そうこうしているうちに、書記は、机の下に置いてあるたくさんの書類や手紙類の中から、あなたあての手紙をさがしだします。ですから、それは、そのとき書いたばかりの手紙ではないんです。むしろ、封筒の状態から判断すると、非常に古い手紙で、長いこと机の下に放置されていたのです。
☆そのあいだ書記は机の下にある記録や書類をさがしだします。あなたを解放するための先祖の手紙、要するにそれはその時書いたばかりの手紙ではないんです。むしろ評価された預言者の時代で、長いことそこで保存されていたのです。
一生このまま家の中に閉じ籠っていたい。けれど、あるとき足が萎えていくのを感じ、このまま歩けなくなる不安に襲われた。
外に出なくては…歩かなくては!
元来、陰気な人間である。どうしても外へ出れないわたしの取った手段(?)は、何らかのイベントに申込み、その期日が来たら出なくてはいけない状況を作るという、面倒くさい方法だった。
十年余りの月日が流れた今でも、一歩出るその瞬間が重い。
出ざるを得ない状況に支えられて、辛うじて今の小康状態を保っているのだと思う。
「歩こう会」や二つのサークル、博物館や美術館のイベントがらみの外出・・・本日も博物館のイベントで三崎の『チャッキラコ』を見に行き、午後からはサークルと忙しく出歩いている。
バス停などで友人に会うと、
「お互いよく出かけるね」などと声をかけられる。
「毎日出かけているの?」と、聞かれるので
「まさか・・」と苦笑い。
健康維持のための外出で、マグリットや若林奮にも出会えたことは、幸いと言うよりほかはない。
外へ出れば、必ず何かが待っている、そう信じて今日も出かける予定。
『影』
一般には、光を遮った後ろにできる黒い(暗い)形を言い、実体のない物や現象、あるいは黄泉の国を指すこともある。
この作品のどこを指して『影』と称したのだろう。中央の木はシルエットであり、どこから光が来ているのか不明であるが、右に影が落ちている。背後に立体感をもって描かれたパイプの影も薄っすらと右に落ちているように感じるが、真上からのようにも思われる。
地面は何故か水色であり、地表面であることを疑わざるを得ない彩色である。水面(海・・・)ではないか。
とすると、二つの物は浮いているのだろうか。もちろんこのような形で浮くことは有り得ない。
木とパイプ…大きさに対する概念を覆す配置である。背後のパイプが生い茂った樹木より大きいとは考え難い。
空は一見すると、夕照のようであるが、仰ぎ見た上空は暗澹としている。今にも雨が降りそうな曇天の夕照などあるだろうか・・・。
全てが条理を覆している。
この光景を『影』と題している意図は何だろう。自然の理から外れた現象は現実ではない。
『影』は夢想、人為的な工作であり、虚偽である。しかし、わたし達は目の前に差し出された光景を疑うことなく信じる傾向がある事を思うと、精神を揺さぶる警告のようでもある。
在る(描かれてはいる)けれど、無い(真実ではない)ものを、影と呼ぶのだとマグリットは示唆している。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「鶴、どうしてとるんですか。」
「鶴ですか、それとも鷺ですか。」
「鷺です。」ジョバンニは、どっちでもいいと思ひながら答へました。
☆較べて覚(悟り)、縷(つらなる糸)の路(物事の筋道)を示し、統(一すじにまとめる)。
そういうときには、あるいはバルナバスの姿を眼にとめてくれるかもしれません。もっとも、クラムが眼鏡をかけずにものが見えるとしての話ですが、バルナバスはそれを疑っています。クラムは、そういうとき、眼をほとんど閉じているのです。まるで眠っているようで、夢の中で眼鏡を拭いているとしか見えないそうでう。
☆傍らで眼にとめていたかもしれません。もっともクラム(氏族)が苦しむことなく輝いていればの話ですが、バルナバス(生死の転換点)はそれを疑っています。まるで苦しみを夢の中で清めているとしか見えないそうです。
京急上大岡駅で集合。
金剛院(大黒天)~弘誓院(福禄寿)~寶生寺(寿老人)~宝積寺(恵比寿)~市電保存館(昼食)~密蔵院(布袋)~真照寺(毘沙門)~金蔵院(弁財天)の七福神を巡った。
