続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)初夢の。

2021-12-24 07:21:20 | 飯島晴子

   初夢の池に近づく服の色

 初夢はショ・ムと読んで、庶、務。
 池に近づくはチ・キンと読んで、遅、僅。
 服の色はフク・ショクと読んで、復、職。
☆庶務(様様な事務)が遅れている。
 僅(ようやく)復(元に戻る)職(担当している役目)。

 初夢はショ・ムと読んで、書、謀。
 池に近づくはチ・キンと読んで、千、襟。
 服の色はフク・ショクと読んで、複、殖。
☆書く謀(はかりごと)は千(沢山)襟(心の中)にある。
 複(重ねて)殖(増やす)。

 初夢はショ・ムと読んで、諸、無。
 池に近づくはチ・キンと読んで、知、禁。
 服の色はフク・ショクと読んで、伏、嘱。
☆諸(もろもろ)の無知、禁(戒め)に伏(従い)嘱(委ねる/頼む)。

 池に近づくはチ・キンと読んで、質、金。
 服の色はフク・ショクと読んで、福、殖。
☆初夢の質(内容)は、金(お金)の福(幸)が殖(増えること)だった。


M『終わりなき認識』

2021-12-24 06:33:57 | 美術ノート

   『終わりなき認識』

 室内から見た光景…心象風景である。
 視点は山の頂に在るが、宙に浮く球体のその上の人物にも焦点が当てられている。つまり認識においては視点や角度は自由であり空間の把握は、重力(物理界)に左右されない広がりがあるということである。
 未踏の山の頂にも対面可能であり、球体に立つ人物さえも近しく空間を共有している。有り得ないことも認識作用においては仮定することができる。
 認識は、現実(見える光景を)を把握する作用であるが、非現実(見えない光景/空想)をも想起可能である。

 ただあくまで個人的なエリア(精神の窓)から発し、個人的な感覚に収まるものなので、他人、あるいは世界との共有は限界がある。
 しかし、洗脳という他人の思考を根本的に改造するという現象も認識であるから、認識の限界に線を引くことは常識ではあり得るが非常識の枠内では通用してしまう。

 『認識』は正否における境界線を持たず終結という概念は無い、ということに気づかされるものである。(そうだったのか・・・)、認識に終わりはない。

 写真は『マグリット』展・図録より


賢治『高原』

2021-12-24 06:15:12 | 宮沢賢治

   『高原』

 海だべがど おら おもたれば
 やつぱり光る山だたぢやい
 ホウ
 髪毛 風吹けば
 獅子踊りだぢやい


☆『光が源である』

 皆(すべて)の講(話)はSun(太陽)が発(放つ/明らかにする)望(願い)を普く推しはかることであり、詞(言葉)を視(よく見ること)が要(肝心)である。