続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)十一月の。

2021-12-13 07:19:48 | 飯島晴子

   十一月の梅の葉青く散る人家

 十一月はジュウ・イチ・ガツと読んで、自由、市、合。
 梅の葉青くはバイ・ヨウ・セイと読んで、売、様、声。
 散る人家はサン・ジン・カと読んで、参、人、訛。
☆自由な位置で合(いっしょになって)売る様(ありさま)の声、参(仲間に加わった)人には訛(言葉が標準と違っている)がある。

 十一月はジツ・イツ・ツキと読んで、実、逸、付き。
 梅の葉青くはバイ・ヨウ・ショウと読んで、唄、様、賞。
 散る人家はサン・ニン・カと読んで、賛、認、彼。
☆実(内容)が逸(秀いでている)に付き、唄(うた)の様(手本)として賞賛され認められた彼である。

 十一月はジュウ・イツ・ガツと読んで、事由、逸、合。
 梅の葉青くはバイ・ヨウ・ショウと読んで、倍、要、章。
 散る人家はサン・ジン・カと読んで、散、腎、果。
☆事由(わけ)が逸(隠れている)。
 合(あわせると)倍(増す、多くなる)になる。
 要は章を散(バラバラにすること)が腎(大切なところ)であり、果(思い切ってやること)である。

※十一月の梅の葉は青くなく枯葉色である。
 青をセイと読んで、省(注意して見ると)散っている人家である、ということか。(全体、注意して見よ!ということかもしれない)


M『目』

2021-12-13 06:59:58 | 美術ノート

   『目』

 漆黒の画面中央に丸く開けられたところから覗く人の目、眼差し。
 こちらを見ているだろうか、否、鑑賞者はこの『目』を見ている。見られているが見てもいるという関係である。

 目は視界すべてを認識する器官であるが、ごく小さな点にも均しい穴である。にもかかわらず、世界への認識はここが入り口となり瞬時の判断を委ねるものである。
 物質界(景色)だけでなく、精神界をも直感できるので、この目の情報収集はつみ重ねられ、やがて観念としての律を築く。

 直視は正解を導く。しかし、その眼の奥に潜む過去のデータの集積が判断の是非を検討し、異なる答えを導き出す可能性もある。
 正か否か・・・『目』は第一の関門である。

 写真は『マグリット』展・図録より


賢治『序』6。

2021-12-13 06:28:35 | 宮沢賢治

 けれどもこれら新生代沖積世の
 巨大に明るい時間の集積のなかで
 正しくうつされた筈のこれらのことばが
 わづかその一点にも均しい明暗のうちに
   (あるいは修羅の十億年)

 新生代沖積世はシン・ショウ・ダイ・チュウ・セキ・セイ・と読んで、真、照、題、注、責、整。
 巨大に明るいはキョ・タイ・メイ・と読んで、拠、他意、冥。
 時間の集積はジ・カン・シュウ・セキ・と読んで、字、換、修、晰。
 正しくはショウと読んで、章。
 筈はカツと読んで、活。
 一点にも均しい明暗はイツ・テン・キン・メイ・アンと読んで、逸、展、襟、冥、案。
 修羅の十億年はシュ・ラ・ジュウ・オク・ネンと読んで、衆、等、自由、憶、念。

☆真の照(あまねく光が当たる=平等)が題(テーマ)であり、注(書き記す)責(なすべき仕事)として整える。
 拠(より所)は、他意の冥(死後の世界)であり、字を換(入れ替え)修(整えて)晰(明らかにすると)章(文章)が活(生きてくる)。
 逸(隠して)展(広がる)襟(心の中)の冥(死後の世界)の案(考え)であり、衆・等(人々)の自由・等(平等)に憶(思いを巡らす)念(考え)である。