9キロコース(17000歩)、山坂のない平坦な道のり、楽チンだけど、それでも・・・。
メンバーの尾谷さん、
「あらっ、わたしなんか新橋から横浜赤レンガまで33キロを5時間45分で歩き切ったわ」
「すごいわ」
「食事・トイレなしでね、信号は走って渡ったわ、だって待ち時間がロスになるから」とのたまう。
「凄すぎ!」といえば、
「今度はね、ランドマークタワーの階段、3000段を昇りきることに挑戦するの」と、涼しい顔。
「・・・」
(膝が痛くって)なんてよろよろ歩いているわたしは完全なる敗者。
こんな猛者連(メンバーの男の人は彼女より4.5キロ速かったとか/5時間)と一緒の「歩こう会」
(のろのろ歩いてばかりでごめんね)謝りながら感謝。《わたしも頑張りたいな》って寝言みたいに呟いている。
『ぐるりの会』の皆様、本当にありがとうございました。
『再開』、何が再び開かれるというのだろう。
ごく簡素な白い植木鉢ではあるが、台の上には高台、その上に持ち上げて置かれているという念のいった勿体ぶった有りようである。
傍らの籠には三個の卵、三位一体を暗示しているのかもしれない。背景はベタ…漆黒から茶色(土色)へと変化している。
植木鉢(人工物)の中からは草花に縁どられた異世界の幻影が現れている。
緑なす平原の中央には一本の木が葉を茂らせて伸び、雲の散在する青空は明るい。
この光景がなぜ植木鉢(人工物)から幻影化されているのだろう。植木鉢に育った物がこの光景であるということかもしれない。木は一見、青々と葉を茂らせているが、木の根を見ると少々脆弱であり、大地に根を張っているというよりは倒壊を危惧されるような感じが過る。
高台を敷いた植木鉢に開かれた幻の世界。 園の中央の木、天(空)と地(草原)そして、光り、三個の卵(正体の未だ判明しないもの)から想起される世界。
世界を席巻する観念というオブジェ・・・。
『再開』 The Resumption は、取り戻すこと、回収ではないか。
《観念に拘束された精神から本当の自由な精神を取り戻すこと》
マグリットは巧妙な手段で、それを呟く。そう思えて仕方がない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「いまでも聞こえるぢゃありませんか。そr、耳をすまして聴いてごらんなさい。」
二人は眼を挙げ、耳をすましたした。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧くやうな音が聞えて来るのでした。
☆文の字を調べると、辞(ことば)の図りごとが現れる。
虚(実体のない)辞(言葉)の冥(死後の世界)には鬼(死者)の謝(詫びる、お礼を言う)がある。
普く兼ねている推しはかる有(存在)は、隠れた問いの記である。
これは、全然クラムが指令したのではないようdす。彼は、静かに本に首をつっこんでいるだけです。ときおり、と言っても、ふだんでもしょっちゅうしていることなんですが、たまたまバルナバスが行ったときに、クラムが鼻眼鏡を拭いていることがあります。
☆まったくクラム(氏族)が引き起こしたのではないように見えます。彼は静かに本を読んでいるだけです。確かに幾度か非常に苦しめられたことがありますが。たまたまバルナバス(生死の転換点)が行ったときに苦しんでいたことがありました。
スーパーに勤めている人のコメントに、「5000円のステーキをこともなく買っていく人もいれば、値下げのシール満杯の人もいる」とあった。
(見られているんだな)とドッキリ。
言わずと知れた《安物買いの銭失い派》のわたし、百均で時計を買ったらバンドの留め具が壊れてしまったので、東南アジア系の人が短期のみの商いをする店で大枚(?)1000円を払って腕時計を購入。
けれど時を待たずして、またもや故障?針が止まってしまった。
(アッハハハ)
こんなもんだわ、わたしって・・・。
バスを待つ間、恨めしくネジを回したら・・・えっ!動いたわ。
今時珍しい《ねじ式》
なんだか嬉しくなってしまった。
安物買い派も悪くないね・・・。(数々の失敗、あれはみんな授業料だもの、惜しくないわ)