こういうことなんです。これが、わたしたちの秘密なのです。これだけ申しあげたら、アマーリアがこの秘密に首をつっこまないことも、もはやふしぎにお思いにならないでしょう」
「で、手紙のほうは、どうなってしまうんですか」
☆こういうことなんです。これが、わたしたちの秘密です。アマーリア(作り話/マリア)がこの話に関わらないのも、まったく不思議でもなんでもないのです。「で、手紙(書いたもの)のほうは」と、Kはたずねた。
『青春の泉』、堂々たる墓石に刻まれた《ROSEAU》とは葦(考える葦/パスカル)のことらしい。
右には例の葉の変容、左には巨大と思われる鈴、空は異様に赤い。
これらの条件を『青春の泉』と称している。
青春・・・地球の青春という意味だろうか、遥か未来から見た若かりし頃の地球の墓標である。かつて、ずうっと昔、まだ地球の創生期ともいえる頃の記念碑。
「人は考える葦だと言い、一羽の鳩がオリーブの葉を口に加えて戻った所から、箱舟に残された雌雄一対だった動物が大家族にまで増殖して世界を広げていったらしい」と、超未来人たちは墓標を前にして密やかにも語り合う。
「言葉だよ、あの巨大な鈴の口から放たれる言葉という威力が若き地球を世界にまとめ上げたんだよ。直立した一葉、葉の中にあるのは葉脈でなくて、地中に在るべき根だろう、逆転というより嘘なんだ。言葉の中には欺瞞が大いに幅を利かせていたということだと思うよ。」まことしやかに超未来人たちは若かりし頃の地球を想像する。
超未来の空は赤く燃えているのだろうか、地平線は淡いブルーと赤の混色である。超未来人が語る《青春の泉》の時代とは隔した状況なのに違いない。ここでは現在の地球は、墓標に見る過去/古代なのである。
《湧き出でる泉のごとく休みなく喧々囂々天地をひっくり反すような虚実の混迷があったのではないか》超未来人たちの想いを描いたマグリットの夢想である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
芽が出て 膨らんで 花開く…けれど、枯れない花はない。いつかは劣化し、この地上から姿を消していく。
花の季節も記憶にないわたしだけれど、68年という時間を経過したことだけは事実であり、いつか散るという不可逆を生きている。すでに下降・劣化の旅の途中、息が切れるし、記憶も定かではない。思い出せないことだらけで、一日の大半を探し物をして暮らしている。
あのものはどこへ消えたのだろう・・・ため息、頬杖、遠い眼差し。
整理整頓に疎い、置いたら置きっぱなし。重ねて見えなくなったものは無に等しい。それを探そうとするのだから徒労に終わりるしかない日常。
付けて加えて気力の低下、《今日出来ないことは明日に》という怠慢、明日は永遠に来ないかもしれない。
《まずいな、まずいな》自身を叱咤する。
枯れた花にいくら活性剤を注いでも再び返り咲くということはない、諦念、うす笑い・・・。
しかし、年配者には年配者としての生き方があるに違いない。役立たずの後ろめたい立場を卑下してはならないと、自分に言い聞かせている。
《美しい黄昏》を目指す権利。
人として正しく優しさに溢れた温かい選択を目指したい。たとえ、今日が冷たい冬の最中であっても。
『Ⅰ-4-4 [無題]』
全体はブルー(水色)で着色されている。即ち、海を想起させるオブジェであり、平面をある種の勾配をもってくり抜かれている。
この曲線に覚えがある!波が打ち寄せ退いていくあの感じではないか。
では、上の二つの正四角形に見えるマスは何だろう、きっかり四角ということは人為を想起させるから、これらは社会の暗示かもしれない。波(海)に比しての大きさである。
端にある物は電気のスイッチを想起させるものであり、エネルギーを引き出すものとしての暗示だと思う。
実際、海流には多大なエネルギーが発生しているはずであるが、それを還元しているのだろうか。
赤道付近で温められた熱はグリーンランドのほうへ向かう、その熱は…という風な熱エネルギーは閉じられたままかもしれない(一万年の周期では無理はない)。しかし、大気における対流(偏西風・貿易風)もあり、本来地球はエネルギーの中に暮らしている。
波風の発するエネルギーは不安定であるゆえに、供給には課題が残る。
しかし、でも・・・《この海の中には多大なエネルギーが潜んでいる》と作家は思案する。
(写真家神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
