映画『愛を読むひと』の洗練された映像構築
<原作『朗読者』に顕著なハンナの体臭は・・・・>
先々週の日曜日、遅ればせながら近くの映画館で上映されるとの情報を得て、観にいった。
重いテーマを背負った映画だったが、実に分かりやすく整理され映像的に切れ味のよい作品に仕上がっていた。
原作『朗読者』に託していた読者の想像力が、いったん機能を停止し、あらためて演技者(年上の女ハンナ=ケイト・ウィンスレット)(15歳の少年=デヴィッド・クロス)に感情移入していく過程は、原作ものの映画を観る際の最大の悦びと言っていいのではないだろうか。
正直、映画の中のハンナ役ケイト・ウィンスレットは、市電(路面電車)の車掌にふさわしいメイクを施したのか、あまり美しく撮ることをしなかったようだ。
主人公で<朗読者>である少年マイケル役デヴィッド・クロスも、どことなく暗い家庭の影を負ったような表情をみせて、決して美少年とはいいがたい役柄を演じていた。
映画は配役を決めるところからスタートする。
少なくとも、この年上の女と好奇心旺盛な少年が出会うことによって、おそるおそる映画の進行に付き合う覚悟が出来るのである。
少し即物的で、しかしどこか背徳のにおい漂う女ハンナが観客をひきつける。
少年マイケルも同様で、性に目覚めたばかりの青臭さと貪欲さを漂わせる過渡的な風貌がわれわれの心に引っかき傷を残すのだ。
原作のレールに乗りながらも、二人の男女を中心に物語が動き出す。
観客は、映画が創りだす新しい世界に向き合うことになるのだ。
年の差21歳の女と少年の情事には、かならず少年による本の朗読が介在する。
<情事>の対極に置かれた<朗読>が、図らずも関係の浄化を果たしているのではないかと感じるのだが、なかなか仕掛けは複雑なのだ。
「読んでもらうのが好き」・・・・ハンナのことばの裏には、実は信じがたい理由があった。
そして、そのことがハンナの一生を左右することになる。
決して人に知られたくない事実は、後に明らかになっていく。
<愛>と呼ぶには、どこかそぐわない関係。
睦みあいながら、無視や軽侮が互いを傷つける重苦しい関係が、ハンナの失踪によって終止符を打たれることになる。
マイケルがハンナの居所を知るのは、何年も後になってからのことだ。そしてハンナが少年に本を読ませた理由も分かってくる。
ハンナは字が読めなかった。
非識字者としての事実を知られたくない思いが、ナチス裁判の被告となったハンナの真相申し立てを阻むことになる。
一方、法学専攻の大学生となったマイケルは、修習期間中の公判傍聴でハンナの秘密を知ることとなり、自分とハンナの過去を明らかにしてでもハンナの無実を証明しようとする。
しかし、戦火の中ユダヤ人収容者を閉じ込めたまま焼死させた女性看守たちの首謀者として、罪を認める署名があるとのでっちあげをハンナは甘んじて受け入れる。
「自分は当時字が書けなかったのだ」と申し立てられないハンナの心中を思い、マイケルは裁判長への証言を直前で中止する。
無期懲役の刑が確定して、ハンナの長い獄中生活が始まる。
マイケル(長じてからはレイフ・ファインズ)はハンナのために、カセット・テープに本の朗読を吹き込んで送り続ける。
その朗読を元に、手に入れた書籍と照らし合わせながらハンナは文字を覚える。手紙も書けるようになる。
あるときマイケルのもとに、所長から刑期を終えたハンナの身元引き受けをお願いできないかと連絡が来る。
「身内が誰もいない」というのだ。
彼は悩んだ末に、彼女を受け入れることする。
その行為がいまも愛によって支えられているのかどうかはわからないが、かつてマイケルが関わった出来事のけじめをつけようとした行為であることは間違いない。
マイケルは刑務所を訪れ、ハンナとも面会して出所後の住まいと仕事を用意することを約束する。
すべて準備を整えて、来週迎えに来る・・・・と。
しかし、訪れた日、マイケルの前にハンナが姿を現すことはなかった。
