『彼岸』
お墓と地平、そして天空の遥か彼方にある太陽。
それっきりの作品であり、それだけに遮るものなく墓と太陽が直線で結ばれている世界である。
《墓=死》肉体を失った魂は果たして在るのだろうか。決して断じて答えを見いだせない問いに人は思いを重ねる。
隔絶された世界、異空間は見ることはできない。しかし想像することは可能である。
愛しい人の死、二度と会えない人の所在は地の果てにさえも見いだせない。巡るということのない断ち切られた断絶は永遠の神秘である。
探した果ての、ずっと向こう、太陽よりもずっと遥かな向こう。
指針の太陽は存在の軸である。
(墓=死)と(太陽=生の源)を結ぶ一本の線条を仰ぎ見るとき、人はその神秘に震撼とするのではないだろうか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
男の子はまるでパイを喰べつやうにもうそれを喰べてゐました。
☆談(物語)の試みは、空(むなしく)空(根拠がないもの)である。
これが、あの決定的な朝でした。わたしは、決定的な朝などと申しましたが、じつは、前日の午後のすべての瞬間も、おなじように決定的だったのです」
☆これがあの決定的な身元不明者(モルグ)の死体公示所です。わたしは前述の正しく小舟と同じように、どの瞬間も、決定的だったのです。
『生の発明』
曇天、そして平原、緑の前には一人の人がいる。男女の識別が困難な人であるが、仮に男であるとすれば、その前に白い布で覆われた中身は女(あるいは男)かもしれない。頭部を思わせるトップの形状や肩の位置などから人を想起させる誘因を与えている。
『生の発明』、生は海から発生したと言われている。酸素が増えたことで生物が増殖し、人類にまで至った由。自然発生的な経由から知的生命体としての人が誕生したと思われる。
発明なんてことがあるだろうか。
主なる神は土のちりで人を作り、命の息をその鼻に吹きいれられた。(略)主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。(『創世記』より)
生は発明不可である。クローンという発明はあるが、生の根源・原初の発明ではない。
ただ物理的に無理な難題も、精神界では可能である。
地平は決して球体などではなく、(中央の木の実を食べたことで善悪を知るものとなり、(略)命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない。『創世記』より)
生の連鎖によって、人はその生命をつないでいる。
『生の発明』という不明な事象を信じるか否かは、白い布で覆われた物体が人であるか否かを想定するのと似ている。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
姉はわらって眼をさましましまぶしさうに両手を眼にあててそれから苹果を見ました。
☆詞(言葉)が含む霊(死者の魂)の衆(人々)は幻(まぼろし)である。
平(平等)な果(結末)が現れる。
わたしが読みおわるやいなや、あの子は、ちらりとわたしを見てから、また手紙を上にあげましたが、もうそれを読もうとしないで、いきなり小さく引裂いて、その紙きれを窓の外の男の顔に投げつけ、ぴしゃりと窓をしめてしまいました。
☆読みおえるやいなや、アマーリアはわたしをちょっと見て、それを上にあげましたが、読むことなくずたずたに小片にして投げてしまいました。
外の男は幻影であり、閉ざされた(天)食→死の入口にいたのです。
大した労働もしていないのだから、睡眠時間を削ってなにか他のことに使いたいと思う。けれど、思うだけで実行されないのは、よく眠るからである。
本を枕元に置いても…背表紙だけ見、すぐに睡魔に襲われるわたしは本を寝床に運ぶ習慣は皆無である。
なんでこんなによく眠るのだろう、恨めしく思うが、眠れない人の意見を聞くとかなり辛いらしい。
床の入ると、すぐ眠ってしまい、時間(人生)を損しているような気分でいるけれど、所詮自分はこの程度の軽薄な人間なのだと諦めるしかないのかもしれない。
あれもしたい!これもしたい!でも時間は限られている。
(思い通りにいかないのが人生)と割り切ってしまえば、眠りすぎる時間を惜しむなんて笑止。
不完全燃焼・・・まぁ、いいか。
『悪い奴ほどよく眠る』、馬鹿ほどよく眠るのかもしれない。
《シンメトリーの策略》
裸の下半身の左右に白い布で覆われた物体が置かれている。生身の裸身には肩から上がなく(つまりは腕もない)、切断面は白い布で覆われている。
手がかりは陰部・臀部・太ももだけであり、膝から下も不明である。
男根を描かないことで女と決めつけるのは早急かもしれず、太ももや胸の薄さを見ると男のようでもある。
この裸身に欠けている部分を探し、左右にある白布に被われた物体にそれを求めるのは自然の成り行きではないか。
男か女か・・・若干の差異はあるが、ほぼ同じ形状であり、当然のごとく下半身の上体を想像せざるをえない。
何物であるか不明であるにもかかわらず、描かれた条件から想像の範囲を狭めていく。
白布で覆われている物体は見えない。つまり情報/ヒントはゼロである。
しかし、無から有を引き出す感覚は、観念的な情報処理によらざるをえず、この場合は人間という肉体条件の欠如部分を当てはめようという欲求に大方は逆らうことが出来ない。
限られた条件の中で接合部分を想起する、右か左かの選択。
選択しようという心理作用、即ち『シンメトリーの策略』である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「その苹果がそこにあります。このをぢさんにいたゞいたのですよ。」青年が云ひました。
「ありがたうをぢさん、おや、かほるねえさんはまだねてるねぇ、ぼくおこしてやらう。ねえさん、ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」
☆平(平等)な果(結末)。
照(あまねく光が当たる=平等)の念(思い)を運(めぐらせている)。
文面は、簡単なもので、アマーリアは、すでにそれを読みおわって、だらりと下に垂れた手に持っていました。こういう疲れきったような様子をしていると、わたした、いつもあの子がとてもいとおしくなるのです。で、あの子のそばにしゃがみこんで、手紙を読みました。
☆アマーリアの持っている書き物は簡潔で、すでに読んでおり、活気なくしたい傾いている国(団体)を支えていました。わたしたちは彼女がいつも大変苦労している様子に好意を持ちました。わたしは、ひざまずき、その書き物を読んだのです。