続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)日の中に。

2021-12-10 07:26:22 | 飯島晴子

   日の中に某寺院あり蝶黄なる

※某寺院、金閣寺だろうか。
 日本には、超(飛びぬけてスゴイ)黄金の寺院がある。

 日の中はジツ・チュウと読んで、昵、宙。
 某寺院あり(某寺院有)はボウ・ジ・イン・ユウと読んで、茫、地、由。
 蝶黄はチョウ・オウと読んで、調、追う。
☆昵(慣れ親しむ)宙(大空)は茫(遠く広い)。
 地(大地)の因(事の起こり)の由(いわれ/わけ)を調べ、追う(追及している)。

 日の中はジツ・チュウと読んで、実、注。
 某寺院あり(某寺院有)はボウ・ジ・イン・ユウとよう読んで、謀、字、隠、誘。
 蝶黄はチョウ・オウと読んで、調、応。
☆実(内容)を注(書き記す)謀(図りごと/計画)がある。
 字に隠して誘う。
 調べると、応(他のものと釣り合う)。

 日の中はジツ・チュウと読んで、昵、知友。
 某寺院あり(某寺院有)はボウ・ジ・イン・ユウと読んで、某、爾、淫、雄。
 蝶黄はチョウ・オウと読んで、兆、負う。
☆昵(ちかづく)知友の爾(あなた)。
 淫(色ごとを好む)雄(男)であれば、兆(物事が起りそうなきざし)を負う(被る)。


M『永遠の明証』

2021-12-10 06:54:18 | 美術ノート

   『永遠の明証』

 裸婦の全体像を5つに切り分け、それぞれをフレームに収め、人体と分かる位置に縦列させている。どう見ても裸婦である、間違いはないが、裸婦像とはいいがたい。

 裸婦像を各部位ごとに描き、連鎖させれば明らかに裸婦像の認識は成立する。しかし裸婦像とは言い難い。
《裸婦像であって裸婦像ではないが、裸婦像と認識せざるを得ない》

 これをどう解釈したらいいのか、例えば、この裸婦像には両手が描かれていない。しかし(手が無い)とは誰も疑わない。両手は鑑賞者の頭の中で漠然と存在し、描かれてはいないが、在るのだという意識が無意識に働く。
 固定観念は崩しようがなく脳裏に深く刻まれ、たとえそれが条理に反している場合でも、条理に結び付けるという不条理が強くという心理作用を証明している。
《観念には永遠の持続性があることの明証》ではないか。

 写真は『マグリット』展・図録より


賢治『序』5。

2021-12-10 06:14:45 | 宮沢賢治

 それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのけしきで
 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
 ある程度まではみんなに共通いたします
 (すべてがわたしの中のみんなであるやうに
  みんなおのおののなかのすべてですから)

 畢竟はカ・キョウと読んで、化、教。
 風物はフ・モツと読んで、普、持つ。
 記録はキ・ロクと読んで、鬼、禄。
 記録はキ・ロクと読んで、祈、録。
 虚無はキョ・ムと読んで、巨、謀。
 虚無自身はキョ・ム・ジ・シンと読んで、拠、務、字、審。
 程度はテイ・ドと読んで、定、努。
 共通はキョウ・ツウと読んで、胸、Two。
 中はチュウと読んで、注。

☆化(教え導く)教(神仏の教え)を普く持つ(手にもって離さない)。
 鬼(死者/亡霊)の禄(さいわい)を祈る録である。
 巨きな謀(図りごと)には拠りどころがある。
 務めて字を審(正しいかどうかを明らかにし)定(物事を一つに決めるように)努める。
 胸(心の中)でTwo(二つ)を注(書き記している)。