その日の朝、彼女は自殺してしまったのだ。
缶に貯めた紙幣と預金通帳を、戦下の火事で唯一生き残った収容者の娘に渡してくれとの手紙を残して。
一方、マイケルに宛てた遺書らしきもの、ハンナの意思を示すものは何もなかった。
生き残りの収容者の娘は、缶だけを受け取った。
中身のお金は、ユダヤ関係の識字普及に関わる団体とか協会にでも寄付したらどうかと提案して。
戦争下の収容所で母娘二人だけ生き残り、その後亡くなった母と同じような年齢に達したかつての少女は、収容所にいたころ大事にしていた缶を何者かに盗まれていたのだ。
この鮮明なアピール、些細であればあるほど胸を衝くシーンによって、映画はもっとも重いテーマの一つに回答を出す。
飛び切りの映像効果、少女だけの宝物である赤い(原作では紫色)小さなお茶缶が、ハンナの責任と償いについて深く考えさせる。
ハンナ以外の犯罪者の責任まで背負ったことを明かしながら、生き残った娘に償いを受け入れられなかったホロコーストの重みを、このシーンは告発している。
原作で、寄付を受け取ったとの証明を持ってハンナの墓を訪れるまとめは、人間としてどう対処していいのか結論の出せなかったミヒャエル・ベルク(マイケル)の、無力感の表れなのかもしれない。
映画『愛を読むひと』は、原作の『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク)と補完しあいながら、日頃考えたこともない高みに導いてくれる。
重層的なテーマのどこに焦点を当てて受け止めるのか、鑑賞者(読者)の内面にかかっている。
本の中に感じたハンナ・シュミッツの体臭については、また稿をあらためて触れることにしよう。
ミヒャエル・ベルク(原作での少年の名前)の動物的感性と共に・・・・。
「あんたの何でも知りたがることときたら、坊や!」
(未完)
原作と映画双方を照らし合わせながらの見事な2回続きの評言に脱帽させられ、以前もリアルタイムで読ませていただいたのに、いままた改めて窪庭さんのいい小説への愛情あふれる視線を楽しませていただきました。
誰にも生涯の数冊ともいうべき小説があるのでしょうが『朗読者』は私にとってまぎれもないその数本に入る1冊です。
物語性の深さと人間というものへの深い愛情、そして人類が獲得した言葉へのオマージュと畏れがこれほど混然一体になった小説のうれしさ・・・・
そして映画は言葉の世界を、見事に映像という別言語で表現した人たちの凄味・・・窪庭さんはその両方をくっきりと腑分けして見せてくださった。
発表時リアルタイムで読ませていただいたにもかかわらず、いま再び新鮮な気持ちで読ませていただきました。ありがとうございます。
小説『朗読者』はベッドサイズの本箱において落ち込んだ時などにパラパラとめくります。ですから頭の部分はもう何十回も読むことになって空で暗唱できるほどになってしまいました。(10ページほどのところでストレスが和らぎ眠ってしまうので)
映画化された方も好きで・・・・今夜あたりまたビデオ屋で借りてこようかな。
この作品のほかに私の生涯の数冊の別格ともいえる1冊に『動かないで』といいうイタリアの作家マーガレット・マッツアンテイ―ニの小説がありますが、まだ映画化されていないのか、探しても映画は見つかりません。どなたかもし映画化の情報をもっておられたら教えていただけませんでしょうか?
すいません勝手にこの場を利用してのお願いで・・・・
小説『朗読者』が、生涯に感銘を受けた数本のうちの1冊との述懐、同じ思いです。
といいますか、最初の10ページほどをソラで暗唱できるおやじ様には及びもつきませんが。
また『動かないで』という作品を教えていただき、さっそく読んでみたいと思いました。
いつも様々の示唆をいただき、指針にさせてもらっておりますこと、感謝とともにお伝えしたいと思っております。ありがとうございました。