「眼をつぶっているね。」カンパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白い瞑った眼にさはりました。頭の上の槍のやうな白い毛もちゃんとついてゐました。
☆願いの詞(言葉)の路(物事の道筋)は散(ばらばら)である。
化(形、性質を変えて別のものになる)を合わせていると吐く。
冥(死後の世界)の願いを問えば、照(あまねく光があたる=平等)であり、双(二つ)を吐くことを望んでいる。
すると、バルナバスは、その手紙を投げだし、届けにいこうという気もなく、かと言って、眠ろうという気にもならず、靴つくりの仕事に取り掛かり、一晩じゅうあそこの床几に腰をかけたままでいるのです。
☆すると、バルナバス(生死の転換点)は、愉快に死を迎えられない手紙を並べます。負債者の現場不在を調べ、暗闇の中の影(幻)を来世ではやりすごすのです。
仰向けに床に寝そべる少女は、折り曲げた膝の上に蝉らしき昆虫を乗せ、両者の吐く息を一つにさせている。(蝉は狼/犬であるスケッチも)
どういう意図なのだろう。人類と蝉(あるいは狼/犬)の共通項は、生物・有機体・動物…どちらも呼吸をするものであり、同じ空気を吸って生存を持続させている。
同じ波動・粒子の光の中、その大気を生命の源としている仲間である。性的関係にあるような属ではないが、同じ時空に生き、まったく等しい空気振動の渦中に生を確認している。
人も昆虫(狼/犬)も♂♀があり、生殖の連鎖で同じ個体を作りだすものである。そして、この作品の放つエロスは、生きるものの性という抗うすべのない宿命的なものを感じさせるような気がする。
少女の膝に乗るの飛翔体でもある蝉の組み合わせは、強者(人類)と弱者(昆虫)であるが、ここでは《無抵抗の少女と逃げることのない巨大化された蝉》というように逆転し、あたかも均衡を保つ関係のようである。
生きとし生きるものの平等である関係。弱肉強食を常とする社会の構図を沈黙のうちに否定している。
生の根源・・・等しく生きるものとしての、優しさの主張である。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
「ほんたうに鷺だねえ。」二人は思はず叫びました。まっ白な、あのさっきの北の十字かのやうに光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、浮彫のやうにならんでゐたのです。
☆路(物事の筋道)を示す図りごとを、詞(ことば)で究(つきつめる)と吐く。
僕(わたくし)は重ねた二つの課(わりあて)の考えを路(物事の筋道)に従い、照(あまねく光があたる=平等)を告げる。
悪しは普く懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)。
それから、ふたりですべての事情を仔細に検討し、彼が首尾よくやったことの品定めをし、最後には、これはつまらぬものだ、そして、このつまらないものでさえ眉唾ものだということがわかります。
☆そして、わたしたちすべての先祖の不安を調べて証明してくれます。そして、首尾よくやったと認め、進むべきを見つめるのです。疑わしいものは非常に少ないのです、
『中に犬・飛び方』って何のことだろう。何の中なのだろう。作品には補助の4本の支柱が立っているけれど、むろんそんなことを言っているのではない。
中・・・大気/空中に犬が飛び上がっても、継続は不能である。飛び続ける機能を持たないものが空中にその存在を預けるという想定の一瞬を切り取り作品化する。いわば無謀な試みといってもいいかもしれない。
若林奮の作品は並べて不安定な状態、静止あるいは継続が困難な刹那を提示している。そのことに拠って本質を垣間見せるという逆の発想を含んでいる。
犬の飛び方…犬が飛ぶには全身の神経を集中させ、歩行に要するエネルギーを遥かに超える力を放出しなければならない(犬の上に見える大きな泡状の形体がエネルギー量を暗示している)。
同時に犬には相応の重力がのしかかるはずである(犬に付随している鉄の錘)。この錘に等しい(あるいは超える)エネルギー量があって初めて犬は飛べるのである。
犬が飛ぶ、その飛び方におけるエネルギーの試算であり、存在というものがいかに圧力をかけられたものであるのか、そして飛ぶ(自由)というものがいかに反発のエネルギーを要するかの提示である。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)