識させる。
本来は商売人しか相手にしない場所で、卸値で買えるという特別さをアピールするのが大切なのだ。
新春限定のお年玉価格を強調し、ビラビラ吊り下げたディスプレーの下で、雅夫はくたくたになるまで働いた。
勝負は松の内とハッパをかけられたが、初日から張り切りすぎたようだ。
スカイツリー見物に集まってきた客がこの辺まで流れてきたのを知って、客同様に気分が高揚したのかもしれない。
ことのついでに合羽橋のことまで話の相手をして、あれこれ説明したのが疲れのもとだった。
会社からの帰り道、雅夫はスーパーマーケットでビールと惣菜を買い、そそくさとマンションに戻った。
自転車置き場を整理していた大家のおカミさんが、丸い顔をほころばせて「おかえりなさい」と振り向いた。「大変ですね・・・・」
マンション管理の細々したところは、ほとんどこのカミさんが受け持っているようだ。
旦那はふだん姿を見せず、たまに見かけるときは心ここにあらずといった様子で敷地を横切っていくのだった。
「そういえば、今朝早く旦那さんお出かけでしたね」
「あら、見られちゃった?」
おカミさんが、照れたように言った。
「いや、旦那さんの方から声をかけてくれたんですよ。なんだか、二、三日留守をするからって・・・・」
よろしく、とまで言われたが、真意がわからないのでそのことは口にしなかった。
「おやおや・・・・」
おカミさんは、蛍光灯の明かりを受けて表情を柔和にした。
それまで隠していたものを他人に知られ、はからずも肩の荷が下りたといった表情だった。
「なんだか、鉄道を乗り継いで行くと言ってましたが・・・・」
「そうなのよ、乗り鉄っていうのかしらね。ときどき思いついたように出かけていくの。今に始まったことじゃないから、好きにさせるしかないわ」
意外な話だった。旦那の風貌からはとうてい想像ができなかった。
「いやあ、うらやましい身分ですね」
お世辞を言ったものの、出がけに言葉を交わした大家の様子を思い浮かべ、大丈夫かなと不安がよぎった。
「そうよね、うらやましいわ。何も考えないで幾日も家を空けられるんだもの」
「できることなら、僕もやってみたいですよ」
おカミさんは、フーッと息を吐いた。「・・・・この前の大地震のときも、しばらく連絡がつかなかったのよ」
「えっ、3・11のときですか」
「前の日に九州へ向かうと言っていたから、それほど心配はしなかったけど、電話が通じたのは丸一日過ぎてからだった・・・・」
「へえ、東北とは反対側なのに?」
雅夫にはよくわからないが、実際にそうした事態が起こっていたのだという。
「だいたい視力が落ちて足下も覚束ないのに、勝手に出かけてしまうんだから。どこで事故起こしても、わたしの知ったことじゃないと言ってるのよ」
突き放したような口調だったが、長年旦那の趣味を容認してきた優しさと諦めの気分が滲み出ていた。
「そうですか、たしかに今朝お会いしたとき遠くを見るような目付きをしていました・・・・」
(あれは目が悪いせいでしたか?)
確かめる代わりに、背中を丸めて駅へ向かった旦那の胸中に思いを馳せた。
「・・・・どこか人生を達観しているところがあるんじゃないですか」
「そうかしら、ただ子供に還っているだけじゃないの」
歳をとると、みんなそうらしいと、雅夫がフォローした。
「よたれそつね、ね」
「えっ?」
おカミさんの口元に浮かぶ微笑みの正体はなんだったのか。
雅夫は妙な気分にとらわれていた。
ふだん言葉も交わしたことのないマンションの住人に、「よろしく」と言って出かけていったのは、意図せざる何かの働きがあったのか。
鉄道を乗り継いでいくという言葉には、ひたすら鉄路の彼方をめざす一方向の意思が感じられた。
「よたれそつね・・・・か」
とっさに、よたよた、へたれ、野垂れといったイメージが雅夫の頭を過ぎり、卒寝と追撃ちをかける言葉が目の前に浮かんだ。
おカミさんは、どのような心境で「よたれそつね」といったのだろうか。
雅夫が幼いころ、母親が何かの時に「いろは歌」を口ずさんだことがある。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
・・・・・・・・・・・・
よりによって、言葉の流れを断ち切り、後の部分につなげたのは何の企みだろうか。
我が「世たれぞ常」ならむ。
不吉というよりは、大空の下の川の流れのように明らかな寂寥感が雅夫の胸を吹き抜けた。
「やっぱり夜になると風が冷たいですねえ」
「ほんと、うっかり引き止めちゃってごめんなさい」
「いやいや、こちらこそ」
互いに会釈して自転車置き場を離れた。
(旦那さんは、どこを目指して行ったのだろうか)
雪に埋もれた北陸とか、地吹雪荒れ狂う東北とか・・・・。
いや、むしろ四国、九州あたりが似合っている。
(よたれそつね) に見合う鉄道の旅は、たらたらと乗り換え、駅弁を貪り、とろとろと居眠りをする本性の旅に違いない。
金に不自由のない旦那の糸を風に委ね、切れたら切れたでしょうがないと、拘泥せず執着せずに遊ばせる。
やさしい丸顔のおカミさんの、人間の本性を見届けた「変わり・いろは歌」に出逢い、雅夫の胸中はふしぎな安堵感に満たされていった。
(おわり)
(2013/01/07より再掲)
鉄道を乗り継いでいくという・・・
旅情を掻き立てられますね。
行き先を言っていないところに、足のむくまま、気のむくままというか、当てのない旅を
感じますが、それも面白そうです。
自由人ですね。。。(笑)
先週も帰省のついでに、ようやく全線開通した九州横断特急に乗って、熊本と別府を往復しました。
(熊本震災で長い間寸断されていました。)
鉄道を乗り継いでの行き当たりばったりの旅が私
の理想なのですが、行く先を告げない旅行なんて妻が許してくれません...( ;∀;)
主人公が羨ましい!
この主人公は本当の自由人なのでしょうね。
自分の運命も旅任せと達観している節があり、足の向くまま気の向くままを楽しんでいるようです。
更家さんは「乗り鉄」でもあったんですか。
別府からの九州横断特急で熊本へ。
ぼくは九州では「にちりん」という特急に乗ったことしかありませんので、乗り鉄の気持ちは想像するだけです。
お金に不自由しなかったら、何もかもほったらかしにして旅に出たいですね。