
原作『朗読者』の中で描かれたもの
<ハンナの肉体から多くのことを嗅ぎとった少年>
映画『愛を読むひと』は、主役のハンナ・シュミッツに大作<タイタニック>で好演したケイト・ウィンスレットを起用している。
本来の美貌と美しい肉体は、この作品では極力押さえ込もうとしている。市電(路面電車)の車掌の役に、出来るだけ近づけようとする意思があったからか。
猩紅熱で吐く少年との最初の出会いは、働く女性の姿が前面に出ていて、一瞬彼女の疲労感までこちらにのしかかってくる。
介抱を受けた御礼のためにハンナのもとを訪れ、暖房用の石炭運びを手伝って汚れた体をシャワーで流す滑り出しは原作も同じだ。
シャワーの快感で性器を固くした少年は、バスタオルを広げて近づくハンナに背中を向けて息をひそめる。
「おいで!」
ハンナは少年の頭から足までバスタオルですっぽりくるむと、全身をこすって拭いた。
彼女も裸だった。後ろから彼女の胸を背中に、腹を尻に感じた。
ハンナは少年の体に腕を回し、一方の手を胸に、もう一方を固くなった部分に置いた。
「このために来たんでしょ!」
「ぼくは・・・・」
何と言えばいいのか判らない。肯定でもなく、否定でもなかった。
少年は彼女の体がそこあるという事実に圧倒されてしまう。
「なんてきれいなんだ!」
くっつきすぎて見えないのに少年が言う。
「あら、坊や、何いってるの」
ハンナは笑って、少年の首に腕をまわす。
少年も彼女を抱く。気に入られるかといった不安をいだきながら。
彼女の体の匂いを嗅ぎ、彼女の温もりと力を感じると、何もかも当たり前になってしまう。
小説を読みながら想像していたのと違うのは、実際にケイト・ウィンスレットの裸体を見ることになるからだ。
車掌の制服の中にあった中年女の疲れてはいるが逞しい肉体に比べ、映画のハンナはやはり魅力的過ぎるのだ。
だからといて異を唱えるのではない。
映画には映画の流儀がある。ヒロインに視覚的魅力がなければ、誰も観に行かないだろう。
復活祭の翌日から四日間のサイクリングによるピクニックに出かけたとき、慣れきった関係の中に喧嘩をする場面が現れる。
小説では、ハンナが眠っている間に、バラを一本買ってあげたいと思った少年が少しの時間外出する。ちゃんとメモを残して。しかし、部屋に戻ると怒りで顔面蒼白になったハンナが突っ立っている。
「なんで黙って行っちゃうのよ!」
ハンナを抱きしめようとする少年に対し、「触らないで」と拒絶する。
そして、ドレス用の革ベルトを手に持って、一歩退いた少年の顔にムチのように振り下ろすのだ。
文字が読めないハンナのパニックぶりと、ナチ収容所の看守だった過去を思い起こさせる場面だが、映画の中でどのように扱われたのか正直あまり印象に残っていない。
<唇が裂け、血の味がした。痛くはなかったが、それよりぼくはぎょっとした。・・・・彼女はベルトを落として泣きはじめた>
文学ならではの深みではないか。
もうひとつ、匂いについて。
前回、ハンナの体臭について思わせぶりな書き方をしたが、恩赦で刑期が終わるのを待つ彼女を刑務所に訪ねる場面は複雑な印象を残す。
<近づいていくと彼女はぼくの顔を撫でるように見つめた。・・・・>
「大きくなったわね、坊や」
ぼくは彼女の隣に座り、彼女はぼくの手を取った。
以前は彼女の体臭がとりわけ好きだったものだ。彼女はいつも新鮮な匂いがした。
<新鮮な匂いの下に、もっと重くて暗い、苦い香りが隠れていた。ぼくはしばしば、好奇心の強い動物みたいに、彼女の匂いを嗅ぎまわったものだった。>
首と肩、両胸のあいだ、腋の下、腰や腹、両足のあいだ・・・・。それぞれの部位で異なり、別の匂いと混ざり合ったりする。
膝裏では、新鮮な汗の匂い、両足では石鹸や革や疲労の匂いがする。
両掌は一日の、仕事の匂いだった。乗車券の黒インクや、金属の鋏の匂いなど。
刑務所を訪れたミヒャエル・ベルクは、そうした過去の匂いの記憶を甦らせるのだが、<ぼくはハンナの横に座り、老人の匂いを嗅いだ。・・・・>
ある種、残酷なまでの描写がつづく。
