ある日気づく、わたしはわたしであるより外はないのだと。
不格好な人間であり、ろくでなしでもある。指摘され動揺したり怒ったりするのは愚かもしれない。
(なるほどそうであり、そのとおりである)
自分をありのままに認め、そのうえさらに醜悪の悲観にさらされるのを覚悟しなければならない、即ち老化である。
萎んだ花、枯れた草木・・・今のわたしはまさにそういうエリアに突入している。
(いいじゃないか)と肯定する。
沈む夕日のあの達観、大きく紅色に世界を包む輝き、そういうものを胸の内に収めよう。
わたしはわたしであるより外はないが、わたしであることに誇りをもち、その誇りを汚さないように生きたいと思う。
白露や 死んでいく日も 帯しめて (三橋鷹女)
『大潮』
海が描かれず、青空に散在する雲と規則性をもって並んだ鈴の光景がフレームに収められている。フレームの周囲には堅固な岩石が散在しており、周囲は暗黒である。
これらの条件が『大潮』であるという。
周囲は暗黒であるにもかかわらず影が差している。大潮は干満の差が最大になることであり、新月・満月に起きる現象である。
たしかに明暗の差は最大であリ、昼と夜、雲(水/有機)と岩石(無機)の比である。
岩石はランダム(ありのままの自由)だが、フレーム内の鈴(主張・命令・流言・伝説など)はある種の規則性(不自由)が認められる。
フレームに収められているというイメージから大きさを固定されがちであるが、巨大な宇宙空間にまで広げることが可能であり、時空に限定はない。
《あるがままの自由である原初、あるいは終末》と《言葉による社会の構造を持つ現代》との落差を『大潮』と提示したのではないか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さえへ播けばひとりでにどんどんできます。
☆納(受け入れ)合(あわせること)を乞う。
説(はなし)は字を部(区分けし)謀(計画している)。
趣(考えて)、詞(ことば)を判(区別する)。
「で、ソルティーニは、どうなったのですか」
「ええ、ソルティーニね。わたしは、この祭典の日、それからまだ何度も通りすがりにソルティーニを見ましたわ。あの人は、梶棒に腰をかけたまま、腕ぐみをして、お城の馬車が迎えにくるまでそこから動きませんでした。
☆「で、ソルティーニは?」「ああ、ソルティーニね」とオルガは答えた。
「わたしはこの要塞にソルティーニが何度も通り過ぎるのを見ました。あの人は十字を切ってお礼をしました。終末(死)の(こぐま)座(生死の転換点の入口の門)が迎えにくるまでとどまっていたのです。
孫に電話をしたら、
「今日はお兄ちゃんのパーティなんだよ。ケーキもあるよ」と嬉しそうなハルちゃんのコメント。
パーティ?
パーティなんて言葉を使ったことのない家庭に育ったのに新世代の家庭ではパーティを開くのか?
キヨちゃんは五月生まれ・・・そうか、小学一年生になったので級友を招いて誕生会をするんだなと納得。
(今では誕生会などと言わず、パーティというのか)
隔世の感。
手探りの子育て、そういえば我が家でも子供たちの誕生会などを催したことがあった。文句は出なかったけど(質素に過ぎたかもしれない・・・)
「キヨちゃん、学校は楽しい?」
「うん、たのしいよ」
「給食とか、残さないで食べてる?」
「うん」
「国語と算数とかの勉強もしているの?」
「うん」
これからだね、勉強が楽しいといいね。お友達と仲良く遊べるといいね。
パーティという言葉が似合うような孫たちの世代、明るく楽しいものでありますように!
『遠眼鏡』
壁に設えられた両開きの開口窓に(海と青空と散在する雲)が映っているが、窓を開けた隙間に覗くのは(暗黒)である。
壁あるいは窓は(境界)であり、二つの異空間が共存しているという景である。
青空に浮かぶ雲という景には物理量があるが、開けられた窓から覗く暗黒は質量不定の無である。この二つの場(時空)が共存するということはあり得ない。
青空はあくまで窓の向こうにあり、暗黒もまた向こうである。窓の枠が時空の仕切りになるはずもないが、閉じられた窓からは青空が見え、開けると暗黒が見えるというのは静かなる怪奇現象と呼ぶしかない。
場の変移は時間や距離を伴うが、『遠眼鏡』では(青空=現実)の狭間から(暗黒=原初)が見えるというトリックを仕掛けている。
窓を開けて見える光景の《ずっと向こう》には宇宙の始まり(あるいは終わり)が在るに違いない、という想定である。
精神的な眼鏡は、透明ガラスの向こうに《異次元時空の並列》を垣間見せる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいゝものができるやうな約束いなって居ります。
☆変(移り変わり)を納め、合(一つに合わせる)。
代わりの訳(ある言語をほかの言語で言い換える)という則(きまり)の意(考え)である。
だいたい、わたしたちは、この日は頭の調子がおかしくなっていて、真夜中すぎに家に帰ったときは、アマーリア以外はみんなお城の甘い酒に酔って、のぼせあがっていました。
☆だいたい、わたしたちは、この日は馬鹿みたいになっていて、北にある小舟の家に帰ったときは、アマーリア以外は、甘い霊界の酒で(気持ちが)麻痺していたのです。
明らかに衰退しているわが機能。
昨日は絵を描こうとして白いペンキを購入したものの、さっぱりその気になれず、このペンキをそのままにしていても・・・と、結局二階のベランダの床面を白く塗装することにした。
5月の強い日差しを浴びながらの作業、(このくらいなら軽いわ)と思っていたのに、終了したら階下に降りれないほど目が見えない。
光の中から急に暗部に入ったのだから当たり前なのだと言い聞かせ、ようようキッチンにたどり着いた。
ホッとしたのもつかの間、周囲が赤く染まっている。東・南・西の三面の窓やガラス戸が透き通った紅色!
ダメだ、どうしても回りが赤く見える。このままになったらどうしたらいいんだ~。狼狽えること数分。
目をつむり胸の鼓動を抑えて、静かに目を開けた。
(戻った、普通に見える!)
普通に見えることが、こんなに嬉しいなんて!
最近どうも目の具合が悪い。眼科見てもらっても「白内障でも緑内障でもありません。眼精疲労でしょうね」との診断。
裁縫・編み物・パソコン・・・こんなに便利な目をダメにしてしまったら元も子もない。
ああ・・・。
『誓言』
何に対しての誓言なのだろう。
巨きな石化したリンゴが岩場に支えられてあり、彼方には赤い夕陽(太陽)が海面を染めている。
水平線が目の高さであるから人はリンゴに比して相当小さい。つまりリンゴは見上げるほどの大きいということで、有り得ない光景である。リンゴに象徴される生命や知恵の形骸化ということだろうか。
人を悠に超えるほど大きく高く発展した人類の功績も、海の砂粒を数えるほどの歳月を経たなら絶滅は免れないのではないか。
神に誓った誓言も空しく最期を迎える。
永遠と思われる太陽も何時か滅びの時を迎えざるを得ない。まして『誓言』など・・・時は止まらない。しかし、時という概念さえもリンゴという象徴の中のアイデアに過ぎないのかもしれない。
『誓言』神や相手に固く約束することの儚さ。それでも『誓言』は時空の果てで石化し残存するだろうか・・・マグリットの反問である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)