武家屋敷の続きです。
これは茶室だそうです。
どおりでしぶい。
石でできたバスタブ。太っていたら入れません~。
会津が生んだスーパー才女。「鹿鳴館の華」と呼ばれた大山捨松さんです。
会津藩の家老の末娘。小さい頃はしあわせに暮らしていたろうに、まだ7歳のときに
戊辰戦争で会津若松城は激しい砲撃にさらされます。女たちは、そのとき着弾した
不発弾に一斉に駆け寄って濡れた布団をかぶせるという、「焼き玉押さえ」という
作業をしており、捨松さんもまだ小さいのにその仕事をして、大けがをしたそうです。
戦争に敗れた会津藩は、飢えと寒さに苦しむ下北半島に封じられます。過酷な環境に
苦しんだ山川家は、末娘を函館に里子に出したのでした。
北海道開拓使は、岩倉使節団に随行して、若者たちを官費留学させることになります。
そこで戊辰戦争で「賊軍」とされた東北諸藩の士族の連中は、名誉挽回と考えて
子弟たちを送り出すことにし、そのなかに11歳になった捨松を送り込むのです。
米国じゃ同級生らに"Sutematsu!"と呼ばれたんだなw
捨松さんは、それまで本名は「咲子」といいました。しかし10年以上に及ぶ米国留学に
出すにあたり、「捨てたと思って帰国を待つ(松)」という思いで改名させたそうです。
彼女は大変優秀で、大学2年のときは学生会会長になったり、卒業のときには総代の
ひとりに選ばれたそうです。卒論の講演を行い、それは地元新聞に載ったんだって。
しか~し、帰国したときにはもう23歳。当時の日本では「売れ残り」だったのですw
米国の友人に手紙で愚痴っていますが、そりゃあひどいよねェ。。。
それでも陸軍卿であり伯爵であった、前の妻との間に3人の娘がいる大山巌に惚れ
られて、招待客が千人を超える結婚披露宴を行うことになったとか。何せ英独仏語を
流暢に話せて、舞踏会や夜会でも優雅にふるまうことのできる捨松は、最高の
ファーストレディーだったわけですから。
それで捨松さんは、欧米諸国との外交の社交場で活躍し、「鹿鳴館の華」と呼ばれる
ようになったのです。
その後、彼女は看護婦養成学校の設立に尽力、留学時代の同志であった津田梅子の
女子英学塾の運営にも協力したのです。
小さな頃から波乱の人生を歩み、華があり、美人で才女。これはもう、格好のNHK
連ドラに使える話だと思うんだけどなあ~。竹鶴政孝と同じで、留学時代がちと
難しいかな?
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