どうしてそんな匂いになるのかわからないが、それは祖母や老いた伯母たちの匂いであり、老人ホームの部屋や玄関ホールに呪いのように漂っている匂いだった。
<そんな匂いがするにはハンナはまだ若すぎるはずだった。>
おそらく、この場面では憐憫の情を感じているのだろう。
かつて少年がハンナの体に夢中になり、成長してゲルトルートと結婚しても、ハンナの匂いや仕種を探してしまう習性は、この年頃の少年、とりわけこうした経験を持つ少年の特徴といってもよいのではないか。
映画では迫れない、文章が持つ魔力(?)であろうか。
自分の娘ユリアをもうけながら、娘が5歳になったとき離婚しなければならなかった遠因はここにある。
愛なのか、恋なのか、それとも・・・・。映画のタイトルからは見えてこない一面が、物語の背後にひそんでいる。
また映画の中で、娘ユリアと連れ立ってハンナの墓地を訪れる場面は、原作にはない付け足しの部分である。
自分とハンナの間にあったことを、娘に告白するにはこうした工夫が必要だったのだろう。
長い間、自分が父親に嫌われているのではないかと悩んでいたユリアは、このラストのシーンで救われる。
後味がよいのは、映画の特権でもある。
はしょった部分が多いが、原作のすばらしさとともに、映画ならではの感銘を受けたことで、二度の稿となった。
なにが同じで、なにが違うのか。
映画も好きだが、やはり活字人間である自分を発見して思わず苦笑した。
(完)
ハハァ、前回の「ティータイム」では余韻を残して終えたと思ったら、今回は原作との対比で思考を深めているんですね。
お見事なテクニック!
それにしましても、この映画も原作も人間の心理を深く掘り下げているように思えます。
無垢な少年の心と行いが手に取るように分かるようです。
しかしやはり、筆者は文字で読んだほうがイメージの広がりを覚えるようで、それにはまったく同感です。文学ならでは深みと手ざわりを感じられるからかも。
なお、この原作と映画はアメリカ製でしたっけ? ヨーロッパ風にも思えますが……。失礼。
原作はドイツ人作家ベルンハルト・シュリンク。
新潮文庫の訳者(松永美穂)あとがきには、「ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』以来、ドイツ文学では最大の世界的成功を収めた作品」と紹介されております。
また映画『愛を読むひと』は、アメリカ・ドイツ合作映画となっており、ハンナ役のケイト・ウィンスレットは第81回アカデミー賞の主演女優賞を取っています。
ちなみにこの時の作品賞は、『スラムドッグ&ミリオネア』
ノミネートされた作品の一つは、先に取り上げた『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』でした。
小説「朗読者」映画「愛を読むひと」どちらも私の中ではこれ以上なしの正統派作品と受け止めました。
時代と人のこころの精妙な縒り合わせがえもいわれぬ作品世界を現出させていて、そうなるともう言葉が出なくなって「ナンも言えない」状態に陥ってしまうのが我ながら情けない。
これまた完璧で「そうか、そうか。そうだよな、うーん」と感服するばかり。
でも、脱帽というこの気持ちだけでも何とかお伝えしておかなくてはと思い直して、今頃になって一筆させていただきました。
ありがとうございます!
知恵熱おやじ
ともに情感や肌触りを前面に出しながら、内部には揺るぎないプロットが隠されている。
すぐれた文学・映像作品に見られる正攻法の描き方が、私たちに満足を与えてくれるのだと思いました。
そしてあえて言葉を重ねるならば、原作をもとにした映画を作る側は、映像を武器にどのように表現したら原作を超えられるかと、たえず挑み続けているのだと考えます。
ダイジェストやパロディなどは論外ですが、文学と映像作品の緊張感に満ちた関係は、これからjも私たちを楽しませてくれるのではないでしょうか。
身に余るコメント寄せていただき、大変嬉しく励みになりました。ありがとうございます。